ちょっとしたこと,綴っておこう。モレスキンのノートとモンブランの万年筆,時々たつログ。
たつログ
えとせとら
ナイロビ便り
孤独のせっかく昼グルメ~鹿島編
九州発!《問い》からはじまる授業
けた外れに面白そう!
日本にはない風景。この草むらの中にハイエナやゾウやキリンが深呼吸しているんだろう,と思うと,いてもたってもいられない。
おそらく学校の正門。黄色いトヨタ車がスクールバスなんだろうか。この車に乗って登校する子どもに単元学習を。
平田先生,面白くやろう。いつでも日本から,長崎から応援しているゾ。
と,LINEに!
……………
4月8日AM4:45
ナイロビ市内のホテルに泊まっています。
聞いたことのない鳥の鳴き声で起きました。
草原は正に国立公園です。「そうげん」という語を体験できました。
それ空が広いです。
気候は夜は寒いくらいに感じます。
今日はこちらの携帯の契約をしに行きます。
ナイロビの先生方も全員お腹壊したと言われていました。
僕のお腹は今は大丈夫です。
……………
いよいよ全国放送
NHKのADさんから連絡が届いた。先日,佐賀県内で放送され,翌週には九州全体に再放送された「変わる国語の授業」のこと。
東京の放送センターが「非常に興味深い、おもしろい」とのこと。
全国放送されるらしい。
2023年4月15日(土),NHK「おはよう日本」午前6時ごろとのこと。
もちろん,災害など突発的な事案があれば真っ先に省かれると思うけれど,九州じゃないところにお住まいの「たつログ」仲間のみなさん,佐賀版,九州版を見逃したという仲間,ぜひ,ご覧ください。
ドバイだより
行ってこい,昌志!
学生を迎える準備
おめでとうございます
きょうは拓郎さんの誕生日。曲を流しながら大学への運転に心はずむ。
いくつになられたのか、ということよりも、たくさんの曲をありがとうございます、を伝えたい。
どうかどうか、お元気で。喜寿、おめでとうございます。
かがめる教師に
かがむ。声を聞くためにはかがむこと。
かがんだとき,どこを見つめるか。もちろん,子どもの目。
いや,ときどき,一緒にノートを見ることも,作品を追いかけることも,大事。
そして,何を見るわけでもなく,ただただ,子どもの声だけに集中することがあってもいい。
目を見つめ合ってやりとりすることも大事,
だけど,教師の目のメッセージのない,声だけで考える,
ほかに何もたよらない自分の心と考えだけでことばを伝える,聞く,
そんな時間もあっていい。
だけど,そばでかがんでいる。
かがんでいるけれど,そばにいるんだけど,今は声でつながる。
そんな関係もいい。
かがめる教師,かがめるからこそ可能になる「あいだがら」って,きっとある。
かがむこと。この誠実な動きのもつ奥深さにこれからも学んでいきたい。
学び続ける教師
学位授与式っていいものだ
見ましたよ,って?
孤独のせっかく昼グルメ~早岐編
お帰り,祥平
離陸までのわずかな時間
孤独のせっかく昼グルメ~唐津編
教室に生きる
理屈ではなく実践
大村先生のことば――
よく聞ける子どもにしたい。
それなら面白い話をたくさん用意していることです。
面白い話とはどんな話か。自分も面白いと感じる話のことだ。
だったら、面白い言語活動ってどんな言語活動か。
いうまでもない。やりたくないことをさせるなんてもってのほか。やりかたが複雑なものもいや。やりがいのないものなど押しつけないでくれ。
「先生、やってみて楽しかったんですか」「どこが工夫のしどころですか」「これって、役に立ちますか」って問われてきちんと答えられるか。
大村先生のことば――
子どもにとって
何が幸せといって
一人でしっかりいきていける人間に
育てられることぐらい
幸せなことはないと思います
間違いなく存在する教室の中のさまざまな「差」。教師がその「差」を気にしないことは残念なこと。教師が見逃すことは許されないこと。
子どもがその「差」を気にすることは残念なこと。子どもが差に萎縮することは許されないこと。
大村先生のことば――
たくさんのむだをしなければ、
ひとつの玉を拾うことは
できないのです。
できれば、その日の朝には授業の組み立てを決めたい。
だけど、それができないときがある。
教室までの階段、入り口までの廊下、
そのぎりぎりまで迷うことだってある。
でも、迷えることってぜいたくだ。幾通りもの導き方をもっているわけだから。
使わなかったてびき、「帰り道の二枚」、
使えなかったてびき、「生徒への質問にこたえるための数百種のことばたち」、
それをつくるためにかけた時間は気が遠くなるほどだ。
だけど、使わなかった判断をした爽快感に僕は満たされる。使えなかった気づきへの期待に僕は励まされる。
そして、何より使えた「登場人物カード」をいとおしく思う。
大村先生のことば――
「きょうはどの鉢に・・・・この鉢に」
草花の鉢植えの水やり。
同じ草花でも
鉢の中の土の質も量も同じでない。
だけど、どの草花にも花を咲かせたい。
どの草花も花を咲かせたがっている。
「咲きたいのです」の声が聞こえてくる。
その声を聞き、花を咲かせる。
それが教師の仕事だ。
大村先生のことば――
何々をしなさいと言わずに
いつのまにか
そうさせてしまえてこそ教師。
言語活動とは教師が問わない学び
言語活動とは子どもが自分に問う学び
しかし、
どんな言語活動でも子どもが問えるわけではない
ふさわしくない言語活動もある
ふさわしいくてもうまく出会わせることができずまずくなることだってある。
いや、そっちのほうがうんと多い。
ちゃんと単元びらきしていないのに言語活動のせいにしてはいないか。
教科書の言語活動を目の前の愛する子どもの姿で動かしてみる。教科書の言語活動を伸びようとしている子どもの姿で立体化してみる。
