避難所の話が終わると、教師は少しだけ教室を見渡した。生徒は誰一人として教科書を開いていない。それでも教室には、不思議な集中が生まれていた。教師は、「今から先生が話をします。みなさんは、静かに話の続きを待つのではなく、問いが生まれたら、その言葉を口にしましょう」と告げた。学校では、教師の話は最後まで静かに聞くものだと思われがちである。しかしこの時間、教師はその反対を求めた。問いが生まれたら、言葉にすること。それが、この時間の約束になった。
教師は何事もないように、「きょう、みなさんの教室に来る前に、先生はスーパーエレナ有川店に寄りました」と話し始め、そこで口を閉じた。教室は静まり返る。生徒は教師を見ている。教師も生徒を見ている。しかし、続きを話そうとはしない。この沈黙は、話を忘れた沈黙ではなく、教師が意図的につくった時間であった。問いは説明の中からだけ生まれるのではない。「もっと知りたい」と思う余白の中から生まれることがある。教師は、その余白を教室につくろうとしていた。
数秒の静寂の後、教室の左手から小さな声が聞こえた。「……なんで?」ほとんど同時に、別の場所からも「なんで?」という声が上がる。教師は笑顔のまま「リンゴを買うため」と答えた。すると生徒はすぐにもう一度、「なんで?」と問い返す。教師は「家に帰ったら食べようと思って」と答え、また話を止めた。説明を続けず、問いが生まれる余白を残したのである。
教師は、「先生はこれから、そのスーパーに売っていたリンゴの絵を描きます。みなさんは、ここまでの問いを一枚ノートに書きましょう」と言い、黒板へ向かった。白いチョークで、左に1個250円のリンゴ、右に3個450円のリンゴを描く。絵は決して上手ではなかったが、生徒の視線は自然と右側へ集まっていった。3個450円。1個あたり150円。生徒の興味は、すでにそこへ向かっていた。
教師Yはこの場面を、「教室内に、『誰もが自由につぶやいて、認められる雰囲気』ができていました。多い生徒で30を超える問いが生まれ、国語が苦手な生徒でも10ほどの問いを書いていました」と振り返っている。ここで記録されているのは、単なる問いの数ではない。問いを口にしてもよいという空気が、教室の中に生まれ始めていたという事実である。
教師Mも、「最初は戸惑っていた生徒たちが、少しずつ自然に問いを口にし始める姿を見て、『問い』は特別なものではなく、日常の中にあるものなのだと実感しました。また、生徒たちの構えが解け、安心して授業に入っていく流れがとても印象的でした」と記している。二人の参与観察者の言葉は異なるが、見ていたものは同じであった。それは問いの数ではなく、教室の空気が変わる瞬間である。
教師は、「問いを立てなさい」とは言わなかった。「問いは大切です」と説明したわけでもない。ただ一つの沈黙をつくり、一つの短い話を語っただけである。しかし、その沈黙の中で、生徒は自分から「なんで?」と言った。この「なんで?」は、教師に正解を求める質問ではなかった。学びの始まりを告げる《私の問い》であった。教室は、教師の説明を聞く場所から、自分の問いを口にしてよい場所へと、静かに姿を変え始めていた。

