四万十川を上流に向かって車を走らせる。目指す学校は全校6人の小学校。
5年生と3年生の女の子二人が肩を並べて学んでいる。
本を読むのが大好きな5年生とその女の子とおしゃべりをするのが大好きな3年生。となりの複式学級からもまあるい声が聞こえてくる。
こういう学び舎に身を置くと、僕は自分の体たらくが恥ずかしくなる。
どんな教師になりたかったのか。こんな教師になりたかったんだ。
それなのにどうなんだ。何に心を動かしながら生きているんだ。心は錆びていないか。磨いてきた力は衰えていないか。まだまだ磨き上げるつもりはないのか。子どもの声は聞こえているのか。聞き逃している声をどうしてるんだ。
神様が問う。
雑な仕事をしてはいませんか。あたたかい仕事を残していますか。人の声の中で生きていますか。明日が見えていますか。明後日を創り出そうとしていますか。
小さな小学校が僕に語る。まだ間に合いますよと。
こんなはずじゃなかったと、僕は小さくなりかけた自分を言葉にする。
四万十の川の水は何も知らないのに何もかもお見通しのように僕の前を通り過ぎる。
いまいちど、子どもの声の中で生きてみたいって、そう思っている。
心見つめさせてくれた四万十の旅。
沈下橋と僕の鞄,向こうには菜の花,そしてふりそそぐ春の陽。この切り取られた景色を見るたび、僕は心あらたにいられそうな気がする。
僕はいま長崎に向かう飛行機を待っているところ。一昨日の僕と何一つ変わっていないように見えるけど、ちょっと美しくなった僕になって長崎に帰るつもり。ちょっとだけ、教師になったばかりの時の僕の心に戻って帰るつもり。
飛行機の窓から見たかつて働いていた大阪市の灯り。25年前、僕はここに居た。この明るすぎる街。きょうのふたつだけの机が並ぶ教室。どちらにも子どもが生きている。子どもと教師がいる限り、そういる限り。
神様、きょうも一日をありがとうございます。