いつのまにか子どもが言語活動してしまっているようにすることが、教師の力だ。
大村先生のことば――
ありあわせ、
持ち合わせの力で授業をしないことです。
何かを加えて教室に入り、
何かを得て教室を出る。
僕の単元づくりや単元研究なんて薄っぺらいものだ。
何も加えられていない。
いい気になってはいないか、自分にたずね、自分をいましめなきゃ。
だけど、安房中の生徒からは大いなる教えることのヒントを得た。
23人の生徒は惜しみなく「教え方」を教えてくれた。
この教室から生まれた僕へのお土産をもう一度、返しに来なくっちゃ。
大村先生のことば――
「先生」
そう呼ばれるのに
足りるだけの人に。
さて、
まだまだだということが分かった今。
妙にすがすがしい。
次はどの教室に行くことができるだろうか。
2年生になった安房中の教室に来てみたい。
教室が仕事場でなくなった者が授業についてどうこう言うことは恥ずかしいこと。だけど、僕はまだまだ授業人でいたい。錆びついてしまわないように授業し続けていたい。
と、壮からメール。仲間の教室の風景が新聞に載ったとの届いた。
てらまい。丁寧な仕事のあかしです。
三月の椿
指月会 for たつゼミ
北の海からの贈り物
長崎は雨の朝
きょうはずっと校正という仕事をしていた。あまり得意ではない、はず。
まず、見直すということがじれったくなってきている。そして、コンピュータ画面に慣れ切ってしまっている。
だから、紙の文字をじっと見つめて、何度も何度も言葉を確かめて、しかも字数を数えることなんて、、、
が、これがめちゃくちゃ楽しい。楽しいでは済まされない。奥深い。夢中になる。やめられない。大好きだ。
って、大袈裟だけど、僕は校正が好きかもしれない。つくりたい。
とにかく、僕は雨の朝から日差しのお昼を感じながら、風ただよう夕方まで、ずっと部屋にこもって校正をしていた。ときどき、丸窓から海を見ながら。
それくらい、今、手がけている本づくりに魅了されている。
単著でなければ、という研究者がいる。
編著こそ生きてきた感謝と僕は思う。
みんなに支えられてここまで来た。あと少し。あと少しで、みんなと100年あとまで一緒にいられる。本を作るってことは、これまでの記録だけではなく、今からもずっと同じ本の中で生きていられるってこと。
そういうこと,のはず。
夕方の散歩道、見上げる大村湾の空は別格。どこまでも気分のいい日は、何もかもが気持ちいい。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。僕は本のできばえの自信はないけれど、この本の中でみんなとみんなが一緒に居続けられることは、この上なく幸せなことだと分かっています。
ぐっとくる授業
やっぱり言語活動。
やっぱり言語活動モデル。
だから、やっぱり学習課題。
まず単元びらき。
何より子ども研究。
そして評価規準。
ああ、やっぱり学習課題。
僕のノート
(1日目)
・学習履歴-ありがとう集会-前単元-結びつける-場面ごと-今回は人物
・何を結びつけるのか-心に残ったところを探しながら聞いてください△
・登場人物すみれちゃんの絵カード・学習課題の提示
・Aフレーズの登場人物△
・誰ですか-すみれちゃんと書けばいい
・自分は自分の名前
・楽しそうだけど難しそうの声
・すみれちゃんって何が好きだったっけ△
・最後,もうすぐ「わたしは三年生」の歌を作ってみましょう。
・どんな歌を作りますか△
■言語活動モデルの制度
僕のノート
(2日目)
すっとする授業
きょうから第1期佐賀合宿。といっても泊まることはない。三日間連続で教室に学ぶ機会。
第1期の授業者は平田昌志。
平田昌志は子どもの声をすくい取るのが上手い。3分後の活動を先取って子どもをわくわくさせるのは見事。
じゃあ、30分後の見通しは?というのがきょうの課題。
授業は作られたものではないし作ろうとし過ぎるものでもない。だけど、子どもと創っていこうすることは大事。
子どもの声と一緒に創る。
子どもの感覚的で、少し足りない、だけど見事な気づきを含んでいる声をどのように言語化するか。教師が言語化したことをこれからはその子どもが一人でできるようにするにはどのようにかかわるか。それが果てしなく奥深く、限りなく楽しい。教室に働けることに慣れてはいけない。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。教室は僕の頭に灯りをともします。
授業のあと味がいいから
授業は私のもの,って生徒が言っている
いい一日になる。
まちがいない。
はじめまして。のあとはもちろん気持ちのいい緊張感。生徒もきちんと座っている。
単元びらき。僕はとにかく丁寧な授業をめざしている。
「じゃあ」のことばで,生徒が動き出す。
おいおい,「そんなに熱くなるの?『少年の日の思い出』の登場人物の整理だよ!」って感じ。
納得したら,すぐ座る。そして,僕の声に耳を傾ける。
気持ちのいい達成感。「じゃあ,足りないところ。もっといいこと考えたところ。確かめたいところをどうぞ。」
黒板のところに来る生徒。席で語り合う生徒。
だけど,教室はひとつ。みんながみんなの気配の中で学んでいる。僕はとにかく気持ちいい。
じゃあ,書いてみようか(言語活動のはじまり)。
「先生!」って,担任の先生を呼んでいるのかと思ったら,僕じゃん。
僕,絶対,かなりうれしそうな顔をしていたに違いない。
「また来ます。」の声を置いて,僕はこの中学校を後にした。
授業後,
こんなに幸せな気持ちになったのは何年ぶりだろう。
27人の生徒の名前,全部,言える。
神さま,きょうもいつくしみをありがとうございます。のぞまれた仕事の小さな役割を果たせた気持ちです。
I did Good Job!って感じ。
ロケット発射!
