ちょっとしたこと,綴っておこう。モレスキンのノートとモンブランの万年筆,時々たつログ。
たつログ
えとせとら
さあ、北海道だ
ひとつめの乗り換え駅。
さあ,北海道。お昼過ぎには北の大地だ。
たった2時間ほど離れただけなのに,空港が凍ってる。
ホームが凍ってる。
そんな中,幸せなにおいただようお弁当屋さん。夏に来たときも気になってた「ほっきめし弁当」。
今回もがまんがまん。お昼はもう決めてある。
苫小牧。僕はこのトマコマイの音が好きだ。さて,どうにも気になる店に連れて行ってもらった。
五郎ちゃんが言うとおり,北海度のカレースープとお味噌汁の親戚のようだ。ラーメンに麩が入っている。
ちょっと,写真を失礼!
さあ,これから研修部と研究についての打ち合わせ。北海道の午後は短い。もう日が傾きかかっている。
夜はこの辺りでいちばん美味いと評判の「居酒屋 徳」へ。
お造りもジンギスカンの唐揚げもまあなんと美味いこと!
神さま,きょうもいつくしみをありがとうございます。
授業を楽しむ
鹿児島の中学校で授業をする機会を得た。僕の授業力なんかすっかり錆びついてしまっているのに生徒の前に立てることになった。
単元は,甲斐利恵子先生の「ルロイ修道士への弔辞」を大いに参考にさせてもらっての「達富版 ルロイ修道士への弔辞」。
今回の僕の挑戦は,単元びらきの工夫。ちょうど今,プラハの日本人学校で祥平がとんでもなく壮大な単元に挑んでいることに触発されたのかもしれない。がんばろう,兄弟姉妹!って感じだ。
さて,単元びらきの工夫とは。
単元には大きく二つの出会いがある。一つは作品や題材,言語活動との出会い。もう一つは学びとの出会いだ。「もの」との出会いと「こと」との出会いと言ってもいい。言語活動は「もの・こと」の両面をもっている。「どんなものをつくるのか」と「どんなことをするのか」である。
各地で授業を見せてもらっていると,この二つの出会いが切り離されていると感じることが少なくない。どちらの出会いも大切だ。
さて,きょう。
僕は準備してきた音読で教室を動かしたり立ち止まらせたりしようと考えていた。
音読百遍。清原先生から習ったことだ。
ルロイ修道士の「今の思い」と「回想」が織りなすこの小説は,とやかく言うより声で感じるのがいちばんだ。その折々に今と回想を区別させる。
言語活動に活用できそうな部分を選ぶことは先ほどの区別の上にある。
選んだエピソードをどのように表すかは語彙学習の上にある。
語彙は学びとの出会いを深いところに連れて行く。
どのように読むか。
感動を声にするというよりは,書かれた小説を動き出させ,立体化させるという感じ。僕の感動を押し付けず,生徒の感動を無理に引っ張り過ぎず,小説のよさと出会うことで自分の読解に出会い,学びに出会うことができる。
もちろん,途中で学習課題とつなぐ時間をはさみながら。ここは教師の語りの力が必要。
そのためにも、素手で読ませない。読みのかまえをもって作品に出会う。国語の学習での読むことは,土日の読書とは違う。途中で読みたくなくなってしまっては大変なことだ。いや,読みたくなくなっても読み切らなければならない。読み切るためにはいい加減に読み始めてはいけない。読みのかまえをおでこのあたりに集めて一気に読む。読ませる。聞かせる。
音読百遍。必ずできる。
平和は愛のつながり
平和の鐘
アーケードで昭和のランチ
熊本のみち
京都
ひつじメール通信25-1
ついに来た!
こんな日が来るなんて!
いつもは「ひつじメール通信」の愛読者の一人だったのに,その通信に僕の名前があるじゃないか。
まだ,ゲラにも届いていない状態なのに。
「うれしい。」なんて,小学生の作文みたいな言い回し。だけど,うれしい。うれしいものはうれしいしか言い表せないんじゃ!
明日からは,子どもの「うれしい表現」を大いに認めることにしよう!
