授業は学習

教室は子どもにとって学習の場、教師にとっては授業の場。指導の場。学習を作り上げる場、学習が生まれ出づる場でなければならない。

きょうの二つの授業はどちらもその通りの教室だった。教室の文脈をとらえずに観ると、とらえどころがないとか、てんでばらばらとか、何を教えたかったのかが見えないとか、そんな陳腐な感想が出てくるのかもしれないが、そうじゃない。そんな感想こそが陳腐の極みだ。

きょうの授業は国語で学級づくりをしている瞬間、そのものと言ってよい。

子どもの扱いは子どもがいちばん上手い、というのは僕のモットーだけど、教室の子どもは動きながら(あるいは動けない時にも)振り返り、動きながら(あるいは動き出すちょっと前に)見通しをもつということをしっかり証明したのがきょうの授業だった。

授業中、担任の先生がもっとも重点を置かれた指導は、本の帯を作るという言語活動(いわゆるCフレーズ)のことでもなく、物語の見どころを見つけること(いわゆるAフレーズ)でもなかった。考え方(Bフレーズ)でもない。この教室が今この瞬間に学ばなければならなかった「単元を通してみんなで学ぶこと」がくっきりと学級に共有されていた。そんなさわやかな、そして尊い瞬間に参観者である僕には何のメモも不要だ。

授業後、適切な瞬間に適切な言葉で学級づくりをしてのけたこの若い友人に、僕は、自分が若かった頃には気づきもしなかったということは棚に上げて、「いい授業でした」の言葉を贈った。本当にいい授業だったからそう言うしかない。嘘をついたりごまかすことはできないんだから。