この夏、たくさんの人に聞いてもらったぼくの語り。いま、車窓の流し絵と重ねてふりかえってた。
語りはいきもの。その場所、そのとき、そこにいる人。文脈が語りをしつらえる。だから、語った文脈が語りたいことを変えてしまうことがある。だけど、聞き手の文脈に変えられたくないものもある。外せないものがある。
聞き手の文脈から外れても語りたいことがあるとき、聞き手の文脈に沿えていないとき、ぼくの語りの文脈がひとりぼっちのとき、ぼくは焦り、やりきれない気持ちに覆われ、未熟さの中に身を潜めたくなる。
だからこそ、ほんとうに語りたいことを平易平明なことばにしたい。そのことばがぼくの語りの文脈を鮮明にし、聞き手の文脈を具体的にする。この二つの文脈が、ぼくと目の前で聞いてくださってる方との共有の創造物という第三の文脈として完成し、残っていけばすてきなことだ。
ぼくの語りたいことのひとつは‥‥‥
《「じゃあ、」から動き出す自分たち学び》
ってこと。「自分たちの」と書いて、(主体的な)って読みたい。だから、子どもの「じゃあ、」が生まれる単元のはじめをつくろうよ。
こんなことがぼくの胸の高鳴りとなって、この夏、ぼくをただひたすらに語らせていたのかもしれない。