神さま,きょうもいつくしみをありがとうございます。「ここからはじまる国語教室」産声をあげられそうです。ひつじ書房からの出版です。迷える小羊,羊飼いの声を聞き分ける小羊。僕は長いあいだ迷いすぎてしまっていましたが,ちゃんと僕を待っていてくれた99匹の羊の仲間に感謝です。
待っていてくれてありがとう。100匹でお祝いしよう。4月22日。
以下,ひつじメール通信25-1から転載
◆◇◆ひつじメール通信25-1◆◇◆
2023.1.11
いつもお世話になりましてありがとうございます。
「ひつじメール通信」をお送りいたします。
【房主】より
言語活動に焦点を当てる
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
現在、達富洋二先生編著の『ここからはじまる国語教室』という本
国語科教育という言い方の方が良いでしょうか。このことはちょっ
言語研究も、社会的なインタラクションに関する研究が社会言語科
記号としての言語、自立した体系としての言語という考えはありま
一方、日本語教育だと記号としての言語、体系としての言語を批判
私は日本語教育の潮流を批判したいのではなくて、国語教育の言語
袋かけみかん「夢味」は,「みかん姫」!
僕の妹分,いわく,「十二単を着たみかん」とのこと。
驚いた。
これは「みかん」ではない。「おみかん」,いや「みかん様」,ちょっと仰々しい,「みかんちゃん」,いや軽い。
風景とも馴染む。いいじゃないか。
で,お味は,,,
これで焼酎が飲める,って言っても信じてもらえないだろうけど,飲める。
とにかくかわいくてかわいくて,しかたがない。
結局,「みかん姫」と呼ぶことにした。しっくりくる。
ようこそ,我が家へ!PENNY LANEへ!みかん姫!
ありがとうございました。苓北からのみかん姫に,我が家はときめきの1月9日でした。ほんと,美味しい!
神さま,きょうもいつくしみをありがとうございます。明日,神さまにもこのみかん姫をお届けします。
小さな,だけど本気の研究会
片手があいた
少し大きな仕事を片付けた。
だから、片手があいた。この開放感がたまらない。仕事は嫌いじゃないけど、なにもないっていい。
と思っていたら、忘れかけていた仕事がどどどって、風の又三郎のようにやってきた。
原稿起こし、小学生の作文のてびきづくり、少年の日の言語活動、来年度のシラバスなどなど。
でも、まだ、片手が空いている気分。それだけでっかいことが通り過ぎていったということ。
よし、今夜は町に出よう。いや、庭で食べよう。
どうしよう。やっとクリスマスが来た感じ。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。望まれた仕事ができることに感謝です。
あのじいさんときたら
Quiet Quitting
寒い岬を思い出す
いつくしみをわたしたちに
贈り物
日本中から年の瀬
この学び舎に
Merry Christmas ! from Prague
ほどこしと感謝はコラボレーション
「お父さん、ありがとう」を言いやすいお父さんでありたい。
「大丈夫だいじょうぶ」と言えるお父さんでありたい。
「いつもありがとう」を感じられる自分でいたい。
望まれた一日を送れるよう大人でありたい。
今宵はごんぎつね
お好み焼きをいつ切るか
月曜日はLet it Be
コール・マリーヱ,美しき調べ
旅の帰り道
ようやく長崎本線。
いつもの赤いキャップをかぶった中央軒のおばちゃんが退屈そうにホームの向こうからこっちを見てる。
きょうは途中下車しないでまっすぐ帰る。
中央軒のかしわうどんは、もう少し寒い夕方のほうが値打ちがある。
創立記念日
建学の精神を思い起こし、これまでの成果を謙遜のうちに見つめる。それが創立記念日だと思う。
この大学に身を置いて学生と対峙できることに感謝して声を聞くことにつとめたい。
神さまきょうも一日をありがとうございます。
あなたの「育ち」に
月曜日が好きだ。日曜日の次っていうのが好きだ。僕を新しくしてくれる。
きょうの月曜日もステキだった。小さな存在として,弱い生き方として,自分を見つめる時は元気になれる。
午後,授業の中、僕はまた自分を見つめる。
「先生,見てください。」
この「ら」。この「ら」の変容。
字がととのったことより,この変容に気づき,それを感じることが何よりうれしい。
「先生,見てください。」の声が僕の身体にリフレインする。「上手くなったこと」より,「上手くなった瞬間に一緒にいられたこと」のほうがずっと幸せだ。
普段の「ら」が,よそ行きの「ら」になり,それがあたりまえの「ら」になる。このBeforeからAfterへの気づきと育ちがステキだ。
僕は,学び手の「育ち」が大好きだ。みんなの「育ち」ほどステキなものはない。ステキは感謝の賛美の内にある心の動きだ。その瞬間を,いちばん近いところで感じることができる月曜日に感謝。
学生がつくる授業!
