開催を待ち望んでいた「九州 教室の声に学ぶ会」。結局、昨年9月の「天草の集い」依頼、2会連続の天草開催。天草が誠実に研究を続けている姿がここにある。
僕は朝から温泉につかり、青春の味「三ツ矢サイダー」を楽しんだ。
「ここらす天草」、ここでの研究会も何度目だろう。そういえば、『ここからはじまる国語教室』を執筆するため、ここの2階に何時間も居座ったことがある。あの本の誕生のために各地に書斎をつくったが、その一つが此処だ。いちばん長く居たのは神田駿河台の「山の上ホテル」、続いて上五島若松島の「えび屋」、佐世保駅前の「三浦町教会」、京都駅上の「ホテルグランヴィア京都」。「ここらす」では第10章を執筆したことを覚えている。
金子実践。先週、教室をたずねて観察した実践が、言語化されてまとまっている。圧巻。金子さんの実践は理屈ではない。理屈を超えたところで子どもが学び浸っている。断片的な参観ではこの力強さは分からない。
だからこそ、子どもも教師もどこまで読み込めば自分の納得にたどり着けるのか手探りしながら問い続けている。解決のゴールの先の納得のゴールが分かっていない。そしてその分からなさを楽しんでいる。
その楽しさは子どもと成長することを心地よく味わっている金子流の楽しみ方だ。粋な教師だ。
小川実践。昨晩、2時間弱、二人で語り込んだこともあり、将吾の見ている子ども観のしなやかさは十分理解できている。将吾の教室全体を見る目と一人を見る目は、打者を見る目とランナーを探る目とバッテリーに任せる目、ピッチャーがプレートを踏む前に外野手の守りの深さ浅さを確認する目、これらを瞬時に変える遊撃手ならではのスイッチによって養われたのだろう。二塁手だった僕にはできなかったフィールドワークだ。だから、「ぼくのは結びついているかなあ」の声を逃さなかったんだ。あれは偶然ではない。聞こえた声を聞き取った観察の力なんだ。
とにかく天草は丁寧で誠実だ。
勉強をしたごほうびは、
デザート(by みかんちゃん)も、
さあ、天草。また来ます!
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。