下駄を履かせたからこそ見せられる憧れの風景がある

学習に夢中になっている子どもは,それまで使ったことのない新たな言葉を使いたがる。そんな事実について,昨日,ある原稿にこんなことを書いた。

作品を一読して「温かい気持ちになる」という感想をもった子どもがいる。その子どもに「温かさ」ということばだけで立ち止まらせるのではなく,自分のもった「温かさ」の質や程度を確かめさせ,他の言葉で表すことができないかどうかを検討させる。「温かさ」では十分に言い表せないかもしれない。「読者としての自分」の読解にふさわしい言葉を集めさせ,比較させ,吟味させ,そして選択させる。そんな時間があってもいいじゃないか,という僕の考えだ。

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生徒たちは、「盆土産」の温かさを感じる描写や言葉を選び、その温かさを他のどのような言葉で言えるのか、というそれぞれの《私の問い》を立てます。自分が選んだ言葉はどの文脈や描写から導かれているのか、それはどんな言葉で表せるのか、なぜ自分はその言葉で表さなければならないのか。自分の解釈を言い当てるふさわしい言葉を見つけることは自分の読解をもっているということです。子どもは奇抜な言葉を使いたいわけではありません。自分の大発見を平凡な言葉による表現で済ませたくないのです。

(中略)

一方で、『温かさ』という言葉を他の言葉に言い換えさせることに否定的な考え方もあるようです。洒落た言葉を使うことだけに意識が向き、実際は深い読解になっていないという指摘です。確かに辞書で調べたことをそのまま写すだけという姿はよく見られます。言葉の意味をしっかり理解しないまま、たまたま出会った言葉を安易に使ってしまっていることも少なくありません。しかし、語彙学習初期に見られるこのような姿は、語彙学習を継続していく中で見事に解消されます。新しい言葉を使いたがる時期から、使いこなしたくなる時期へと子どもは成長していくからです。むしろ、そのような意識に高めていくことこそが教師の仕事です。質の高い語彙学習は継続していくことで実現します。子どもは新しく出会った語彙を使いたいのです。このような子どもの成長に対する後ろ向きな指摘は、子ども理解を怠った軽はずみなものです。年間計画を立てた語彙学習を継続している教室においては杞憂のものです。
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僕は京都に育ったせいか,新しいものはすべて山の向こうから来ると思っていた。京都は三方が山に囲まれているから。だから,京都駅に立っているだけで,新しい自分になれる気がしていた。

そう,新たなものをふれることは今の自分を見つめることになる。もちろん,いにしえの京都のことも大事にしていたし,大好きだった。

新たな言葉にふれるということは,新たな考え方を取り込むということだ。思考の結果を言葉にすることもあるが,言葉が思考を引き寄せることも多い。

これまでの言葉を使いこなし,使い切ることもたいせつなことだ。

ただ,新たな考え方でこれまでの言葉を見つめ直すことで,これまでの言葉をもっと理解し,新たな言葉との関係に気づき,新たな言葉を自分の中に取り入れ,「意味や価値」創造することができるようになる。

子どもに言葉の下駄を履かせよう。ちょっと慣れない言葉にふれさせよう。その言葉を使ってみさせよう。

下駄を履いたら,塀の向こうが見える。壁の向こうに行きたくなる。新しい景色が見える。知らなかった匂いがする。耳を傾けたくなる音色が流れている。見たことのない色が広がっている。

だから,「よいしょっ」と壁をのぼる。ぴょんと向こう側に飛び降りる。

そのとき,きっと下駄は脱ぎ捨てられているに違いない。いつまでも教師の下駄を履いている子どもはいない。壁の向こうの大地を裸足で駆けていく子どもが目に浮かぶ。

私たちの仕事は,下駄を履かせて,塀の向こうに憧れさせ,壁に上らせてぴょんと飛び降りさせること。そう,「自分で下駄を履いて,自分で脱ぎ捨てたんだ。だから,自分でこんな大地を走れるんだ!」と思わせることができたら最高だ。