いいじゃないか!この学びの工夫。
なにもかもが僕の予想を超え,でも,それがあたりまえのようにここにある。ステキの連続。
今週は木曜日も日曜日も長崎。
出会えた学生に感謝。目の前の学生の姿に賛美。育ちゆく学生にもう一度,感謝。
少しばかり大きな仕事を終えた僕は,「僕は何を望まれているか」に耳を澄ましながら月曜日を過ごしと。
不器用な授業だったかもしれないけれど,不躾な語りだっただろうけど,だけど,また,少し近づけたことに感謝しつつ,来週の授業のことを考えている。
神さま,きょうも一日ありがとうございます。大村湾にかかるお月さんを見ながらの帰り道は,行くときよりもずっとずっとこころ穏やかです。きょうも一日に感謝です。
12月4日
いざやる、せいかる。新しい言葉を作ることには消極的ですが、今朝はこんな気分。
神さま、きょうも一日をありがとございます。
きょうもLet it Be
待降節
きょうからは待つ時間。
待つことって楽しい。待てる自分ってうれしい。待ってくれる人がいるなら、必ずその場所に行きたい。
来てほしいというより、そこに行きたい。今もそう思えている僕は、まだ元気なのかもしれない。
君の街に行くよ。
神さま、きょうも一日をありがとうございます。
大阪,ええとこや
朝の万博公園から届いたすてきな写真。
きょうは大阪。大阪弁でやったるで。
いつもの下駄箱に,いつもより歓迎されている感じやん。
手紙まで置いたあるやん。
ということで,素晴らしい授業と分科会。
1年生のふたつのクラスに見られる入門期後半のそれぞれの伸びと共通した育ち,
ふたつのクラスを合体させた6年生の大所帯の授業に見られるたくましさと,確かな軌跡。
「味生小学校だからここまでの学びができるんですよ。うちじゃ無理です。」なんて,誰が言っているんだい。
「そう,味生小学校だからできるんです。味生小の教師たちだからここまで育てられたんです。」って,僕は言ってやるぞ。
つらいときもあった,とがった言葉もあった,どうすればいいか分からないときのほうが多かった。だけど,そんなこと忘れそうになるくらい,きょうの味生小の教師たちはかっこよかった。
応援団長なんて,えらそうな肩書きはやめだ!僕はふつうに味生小の教師たちのファンやっていることが似合っている。
また,サッポロに行かなあかんな!
神さま,きょうも一日ありがとうございます。ほんとうにありがとうございます。
京都の夜はだるま
こんな月曜日は、Let It Be
きょうは長崎。授業そのものの手応えよりも、学生と息づかいを共有できたことの安定感がうれしい。
とにかく、この教室に任せるしかないと考えている。僕の都合ではなく教室の事実。
それが「きょう」を作ってくれた。僕が「きょう」を作ろうとするのではなく、いつのまにかある「きょう」に気づいただけ。
確かに、ここに「きょう」がある。
神さま、きょうも一日をありがとうございます。確かに、ありました。きょうが。
はじめてのもの
天草に来ることはあたりまえ
ストーブの音
今年はじめてのストーブ。僕のお気に入りのアラジンに火を入れた。
石油を入れる音,火を入れたあとの火が馴染んでいくまでの音,火が調うまでの音,筒を立てるときの金属音,炎が背を競い合う音。
だけど,何よりも好きなのは,アラジンの上にやかんを置いたときの音。やかんの底についていたしずくがストーブとやかんのあいだでつぶやいている。こいつが朝いちばんに僕に語りかけてくる声。
おはよう,きょうもいい一日になります。
神さま,きょうも一日をありがとうございます。
しいたけが好物です
できたできた
今夜は@博多屋さん
秋の夕暮れ
紫どんぐり
日曜日
秋の夜長
1964年6月生まれのランタン
白いみどり
このめあて、どう?