さあ,屋久島。
都会
小さな小学校の大きな声
北海道から戻った日曜日、長崎は快晴。祝福の日曜日。
愛犬、久しぶり。
五島椿が咲いた。
こんな日は瞳をとじて黙想するのがいちばん。
一昨日の四つの学年の授業は、どれも僕たちを学びにいざなってくれた。
6年。「だから先生、しつこいくらい言ってたんですね。」この言葉は、教師の繰り返す学びどき(Aフレーズ)が子どもに染み込んでいた証拠。だからこそ、今、書き上げた文章のAフレーズにかかわった部分に線を引かせてみてはどうだっただろう。
特別支援学級。思考のスピードと活動のスピードのズレを子ども自身がコントロールできるような機会をつくりたい。ともすれば「同じ」を求めてしまう僕たちは、「違い」からはじめるのがいいのかもしれない。
3年。教師は、子どもが書いたことに感動するだけではなく、書けたことに感動しなくっちゃならない。量と質とスピード。とりわけ、書かなければならないことが書けたとき、子どもは書き切ったことに自ら感動する。感動を書くのではなく、書けたことに感動する。そのとき、「書いたもの」での不確かな評価ではなく、本当の意味で「書けたこと」を評価できるのである。
1年。30分間のひとり学びの進め方をさりげなく示したい。後半の協働学習になるまでの学びを例示して一緒にデザインしたい。そしてそれを黒板に書いておくことで、1年生は安心できる。
実はこれらのことは言語活動を通した学習に限ったことがらではなく、どんな学習においても有効なこと。
言語活動を位置づけた単元学習は、これまでのスタイルを打ち消す考え方ではなく、完成させるための提案なのだ。昭和22年試案、26年試案に始まった現代教育を整理統合した上に、今からの「教えること」がある。
子ども研究をうたうならば、子ども研究の方法を具体化しなければならない。主体的な学びの実現を目指すなら、主体的な学びに役立つ教師の仕事を明示しなければならない。
午後の3時間の協議はかけがえのない時間だった。僕はこの学校にまた来たいと思った。このメンバー、この仲間となら、もっともっと学びたい。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございました。北の丘の小さな実践は大きな声となり、北の大地に響きはじめています。
この小さな小学校の教師たちは、今、できていないことを残念に感じているのではなく、もちろん、やろうとしないことに逃げるのでもなく、できないこと、だけど今から必要なことをやってみることにひたむきなのです。そうすることが、これまでの「教えること」を点検することにもなることを知ってもいます。
できていないことが残念なのではなく、やろうとしないことが残念。
すでにやりはじめ、動きはじめ、高まっている小さな小学校の大きな声がどこまでも白い雪原に響きます。
この小さな小学校、かけがえのない「今」を創造しています。
そうそう、帰り道、空港までの寄り道で食べたほっき貝とほっき貝カレー。北海道にはまだまだ驚かされることばかり。
授業と教師の仕事
朝は日高昆布の出汁茶漬け。
「居酒屋 徳」での酔いは残っていないけれど、また新鮮な身体に戻った感じ。
さて、小学校到着。
「教えるということ」を再考することしばしば。
教えるということは、一人でも学び続けられる人に育てること。それに尽きるように思う。
だから、小学校1年生へのかかわりかたと中学生とのかかわりは同じじゃいけない。
同じ学級の中でも、同じように教えられる場合と個別にかかわらなきゃならないときとがある。それを時間がかかるからとか、準備が大変だからとか、教師の都合や子どものせいにし、たったひとつのだけの、思いつきのような計画で進めようとするのは間違っているように思う。いく通りもの手立てがあって、その中から最適な計画を選ぶことが必要だ。
言語活動を設定さえすればいいという考え方は間違っている。《私の問い》を立てさせれば主体的な学びになるというものでもない。振り返りましょうと言えば、どの子どもも振り返れるというものでもない。
もう一度「教えるということ」を考え直そう。教師の仕事を子どもを主語にして書き表してみよう。
そんなことをうんと考えたきょう。ホロシリ牛乳が妙に濃く感じる。
神さま,きょうもいつくしみをありがとうございます。
さあ、北海道だ
ひとつめの乗り換え駅。
さあ,北海道。お昼過ぎには北の大地だ。
たった2時間ほど離れただけなのに,空港が凍ってる。
ホームが凍ってる。
そんな中,幸せなにおいただようお弁当屋さん。夏に来たときも気になってた「ほっきめし弁当」。
今回もがまんがまん。お昼はもう決めてある。
苫小牧。僕はこのトマコマイの音が好きだ。さて,どうにも気になる店に連れて行ってもらった。
五郎ちゃんが言うとおり,北海度のカレースープとお味噌汁の親戚のようだ。ラーメンに麩が入っている。
ちょっと,写真を失礼!
さあ,これから研修部と研究についての打ち合わせ。北海道の午後は短い。もう日が傾きかかっている。
夜はこの辺りでいちばん美味いと評判の「居酒屋 徳」へ。
お造りもジンギスカンの唐揚げもまあなんと美味いこと!
