あくなきひたむきさ、優劣の彼方へ

「こんにちは」が重なる。重なる「こんにちは」が響き合う。その響きの中に僕の「こんにちは」も入り込んでいる。凛とした学校は挨拶と部活と掃除が光ってる。いい授業はここから生まれる。

大きな身体の不器用そうな男、M。実は不器用ではない。この不器用そうな立ち方は誠実さの上にある。冷たい水の入ったバケツを横に畳んだ雑巾を動かす手はしなやかで無駄がない。背中合わせにかがんでいる男子生徒の動きはMとまるで同じだ。

して見せている。やらせて考えさせている。考えさせて身につけさせている。

教室で育みたいことがブリキのバケツの中からあふれている。授業前に校舎をひとまわりして全生徒の掃除の姿を見ることができた僕はもうかなり満足していた。

学校玄関に立てられた見事な墨書。教室前に飾られた愛くるしいボード。「ようこそ達富先生」から伝わるのは形ばかりではない。心の声。そう,ブリキのバケツから出てきたことばだ。そのことばに僕の心ははずむ。。

授業、それは教室という大きな布。縦糸と横糸の主人公は言うまでもない。小さくまとめることも大きく広げることもできる。結果的に畳まれることもあれば学び手を包み込むこともある。学び手を優劣の彼方へ乗せて行ける白い雲のようになることだってある。

Mと生徒の50分。身体を不器用そうに動かす器用な大男が、ここまで細かい仕事をするかというほどに大きな布を織りなしていた。生徒に届けることば。生徒はMが何を言うかぜんぶ知っている。分かっている。それなのにMのことばを待っている。予想通りの声を聞いて安心している。Mも分かっている。生徒の心をつかんでる。生徒のくちもとがいつ緩むか、生徒がなぜ書き出せるのか、生徒がそれ以上の力を出しつつあるのかをぜんぶ知っている。どうすれば出し切れるようになるのかをつかんでる。その教師としてのひたむきさがここにある。大村先生の「優劣の彼方へ」と重なる。できる子、できない子ではない。みんなやってる。どの子も学んでいる。それがあたりまえの教室。

僕はMの応援団の一人として、Mのファンの一人として、お金のないパトロンとして教室に居るつもりだった。だけど、僕はひとりぼっちだった。置物のような無機質なモノと化していた。この教室には僕の居場所はない。いや、Mと生徒以外の誰もがここではモノだ。

それなのに、この心地よい疎外感は何なんだろう。置いてけぼりの気持ちよさは何なんだろう。

目の前で繰り広げられる伸びやかな布がつくる事実。その布の中に入ろうとは思わないし、その布の上に乗れるとも思えっていない。ただこうしてMとすべての生徒の真剣で丁寧な授業という営みのごく近いところに居られたことだけで十分だった。

といいつつ、この次は部活という帆布が織りなす営みに近づいてやろうと作戦をたくらんでいる。