きょうのキーワードは「めあての調整」。
福岡県京築地区行橋市の国語科研究会。
「めあてとまとめをつなぐのは子どもの仕事です。」とは言いながらも、それは簡単なことではない。と言って、言いっぱなしで帰りたくはない。
だから、ちょっとだけ経験談。
めあてとまとめの間にあるのは「私の学び」。もちろん、その学級全体のまとめもあっていいけれど、「私不在」のまとめになってはいけない。
だからこそ、まずは「めあての調整」が必要だ。その授業に私がいるため、その授業を私のためのものにするため、その授業が私に役立つものになるため、学級のめあてを調整して私のめあてにする。
そうすれば、自ずと授業のまとめは、まずは私のまとめになる。その上に学級のまとめを重ねる。だからこそ自分の学びの値打ちを自覚することができる。
めあてを黒板に書いたらすぐに「では、きょうは」と言っていないだろうか。
めあてを示したら、まずはめあてについて語り合おう。
「このめあて、どう?」
めあての調整はここからはじまる。きょうの学びはこうして立ち上がる。
めあての調整。
ぜひ、どうぞ。めあての調整ができるようにこの週末を使ってみませんか。
なんでナフコやねん
たつとみゼミ
今年は久しぶりの大所帯。2005年の10人以来の大所帯。
9人のステキなゼミ生と充実の一年半になること間違いなし。
さあ、晴れの舞台
もう何年になるだろう。この学校が好きだ。本気で応援したくなるのは僕の担任時代に似た教師が多いからに違いない。
今年も晴れの舞台がやってきた。
僕のテーマは「学ぶことと教えること」。いいテーマをもらった。今の僕の《問い》にぴったりだ。
何ひとつ無駄のない、だけど廻り道しているように見える研究こそが美しい。教師たちの本気が子どもの学びを輝かせている。
3年ぶりの本気の研究発表会ライブ!
僕も本気で楽しむ。
神さま、きょうも一日をありがとうございます。
思考のスピード
今いちど、書籍活用のよさを考える
あまりにかっこよすぎるタイトルに耐えられる話ができるかどうか。
本気で準備した。今朝も3時に起きて点検した。
そして、自宅を出る直前にふうっと、キーワードに導かれた。
「生徒の思考のスピードは、紙書籍がちょうどいい。」
デジタルスピードについていけない生徒は、テキストは見えているけど見ていない。聞こえているけど聞いていない。
僕はこのフレーズを伝えたくて高槻四中にきた。
教室をめぐる。そこには書籍の中に学ぶ生徒の姿があふれている。
アナログを使いこなす生徒。
生徒が学習材を使い切っている。
振り回されていない。
使いこなしている。
そして、僕。この教室の事実が伝わるようにありったけの経験と知識と生徒を表す語彙を絞り出した。
そして、一生懸命に語った。そう、一生懸命。
先週の鹿児島、きょうの高槻。僕は友だちの中で力を出せている。
田中氏、ありがとう。帰り際のビールのにおいのしない握手を忘れない。
17時45分のスーパー
(仮)という本気
(仮)と銘打った研究会がうまれた。
語ることは得意ではない,だけど,聞いもらうことは大好きだ。
聞かせることは満足にできない,ただ,声を届けることには一生懸命でありたい。
一生懸命とは,命を懸けて生きること。僕にとって生きることとは,相手に声を届けること。伝わりますようにと祈ること。
それは小学校で教師をしていた頃からかわらない。
昨夜も素敵な出会いばかりだった。ずらりと集ってくださった。声を受け止めてくださる教師に囲まれる。コの字に並んだ仲間の一つ一つの瞳の向こうに声を届けることに一生懸命だった僕の2時間。
幸せとは,一生懸命が叶ったときとは限らない。幸せとは,一生懸命のとき。幸せとは,一生懸命な自分に気付いたとき。
まちがいなく,今夜,僕は一生懸命だった。(仮)という研究会の本気の仲間に僕は完全に魅了されている。
時間割りのある研究会っていうのもステキだ。次回は,1時間目「思考操作をやってみよう」,2時間目「《問い》を高めよう」,3時間目「事例で語り合おう」,4時間目「振り返ってがぶ飲みしよう」ですよね。まさに僕の好きなスタイル!