神さま,きょうもいつくしみをありがとうございます。
授業を楽しむ
鹿児島の中学校で授業をする機会を得た。僕の授業力なんかすっかり錆びついてしまっているのに生徒の前に立てることになった。
単元は,甲斐利恵子先生の「ルロイ修道士への弔辞」を大いに参考にさせてもらっての「達富版 ルロイ修道士への弔辞」。
今回の僕の挑戦は,単元びらきの工夫。ちょうど今,プラハの日本人学校で祥平がとんでもなく壮大な単元に挑んでいることに触発されたのかもしれない。がんばろう,兄弟姉妹!って感じだ。
さて,単元びらきの工夫とは。
単元には大きく二つの出会いがある。一つは作品や題材,言語活動との出会い。もう一つは学びとの出会いだ。「もの」との出会いと「こと」との出会いと言ってもいい。言語活動は「もの・こと」の両面をもっている。「どんなものをつくるのか」と「どんなことをするのか」である。
各地で授業を見せてもらっていると,この二つの出会いが切り離されていると感じることが少なくない。どちらの出会いも大切だ。
さて,きょう。
僕は準備してきた音読で教室を動かしたり立ち止まらせたりしようと考えていた。
音読百遍。清原先生から習ったことだ。
ルロイ修道士の「今の思い」と「回想」が織りなすこの小説は,とやかく言うより声で感じるのがいちばんだ。その折々に今と回想を区別させる。
言語活動に活用できそうな部分を選ぶことは先ほどの区別の上にある。
選んだエピソードをどのように表すかは語彙学習の上にある。
語彙は学びとの出会いを深いところに連れて行く。
どのように読むか。
感動を声にするというよりは,書かれた小説を動き出させ,立体化させるという感じ。僕の感動を押し付けず,生徒の感動を無理に引っ張り過ぎず,小説のよさと出会うことで自分の読解に出会い,学びに出会うことができる。
もちろん,途中で学習課題とつなぐ時間をはさみながら。ここは教師の語りの力が必要。
そのためにも、素手で読ませない。読みのかまえをもって作品に出会う。国語の学習での読むことは,土日の読書とは違う。途中で読みたくなくなってしまっては大変なことだ。いや,読みたくなくなっても読み切らなければならない。読み切るためにはいい加減に読み始めてはいけない。読みのかまえをおでこのあたりに集めて一気に読む。読ませる。聞かせる。
音読百遍。必ずできる。
平和は愛のつながり
平和の鐘
アーケードで昭和のランチ
熊本のみち
京都
ひつじメール通信25-1
ついに来た!
こんな日が来るなんて!
いつもは「ひつじメール通信」の愛読者の一人だったのに,その通信に僕の名前があるじゃないか。
まだ,ゲラにも届いていない状態なのに。
「うれしい。」なんて,小学生の作文みたいな言い回し。だけど,うれしい。うれしいものはうれしいしか言い表せないんじゃ!
明日からは,子どもの「うれしい表現」を大いに認めることにしよう!
神さま,きょうもいつくしみをありがとうございます。「ここからはじまる国語教室」産声をあげられそうです。ひつじ書房からの出版です。迷える小羊,羊飼いの声を聞き分ける小羊。僕は長いあいだ迷いすぎてしまっていましたが,ちゃんと僕を待っていてくれた99匹の羊の仲間に感謝です。
待っていてくれてありがとう。100匹でお祝いしよう。4月22日。
以下,ひつじメール通信25-1から転載
◆◇◆ひつじメール通信25-1◆◇◆
2023.1.11
いつもお世話になりましてありがとうございます。
「ひつじメール通信」をお送りいたします。
【房主】より
言語活動に焦点を当てる
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
現在、達富洋二先生編著の『ここからはじまる国語教室』という本
国語科教育という言い方の方が良いでしょうか。このことはちょっ
言語研究も、社会的なインタラクションに関する研究が社会言語科
記号としての言語、自立した体系としての言語という考えはありま
一方、日本語教育だと記号としての言語、体系としての言語を批判
私は日本語教育の潮流を批判したいのではなくて、国語教育の言語
袋かけみかん「夢味」は,「みかん姫」!
僕の妹分,いわく,「十二単を着たみかん」とのこと。
驚いた。
これは「みかん」ではない。「おみかん」,いや「みかん様」,ちょっと仰々しい,「みかんちゃん」,いや軽い。
風景とも馴染む。いいじゃないか。
で,お味は,,,
これで焼酎が飲める,って言っても信じてもらえないだろうけど,飲める。
とにかくかわいくてかわいくて,しかたがない。
結局,「みかん姫」と呼ぶことにした。しっくりくる。
ようこそ,我が家へ!PENNY LANEへ!みかん姫!
ありがとうございました。苓北からのみかん姫に,我が家はときめきの1月9日でした。ほんと,美味しい!
