昨日、ある研修会で話しながら思いついた。《問い》とは、根っこなんだと。
ときどき、僕のたとえの話が上手だと言ってくださる方がいる。それはそれでたいそう嬉しいことなんだけど、たとえの話なんぞ、たかが枝葉。大事なのは幹の部分。そう考えていた。
しかし。しかし、だ。幹がしっかりと立つには根っこが必要。今さらだが、これは間違いない。根っこがあるから樹は立つ。風雨に耐える。
聞くところによると、樹木というものは外から見える木全体の姿と同じくらいの高さ深さ広さ広がりの根っこが土を握りしめ、大地に立っているらしい。
《問い》がしっかりしているからこそ、論理に支えられた中心的主張が揺れない。
じゃあ、どこからが根っこ?どこからが幹?
地表と地中とのさかい目。土の中か外か分からないあたりまで、ちょっと出ているところあたりまでを根っことしよう。なぜなら、《問い》は往々にして主張とつながるものだから。
他者の《問い》の上に自分の花は咲かないよなあ。周辺の根っこに頼るばかりじゃつまんないよなあ。
だけど、自分と仲間たちの根っこが網目になって大地を握り、水を蓄え、生き物を守り、森になったら楽しいだろうなあ。自慢だろうなあ。自分を誇らしく思うだろうなあ。仲間をさすがだと感じるだろうな。一緒に生きているという幸せ浸るだろうな。
という、たとえの話は枝葉。
言いたかったのは、《問い》は根っこだっていうこと。