ありがとう,ショーゴ。帰り道のギンモクセイの香りははじまりの香り。
教室の声に学ぶということ
私たちは「教材研究」という用語を当たり前のように使っていますが,教材研究とは何をどのように研究することなのでしょうか。もしかしたら,それはたんなる説明文研究,作品研究で終わってはいないでしょうか。それに少し加えて,言語活動研究で終わっていないでしょうか。作品研究に言語活動研究を加えただけになっていないでしょうか。
学習材であり,教材である作品を詳しく丁寧に理解し,その特性を知ることは重要なことです。ですが,それと同じくらい,いえ,それ以上に大切なこと,忘れてはならないことは,子ども研究です。学習者研究です。
この子どもはどのように学んできたのかり何を学んできたのか。どんな考え方ができるのか。私はこの子どもに,何をできるようにさせたいのか。それはどのようにすれば可能なのか。どのような作品を,どのように扱い,どのような活動の中でどのようにてびきすればいいのか。
子ども研究があるから作品研究が実り,子ども研究があるから言語活動研究が具体的なものになるのです。そのために作品研究が役立つのです。
どのような力をつけることが目標なのか,どのような言語活動を通して学ぶのか。そのためにこの作品がなぜ有効で,どのように活用できるのか。この作品とこの言語活動だからこそ,どのような考え方で目標にたどり着くのか。そのための作品研究であり,言語活動研究でありたいのです。基盤は子ども研究であることはまちがいありません。
子どもがその作品でどのように考えるのかということが具体化されることで,言語活動が価値ある学びとなるのです。
みなさんはきょうの授業の事実をどのように見て聞きましたか。私は前方中央のグループのところに座って授業に参加していました。私は,教室の事実,子どものライブの声を聞くことを大事にしています。きょうの授業では次のような声が大事な声として残っています。
・確かに
・じゃあ
・なるほど
・もっとさあ
・ただ
・〇〇〇みたいじゃん
・ここのところさあ
こんなことばが子どもの思考をつなぎます。こんな言葉が仲間との学びをつないでいます。
・ちょっと待って,もうちょっと時間ちょうだい
・今の質問いいと思う,〇〇どう思う
・じゃあ,〇〇はどう,ちょっと違うでしょ
・僕もなんだけど,書いてないけど,こうじゃん
・教科書にもあったんだけど
粘り強さとはこういう声からはじまる。
・自分は言葉選びがだめなんだけど
・ここに赤い線を引いておきたい
・分からなくはないんだけど,何て言えばいいか引っかかって(物足りないんでしょ)物足りないというか
粘り強さの中に学習の調整がはじまりつつある。
これらの声は「説明文のキーワード」ではありません。かけがえのない「学びのキーワード」です。説明文のキーワードを学びのキーワードが意味づけている。学びのキーワードが生徒の学習を意味づけ,自覚化を形づくっている。生徒が作品で学んでいる。作品の向こう側に,作品を越えて行こうとしている。
私たちは「説明文のキーワード」を発問で取り出させてきました。個別最適化の学習は,「説明文のキーワード」の取り出しだけではなく,「学びのキーワード」を自覚させることで実現できます。
「教科書の説明文はどう書いてありますか」を問うことだけの授業をやめましょう。「あなたはそれをどう読みましたか」を言語化する授業をもとめましょう。「どう書いてあるか」を問うだけではなく「どう読んだか」を言語化することで,自己の考えが形成され,すべての子どもが「学習の主人公」になれるのです。
私たち教師は,その子どもの姿に学びたいのです。
全国のどこかでみなさんとお目にかかれることがあるでしょう。その時まで,教室の事実に学び,成長し続ける教師でいようではありませんか。
………………………………
これは,第51回全日本中学校国語教区研究協議会鹿児島大会の第4分科会で僕がしゃべったこと。
司会が粋な計らいをし、少しの時間を余らせたことでこのコメントの時間が生まれました。ありがとう,名司会者さん。
そこからは新幹線とローカル列車を乗り継いで移動。打ち上げのアナウンスを背に西駅へ。
神さま,きょうも一日ありがとうございます。こんなことばっかりして旅している僕を導いてくださり感謝しています。