神さま,きょうもいつくしみをありがとうございます。明日,神さまにもこのみかん姫をお届けします。
小さな,だけど本気の研究会
片手があいた
少し大きな仕事を片付けた。
だから、片手があいた。この開放感がたまらない。仕事は嫌いじゃないけど、なにもないっていい。
と思っていたら、忘れかけていた仕事がどどどって、風の又三郎のようにやってきた。
原稿起こし、小学生の作文のてびきづくり、少年の日の言語活動、来年度のシラバスなどなど。
でも、まだ、片手が空いている気分。それだけでっかいことが通り過ぎていったということ。
よし、今夜は町に出よう。いや、庭で食べよう。
どうしよう。やっとクリスマスが来た感じ。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。望まれた仕事ができることに感謝です。
あのじいさんときたら
Quiet Quitting
寒い岬を思い出す
いつくしみをわたしたちに
贈り物
日本中から年の瀬
この学び舎に
Merry Christmas ! from Prague
ほどこしと感謝はコラボレーション
「お父さん、ありがとう」を言いやすいお父さんでありたい。
「大丈夫だいじょうぶ」と言えるお父さんでありたい。
「いつもありがとう」を感じられる自分でいたい。
望まれた一日を送れるよう大人でありたい。
今宵はごんぎつね
お好み焼きをいつ切るか
月曜日はLet it Be
コール・マリーヱ,美しき調べ
旅の帰り道
ようやく長崎本線。
いつもの赤いキャップをかぶった中央軒のおばちゃんが退屈そうにホームの向こうからこっちを見てる。
きょうは途中下車しないでまっすぐ帰る。
中央軒のかしわうどんは、もう少し寒い夕方のほうが値打ちがある。
創立記念日
建学の精神を思い起こし、これまでの成果を謙遜のうちに見つめる。それが創立記念日だと思う。
この大学に身を置いて学生と対峙できることに感謝して声を聞くことにつとめたい。
神さまきょうも一日をありがとうございます。
あなたの「育ち」に
月曜日が好きだ。日曜日の次っていうのが好きだ。僕を新しくしてくれる。
きょうの月曜日もステキだった。小さな存在として,弱い生き方として,自分を見つめる時は元気になれる。
午後,授業の中、僕はまた自分を見つめる。
「先生,見てください。」
この「ら」。この「ら」の変容。
字がととのったことより,この変容に気づき,それを感じることが何よりうれしい。
「先生,見てください。」の声が僕の身体にリフレインする。「上手くなったこと」より,「上手くなった瞬間に一緒にいられたこと」のほうがずっと幸せだ。
普段の「ら」が,よそ行きの「ら」になり,それがあたりまえの「ら」になる。このBeforeからAfterへの気づきと育ちがステキだ。
僕は,学び手の「育ち」が大好きだ。みんなの「育ち」ほどステキなものはない。ステキは感謝の賛美の内にある心の動きだ。その瞬間を,いちばん近いところで感じることができる月曜日に感謝。
学生がつくる授業!
いいじゃないか!この学びの工夫。
なにもかもが僕の予想を超え,でも,それがあたりまえのようにここにある。ステキの連続。
今週は木曜日も日曜日も長崎。
出会えた学生に感謝。目の前の学生の姿に賛美。育ちゆく学生にもう一度,感謝。
少しばかり大きな仕事を終えた僕は,「僕は何を望まれているか」に耳を澄ましながら月曜日を過ごしと。
不器用な授業だったかもしれないけれど,不躾な語りだっただろうけど,だけど,また,少し近づけたことに感謝しつつ,来週の授業のことを考えている。
神さま,きょうも一日ありがとうございます。大村湾にかかるお月さんを見ながらの帰り道は,行くときよりもずっとずっとこころ穏やかです。きょうも一日に感謝です。
12月4日
いざやる、せいかる。新しい言葉を作ることには消極的ですが、今朝はこんな気分。
神さま、きょうも一日をありがとございます。
きょうもLet it Be
待降節
きょうからは待つ時間。
待つことって楽しい。待てる自分ってうれしい。待ってくれる人がいるなら、必ずその場所に行きたい。
来てほしいというより、そこに行きたい。今もそう思えている僕は、まだ元気なのかもしれない。
君の街に行くよ。
神さま、きょうも一日をありがとうございます。
大阪,ええとこや
朝の万博公園から届いたすてきな写真。
きょうは大阪。大阪弁でやったるで。
いつもの下駄箱に,いつもより歓迎されている感じやん。
手紙まで置いたあるやん。
ということで,素晴らしい授業と分科会。
1年生のふたつのクラスに見られる入門期後半のそれぞれの伸びと共通した育ち,
ふたつのクラスを合体させた6年生の大所帯の授業に見られるたくましさと,確かな軌跡。
「味生小学校だからここまでの学びができるんですよ。うちじゃ無理です。」なんて,誰が言っているんだい。
「そう,味生小学校だからできるんです。味生小の教師たちだからここまで育てられたんです。」って,僕は言ってやるぞ。
つらいときもあった,とがった言葉もあった,どうすればいいか分からないときのほうが多かった。だけど,そんなこと忘れそうになるくらい,きょうの味生小の教師たちはかっこよかった。
応援団長なんて,えらそうな肩書きはやめだ!僕はふつうに味生小の教師たちのファンやっていることが似合っている。
また,サッポロに行かなあかんな!
神さま,きょうも一日ありがとうございます。ほんとうにありがとうございます。
京都の夜はだるま
こんな月曜日は、Let It Be
きょうは長崎。授業そのものの手応えよりも、学生と息づかいを共有できたことの安定感がうれしい。
とにかく、この教室に任せるしかないと考えている。僕の都合ではなく教室の事実。
それが「きょう」を作ってくれた。僕が「きょう」を作ろうとするのではなく、いつのまにかある「きょう」に気づいただけ。
確かに、ここに「きょう」がある。
神さま、きょうも一日をありがとうございます。確かに、ありました。きょうが。
はじめてのもの
天草に来ることはあたりまえ
ストーブの音
今年はじめてのストーブ。僕のお気に入りのアラジンに火を入れた。
石油を入れる音,火を入れたあとの火が馴染んでいくまでの音,火が調うまでの音,筒を立てるときの金属音,炎が背を競い合う音。
だけど,何よりも好きなのは,アラジンの上にやかんを置いたときの音。やかんの底についていたしずくがストーブとやかんのあいだでつぶやいている。こいつが朝いちばんに僕に語りかけてくる声。
おはよう,きょうもいい一日になります。
神さま,きょうも一日をありがとうございます。
しいたけが好物です
できたできた
今夜は@博多屋さん
秋の夕暮れ
紫どんぐり
日曜日
秋の夜長
1964年6月生まれのランタン
白いみどり
このめあて、どう?
きょうのキーワードは「めあての調整」。
福岡県京築地区行橋市の国語科研究会。
「めあてとまとめをつなぐのは子どもの仕事です。」とは言いながらも、それは簡単なことではない。と言って、言いっぱなしで帰りたくはない。
だから、ちょっとだけ経験談。
めあてとまとめの間にあるのは「私の学び」。もちろん、その学級全体のまとめもあっていいけれど、「私不在」のまとめになってはいけない。
だからこそ、まずは「めあての調整」が必要だ。その授業に私がいるため、その授業を私のためのものにするため、その授業が私に役立つものになるため、学級のめあてを調整して私のめあてにする。
そうすれば、自ずと授業のまとめは、まずは私のまとめになる。その上に学級のまとめを重ねる。だからこそ自分の学びの値打ちを自覚することができる。
めあてを黒板に書いたらすぐに「では、きょうは」と言っていないだろうか。
めあてを示したら、まずはめあてについて語り合おう。
「このめあて、どう?」
めあての調整はここからはじまる。きょうの学びはこうして立ち上がる。
めあての調整。
ぜひ、どうぞ。めあての調整ができるようにこの週末を使ってみませんか。
なんでナフコやねん
たつとみゼミ
今年は久しぶりの大所帯。2005年の10人以来の大所帯。
9人のステキなゼミ生と充実の一年半になること間違いなし。
さあ、晴れの舞台
もう何年になるだろう。この学校が好きだ。本気で応援したくなるのは僕の担任時代に似た教師が多いからに違いない。
今年も晴れの舞台がやってきた。
僕のテーマは「学ぶことと教えること」。いいテーマをもらった。今の僕の《問い》にぴったりだ。
何ひとつ無駄のない、だけど廻り道しているように見える研究こそが美しい。教師たちの本気が子どもの学びを輝かせている。
3年ぶりの本気の研究発表会ライブ!
僕も本気で楽しむ。
神さま、きょうも一日をありがとうございます。
思考のスピード
今いちど、書籍活用のよさを考える
あまりにかっこよすぎるタイトルに耐えられる話ができるかどうか。
本気で準備した。今朝も3時に起きて点検した。
そして、自宅を出る直前にふうっと、キーワードに導かれた。
「生徒の思考のスピードは、紙書籍がちょうどいい。」
デジタルスピードについていけない生徒は、テキストは見えているけど見ていない。聞こえているけど聞いていない。
僕はこのフレーズを伝えたくて高槻四中にきた。
教室をめぐる。そこには書籍の中に学ぶ生徒の姿があふれている。
アナログを使いこなす生徒。
生徒が学習材を使い切っている。
振り回されていない。
使いこなしている。
そして、僕。この教室の事実が伝わるようにありったけの経験と知識と生徒を表す語彙を絞り出した。
そして、一生懸命に語った。そう、一生懸命。
先週の鹿児島、きょうの高槻。僕は友だちの中で力を出せている。
田中氏、ありがとう。帰り際のビールのにおいのしない握手を忘れない。
17時45分のスーパー
(仮)という本気
(仮)と銘打った研究会がうまれた。
語ることは得意ではない,だけど,聞いもらうことは大好きだ。
聞かせることは満足にできない,ただ,声を届けることには一生懸命でありたい。
一生懸命とは,命を懸けて生きること。僕にとって生きることとは,相手に声を届けること。伝わりますようにと祈ること。
それは小学校で教師をしていた頃からかわらない。
昨夜も素敵な出会いばかりだった。ずらりと集ってくださった。声を受け止めてくださる教師に囲まれる。コの字に並んだ仲間の一つ一つの瞳の向こうに声を届けることに一生懸命だった僕の2時間。
幸せとは,一生懸命が叶ったときとは限らない。幸せとは,一生懸命のとき。幸せとは,一生懸命な自分に気付いたとき。
まちがいなく,今夜,僕は一生懸命だった。(仮)という研究会の本気の仲間に僕は完全に魅了されている。
時間割りのある研究会っていうのもステキだ。次回は,1時間目「思考操作をやってみよう」,2時間目「《問い》を高めよう」,3時間目「事例で語り合おう」,4時間目「振り返ってがぶ飲みしよう」ですよね。まさに僕の好きなスタイル!
ありがとう,ショーゴ。帰り道のギンモクセイの香りははじまりの香り。
教室の声に学ぶということ
私たちは「教材研究」という用語を当たり前のように使っていますが,教材研究とは何をどのように研究することなのでしょうか。もしかしたら,それはたんなる説明文研究,作品研究で終わってはいないでしょうか。それに少し加えて,言語活動研究で終わっていないでしょうか。作品研究に言語活動研究を加えただけになっていないでしょうか。
学習材であり,教材である作品を詳しく丁寧に理解し,その特性を知ることは重要なことです。ですが,それと同じくらい,いえ,それ以上に大切なこと,忘れてはならないことは,子ども研究です。学習者研究です。
この子どもはどのように学んできたのかり何を学んできたのか。どんな考え方ができるのか。私はこの子どもに,何をできるようにさせたいのか。それはどのようにすれば可能なのか。どのような作品を,どのように扱い,どのような活動の中でどのようにてびきすればいいのか。
子ども研究があるから作品研究が実り,子ども研究があるから言語活動研究が具体的なものになるのです。そのために作品研究が役立つのです。
どのような力をつけることが目標なのか,どのような言語活動を通して学ぶのか。そのためにこの作品がなぜ有効で,どのように活用できるのか。この作品とこの言語活動だからこそ,どのような考え方で目標にたどり着くのか。そのための作品研究であり,言語活動研究でありたいのです。基盤は子ども研究であることはまちがいありません。
子どもがその作品でどのように考えるのかということが具体化されることで,言語活動が価値ある学びとなるのです。
みなさんはきょうの授業の事実をどのように見て聞きましたか。私は前方中央のグループのところに座って授業に参加していました。私は,教室の事実,子どものライブの声を聞くことを大事にしています。きょうの授業では次のような声が大事な声として残っています。
・確かに
・じゃあ
・なるほど
・もっとさあ
・ただ
・〇〇〇みたいじゃん
・ここのところさあ
こんなことばが子どもの思考をつなぎます。こんな言葉が仲間との学びをつないでいます。
・ちょっと待って,もうちょっと時間ちょうだい