薩摩を食う
頭のいい人
池田雅延の随筆(2017)「考えるという言葉」の中にこうある。
考えるとは,「すでに明白に存在し、誰もが知っているはずのデータを適宜に取り出し、それらを比較し取捨して当面の課題の結論を導く、多くはそういう頭の操作」のことである。
頭のいい人が書くと,どうしてこんなにすっきりするんだろう。
この引用文の「課題」を「学習課題」や《私の問い》とし,頭の操作を「思考操作」とすれば,まさに,まさに,だ。
ちょっと待てよ,と,書棚の研究コーナを確かめる。
僕がはじめて「学習課題」について論じたのは2016年,「国語科単元学習を創造するための検討カテゴリ」という拙論。そこには実践に支えられた考えを綴っているから「学習課題」に取り組みはじめたのはさらに前。よかった。池田雅延の盗作じゃないことははっきりしている。
そこで,ちょっとまとめて見たくなった。
…………
考えるということは,問いを解決しようとしていることです。私たちが何かを考えるのは,そこに「問い」があるからです。人は,「問い」を与えられたときや「問い」に出会ったときに考えはじめるのではないでしょうか。
教室では教師が子どもに問うてきました。私たちが発問と呼んでいる行為は,子どもに考えさせるために問いを発することです。子どもは,教師からの発問によって考えはじめるのです。そして考えたことを教師に答え,評価をもらう。考えて新たな知識や技能を得ることができる直接的で明快な学ぶことの原点とも言えます。
しかし,教室の外では誰が問うてくれるでしょうか。卒業すればそばに教師はいません。大人になれば誰も問いかけてくれません。「問い」がないということは,考えはじめられないということです。それでは私たちの思考は成長しません。
誰かに問われなければ考えはじめられないのではなく,私たちは,自ら「問い」を立て,一人でも考え続けられるように成長する必要があるのです。そのことが生涯学び続ける根底になるからです。
…………
旅はつづく
なんだか久しぶりに旅に出る気がする。きょうは大分。だけどまずは有田で降りてみた。この景色にこの鞄、絵になる。やがてはこの駅の木造駅舎も取り壊されるんじゃないかと思うと、こんな途中下車も大事な道草のように感じる。
さて、今日のお宿は高等温泉。
あまりの安さと落ち着きは昭和というより大正。
お風呂も風情あふれている。
旅の景色はただそれだけで美しい。その時間に身を置いている自分に満足している。
大分の仲間たちと研究を肴に話し込むのも楽しい。ああだこうだが途切れない。時間は流れるように過ぎていく。
と、帰り道の別府行きのホーム。
あの青い姿は少し前まで大村線を走っていたキハ。こんなところにいたのか。感慨深い。
そして手前の黄色は確か枕崎線で世話になったはず。何年ぶりだろう。
人と人、暮らしをつなぐ列車の旅にもうしばらく身を委ねるつもり。
僕がよろこんで
9月26日,きょうから長崎純心大学での授業がはじまった。ちょっとばかり元気の出ないここ数日だったから,あの三ッ山の坂道はこたえるだろうと覚悟して向かった。
案の定,息が切れた。すれ違う学生の軽やかな足取りに年の差を感じてしまう。
きょうは1コマだけ。はじめの一歩としては,ちょうどいい。授業に緊張感はなかった。
そりゃそうだ。こっちだってもう何年も教師をやっているんだ。変な緊張はない。くたびれた心で授業ができるかが心配なだけだ。
しかしそれも杞憂のものだった。
何かにつけ,学生に透き通る空気を感じる。授業をすることで身体が洗われる。学生と交わることで今が見える。ここに居ることで自分が分かる。爽やかな光が降っている。
この大学,廊下を歩くといつも見えることば。僕は,透き通ることばの中に今の僕を確かめてしまっている。
授業後,大村湾の落陽。
神さま,きょうも一日ありがとうございます。
「いやなことは僕がよろこんで」。ありがとうございます。ありがとうございます。
おまけ
今夜は仲間で集まりました。そして神父さまの誕生日お祝いし,僕の純心大デビューも祝福してくださいました。僕は望まれた仕事を丁寧にしていきます。
アレルヤ。
メイド・イン・ニッポン の鮭
生涯,最良の日 Happy Birthday みんな!
2022年9月23日,僕の生涯,最良の日にしたいと願っていた。
決して鉄道マニアではない。だけど,こんな僕を何処にでも連れて行ってくれる鉄道が好きだ。フェリーが好きだ。飛行機も好きだ。僕の生涯,最良の日に,その鉄道も花を添えてくれた。
長崎新幹線開通。それに乗って,友だちが集まる。そして,最高のメンバーで語り合う。それが最良でないはずはない。
朝,僕はできたばかりの新しい駅舎に立っている。
自動販売機までが新幹線に装われている。
向かいのホームに長崎から来た新幹線が入ってくる。胸が高鳴る。
そして,いよいよ,僕を生涯,最良の場所に連れて行ってくれる「かもめ」がやってきた。
いつものように鞄を棚に載せて長崎までのわずかな時間を楽しむ。
9月23日。かけがえのない一日。
会場着。
いちばん舎弟を名乗る男からの祝電に泣ける。
開会までの1時間は,Happy Birthday KAMOME! をエンドレスで流しっぱなし。会場の外を通る一般のかたものぞき込むくらい,この会場は幸せに包まれている。
何から何まで幸せな学びの空間。
Happy Birthday あなた!
Happy Birthday あなた!
Happy Birthday あなた!
Happy Birthday わたし!
Happy Birthday みんな!
ありがとう,みんな。
コンパクトライティングの効果の共有とともに,わたしたちの絆の誇り。
コンパクトライティングの未来とともに,わたしたちの明日。
コンパクトライティングの可能性ととに,わたしたちの誠実。
この日の切符はとっておこう。
新大村から長崎,長崎から新大村,そして,出島メッセからなかま。
そうそう,僕が乗って長崎駅に着く瞬間。動画からの一枚。
こんな心にくい一枚を届けてくれる妹に祝福を!
神さま,きょうも一日ありがとうございます。心乱すというのは,自分が裁こうとしているからです。まだまだ声を聞くことができていません。
神さま,きょうも一日ありがとうございます。このHappy Birthday みんな!は,きょうが新しい誕生日であるということ。九州に学んで10年。
明日からが2度目の1年目です。
Happy Birthday みんな!さあ,はじまるよ。
Long Time No See
台風見舞い
「屋久島が台風の目に入りました。風がやんでいます。」のメッセージを受け取ったとき,僕はランタンのマントルを焼いていた。
「こんな日の海岸温泉はどうなっているんでしょう。」と送りながら,僕はクックバーナーにホワイトガソリンを入れていた。
家の中でキャンプするみたいでわくわくしないでもないんだけど,やはり怖い。
みなさん,どうかご無事で。
屋久島,あくゆう,天草,美里町,宮崎,若松島,長崎,大分,佐賀,福岡西南,今日明日は大人しく,音無しく。
干物のうたげ
10月になったらPENNY LANEで「干物のうたげ」をやります。ぜひ,ご参加ください。
これでもか干物!ビールと熱燗で夢を見ましょう。
長崎新幹線
凍えることない僕の旅
定宿。部屋もいつもの一番室。朝ごはんの時間も伝えることなく七時。
田舎に帰ってきたような時間だ。
と、女将さん登場。この半年ばかりの話を聞きながらの朝ごはん。お茶を入れてくれたり、梅干し入れのふたをあけてくれたり。
「そうそう、焼酎、持って帰んなっせ。」
てっきり昨夜飲み残した焼酎のことだと思って焼き魚を食べていた。
サービスなんかじゃない身内感覚。
「行ってきます。」と宿を出る。いつまでも見送ってくれる姿をミラーに見ながら,僕は左折。きょうは天草文化交流館。
なんとも昭和。
風格と貫禄と誇り。そんな部屋で熱い授業論を2時間半。
帰り道,玄関で「ああ,面白かった。」と若い教師たちが記念撮影をしている。ここに来てよかった。
さて,きょうは港から時計と反対回りで帰ろう。
普賢岳近くの紅葉がはじまったか確かめたいのもある。雲仙教会で黙想したいのもある。高いところから眺める橘湾に溶けこみたい気持ちもある。丁寧な石積みに触れてみたいのも本当。
だけど,ほんとうは,これが無性に食べたくなったから。
ほんとうに美味しい。
家に帰ると素敵な贈り物が机の上に。この夏の写真集。
こんなすてきな夜は,もう一杯のんでねよう。
先週は北海道,きょうは天草,来週は大阪,京都,鹿児島。
まだまだ続く僕の旅。
凍えることない僕の旅。
神さま,ありがとうございます。
さあ,天草 重陽の節句
僕にとって生涯最良の日,9月23日
夕焼けくらべ
角砂糖はひとつ
旅から戻ってからというもの,僕はコーヒーを飲んでいる。ふだんならお茶の僕がコーヒーを飲んでいる。
もちろん,二杯目。角砂糖はひとつ。
北の大地ロス
ホームグランド
暮らしをたどる
寒い友だちが来たよ!