・今の質問いいと思う,〇〇どう思う
・じゃあ,〇〇はどう,ちょっと違うでしょ
・僕もなんだけど,書いてないけど,こうじゃん
・教科書にもあったんだけど
粘り強さとはこういう声からはじまる。
・自分は言葉選びがだめなんだけど
・ここに赤い線を引いておきたい
・分からなくはないんだけど,何て言えばいいか引っかかって(物足りないんでしょ)物足りないというか
粘り強さの中に学習の調整がはじまりつつある。
これらの声は「説明文のキーワード」ではありません。かけがえのない「学びのキーワード」です。説明文のキーワードを学びのキーワードが意味づけている。学びのキーワードが生徒の学習を意味づけ,自覚化を形づくっている。生徒が作品で学んでいる。作品の向こう側に,作品を越えて行こうとしている。
私たちは「説明文のキーワード」を発問で取り出させてきました。個別最適化の学習は,「説明文のキーワード」の取り出しだけではなく,「学びのキーワード」を自覚させることで実現できます。
「教科書の説明文はどう書いてありますか」を問うことだけの授業をやめましょう。「あなたはそれをどう読みましたか」を言語化する授業をもとめましょう。「どう書いてあるか」を問うだけではなく「どう読んだか」を言語化することで,自己の考えが形成され,すべての子どもが「学習の主人公」になれるのです。
私たち教師は,その子どもの姿に学びたいのです。
全国のどこかでみなさんとお目にかかれることがあるでしょう。その時まで,教室の事実に学び,成長し続ける教師でいようではありませんか。
………………………………
これは,第51回全日本中学校国語教区研究協議会鹿児島大会の第4分科会で僕がしゃべったこと。
司会が粋な計らいをし、少しの時間を余らせたことでこのコメントの時間が生まれました。ありがとう,名司会者さん。
そこからは新幹線とローカル列車を乗り継いで移動。打ち上げのアナウンスを背に西駅へ。
神さま,きょうも一日ありがとうございます。こんなことばっかりして旅している僕を導いてくださり感謝しています。
薩摩を食う
頭のいい人
池田雅延の随筆(2017)「考えるという言葉」の中にこうある。
考えるとは,「すでに明白に存在し、誰もが知っているはずのデータを適宜に取り出し、それらを比較し取捨して当面の課題の結論を導く、多くはそういう頭の操作」のことである。
頭のいい人が書くと,どうしてこんなにすっきりするんだろう。
この引用文の「課題」を「学習課題」や《私の問い》とし,頭の操作を「思考操作」とすれば,まさに,まさに,だ。
ちょっと待てよ,と,書棚の研究コーナを確かめる。
僕がはじめて「学習課題」について論じたのは2016年,「国語科単元学習を創造するための検討カテゴリ」という拙論。そこには実践に支えられた考えを綴っているから「学習課題」に取り組みはじめたのはさらに前。よかった。池田雅延の盗作じゃないことははっきりしている。
そこで,ちょっとまとめて見たくなった。
…………
考えるということは,問いを解決しようとしていることです。私たちが何かを考えるのは,そこに「問い」があるからです。人は,「問い」を与えられたときや「問い」に出会ったときに考えはじめるのではないでしょうか。
教室では教師が子どもに問うてきました。私たちが発問と呼んでいる行為は,子どもに考えさせるために問いを発することです。子どもは,教師からの発問によって考えはじめるのです。そして考えたことを教師に答え,評価をもらう。考えて新たな知識や技能を得ることができる直接的で明快な学ぶことの原点とも言えます。
しかし,教室の外では誰が問うてくれるでしょうか。卒業すればそばに教師はいません。大人になれば誰も問いかけてくれません。「問い」がないということは,考えはじめられないということです。それでは私たちの思考は成長しません。
誰かに問われなければ考えはじめられないのではなく,私たちは,自ら「問い」を立て,一人でも考え続けられるように成長する必要があるのです。そのことが生涯学び続ける根底になるからです。
…………
旅はつづく
なんだか久しぶりに旅に出る気がする。きょうは大分。だけどまずは有田で降りてみた。この景色にこの鞄、絵になる。やがてはこの駅の木造駅舎も取り壊されるんじゃないかと思うと、こんな途中下車も大事な道草のように感じる。
さて、今日のお宿は高等温泉。
あまりの安さと落ち着きは昭和というより大正。
お風呂も風情あふれている。
旅の景色はただそれだけで美しい。その時間に身を置いている自分に満足している。
大分の仲間たちと研究を肴に話し込むのも楽しい。ああだこうだが途切れない。時間は流れるように過ぎていく。
と、帰り道の別府行きのホーム。
あの青い姿は少し前まで大村線を走っていたキハ。こんなところにいたのか。感慨深い。
そして手前の黄色は確か枕崎線で世話になったはず。何年ぶりだろう。
人と人、暮らしをつなぐ列車の旅にもうしばらく身を委ねるつもり。
僕がよろこんで
9月26日,きょうから長崎純心大学での授業がはじまった。ちょっとばかり元気の出ないここ数日だったから,あの三ッ山の坂道はこたえるだろうと覚悟して向かった。
案の定,息が切れた。すれ違う学生の軽やかな足取りに年の差を感じてしまう。
きょうは1コマだけ。はじめの一歩としては,ちょうどいい。授業に緊張感はなかった。
そりゃそうだ。こっちだってもう何年も教師をやっているんだ。変な緊張はない。くたびれた心で授業ができるかが心配なだけだ。
しかしそれも杞憂のものだった。
何かにつけ,学生に透き通る空気を感じる。授業をすることで身体が洗われる。学生と交わることで今が見える。ここに居ることで自分が分かる。爽やかな光が降っている。
この大学,廊下を歩くといつも見えることば。僕は,透き通ることばの中に今の僕を確かめてしまっている。
授業後,大村湾の落陽。
神さま,きょうも一日ありがとうございます。
「いやなことは僕がよろこんで」。ありがとうございます。ありがとうございます。
おまけ
今夜は仲間で集まりました。そして神父さまの誕生日お祝いし,僕の純心大デビューも祝福してくださいました。僕は望まれた仕事を丁寧にしていきます。
アレルヤ。
メイド・イン・ニッポン の鮭
生涯,最良の日 Happy Birthday みんな!
2022年9月23日,僕の生涯,最良の日にしたいと願っていた。
決して鉄道マニアではない。だけど,こんな僕を何処にでも連れて行ってくれる鉄道が好きだ。フェリーが好きだ。飛行機も好きだ。僕の生涯,最良の日に,その鉄道も花を添えてくれた。
長崎新幹線開通。それに乗って,友だちが集まる。そして,最高のメンバーで語り合う。それが最良でないはずはない。
朝,僕はできたばかりの新しい駅舎に立っている。
自動販売機までが新幹線に装われている。
向かいのホームに長崎から来た新幹線が入ってくる。胸が高鳴る。
そして,いよいよ,僕を生涯,最良の場所に連れて行ってくれる「かもめ」がやってきた。
いつものように鞄を棚に載せて長崎までのわずかな時間を楽しむ。
9月23日。かけがえのない一日。
会場着。
いちばん舎弟を名乗る男からの祝電に泣ける。
開会までの1時間は,Happy Birthday KAMOME! をエンドレスで流しっぱなし。会場の外を通る一般のかたものぞき込むくらい,この会場は幸せに包まれている。
何から何まで幸せな学びの空間。
Happy Birthday あなた!
Happy Birthday あなた!
Happy Birthday あなた!
Happy Birthday わたし!
Happy Birthday みんな!
ありがとう,みんな。
コンパクトライティングの効果の共有とともに,わたしたちの絆の誇り。
コンパクトライティングの未来とともに,わたしたちの明日。
コンパクトライティングの可能性ととに,わたしたちの誠実。
この日の切符はとっておこう。
新大村から長崎,長崎から新大村,そして,出島メッセからなかま。
そうそう,僕が乗って長崎駅に着く瞬間。動画からの一枚。
こんな心にくい一枚を届けてくれる妹に祝福を!
神さま,きょうも一日ありがとうございます。心乱すというのは,自分が裁こうとしているからです。まだまだ声を聞くことができていません。
神さま,きょうも一日ありがとうございます。このHappy Birthday みんな!は,きょうが新しい誕生日であるということ。九州に学んで10年。
明日からが2度目の1年目です。
Happy Birthday みんな!さあ,はじまるよ。
Long Time No See
台風見舞い
「屋久島が台風の目に入りました。風がやんでいます。」のメッセージを受け取ったとき,僕はランタンのマントルを焼いていた。
「こんな日の海岸温泉はどうなっているんでしょう。」と送りながら,僕はクックバーナーにホワイトガソリンを入れていた。
家の中でキャンプするみたいでわくわくしないでもないんだけど,やはり怖い。
みなさん,どうかご無事で。
屋久島,あくゆう,天草,美里町,宮崎,若松島,長崎,大分,佐賀,福岡西南,今日明日は大人しく,音無しく。
干物のうたげ
10月になったらPENNY LANEで「干物のうたげ」をやります。ぜひ,ご参加ください。
これでもか干物!ビールと熱燗で夢を見ましょう。
長崎新幹線
凍えることない僕の旅
定宿。部屋もいつもの一番室。朝ごはんの時間も伝えることなく七時。
田舎に帰ってきたような時間だ。
と、女将さん登場。この半年ばかりの話を聞きながらの朝ごはん。お茶を入れてくれたり、梅干し入れのふたをあけてくれたり。
「そうそう、焼酎、持って帰んなっせ。」
てっきり昨夜飲み残した焼酎のことだと思って焼き魚を食べていた。
サービスなんかじゃない身内感覚。
「行ってきます。」と宿を出る。いつまでも見送ってくれる姿をミラーに見ながら,僕は左折。きょうは天草文化交流館。
なんとも昭和。
風格と貫禄と誇り。そんな部屋で熱い授業論を2時間半。
帰り道,玄関で「ああ,面白かった。」と若い教師たちが記念撮影をしている。ここに来てよかった。
さて,きょうは港から時計と反対回りで帰ろう。
普賢岳近くの紅葉がはじまったか確かめたいのもある。雲仙教会で黙想したいのもある。高いところから眺める橘湾に溶けこみたい気持ちもある。丁寧な石積みに触れてみたいのも本当。
だけど,ほんとうは,これが無性に食べたくなったから。
ほんとうに美味しい。
家に帰ると素敵な贈り物が机の上に。この夏の写真集。
こんなすてきな夜は,もう一杯のんでねよう。
先週は北海道,きょうは天草,来週は大阪,京都,鹿児島。
まだまだ続く僕の旅。
凍えることない僕の旅。
神さま,ありがとうございます。
さあ,天草 重陽の節句
僕にとって生涯最良の日,9月23日
夕焼けくらべ
角砂糖はひとつ
旅から戻ってからというもの,僕はコーヒーを飲んでいる。ふだんならお茶の僕がコーヒーを飲んでいる。
もちろん,二杯目。角砂糖はひとつ。