給食は瓶の牛乳にグラタン。玉葱スープとふんわりとあたたかいパン。やさしい給食。
3時間目も4時間目も,そして5時間目も。給食よりもやさしくあたたかい時間。
校長の口ぐせは「おとなだから」。校長の友だちの口ぐせは「一緒にやろう」。
一緒にやるのは子どもだけではない。子どもが一緒にやるとはかりしれない楽しさが生まれることは知っている。大人が一緒にやれば,ためいきが出るほどの感激が回りを包む。
「問いのレベルが気になります。」
僕はこう答える。
問いのレベルは子どもの学びのレベルです。
発問をしているだけでは見えてこない,子どもの学びのレベルが見えます。
発問で分かるのは,子どものその発問についての理解や記憶のレベルです。
問いを立てる学習で分かるのは,子どもの「学びまるごと」です。
「子ども一人一人に寄り添いたい。」
僕はこう答える。
二人の子どもに対して,同時に寄り添えないなら,一人ずつ寄り添うしかない。
二人の力に差があるなら,同時に寄り添うことはできない。だったら一人ずつ寄り添うのがいい。
きょうの授業は適度な距離と,確かな時間配分で一人ずつに寄り添っていた。
だから二人が認め合っていた。体調が悪くても学びたい気持ちがそこにあった。
「きのうの40の問いを厳選したのですが。」
僕はこう答える。
素晴らしい仕事をなさいました。
教師は教える仕事をするのですから,値打ちのある問いとはどういうものかを教えることは尊いことです。
言葉が足りなければ付け加える。
言葉が適切でなければ書き換える。
値打ちを高めるためにかかわる。
教師はもっともっと問いを立てることにかかわるべきです。
解決に苦戦する問いもあります。解決できない問いもあります。
だからこそ本物の学びになっているのです。
教師から外に飛び出そうとする学びがきょうの6年生にはありました。
これまでは言葉を飲み込んでいた子どもが,きょうは唇をふるわせて表現していた。
これが単元学習なのです。
「友だちとの学びの交流を充実させたいのです。」
僕はこう答える。
対話的な学びはあくまでも手段。
もちろん「話すこと・聞くこと」で対話を教えるときは目標。
話したいから話す。話し合いたくないときはまだ話せない。
だから,切実な話題が生まれるような学びをしたいのです。
まれに,教師の問いが切実な話題になることもあります。
ですが,《私の問い》は常に切実です。
だからこそ,切実な《私の問い》を立てられる力を育てたいのです。
「思考操作はどこまでも具体的でいいのですか。」
僕はうれしくなった。
そうなんです。もっともっと具体的であっていいのです。
いえ,具体的でなければならないのです。
そして,その具体的な「思考操作(思考行為動詞)」はどのように考えるものなのかを教えるのです。
教師は,教えることが仕事なのです。
「指導事項(Aフレーズ)からの問いを立てさせたい。」
僕はこう答える。
だからこそ,この単元はなにができるようになる単元なのかをちゃんと示すことです。
教師だけが結末を知っている劇場型授業をやめましょう。
子どもが果てしない力を発揮し続け,創造し続け,面白いと実感する学習をつくりましょう。
そのためにも,「できるようになる」学校であり続けましょう。
「指導事項と《私の問い》と言語活動がつながっているか」
僕は感嘆した。
つながらなくても学習に見えます。学んでいるように見えます。
子どもも学んでいるつもりになります。
しかし,できるようにはなっていません。
ではどうするか。
つなぐのです。はじめは教師がつなげばいいのです。
すぐに子どもがつなぐようになります。
指導事項と《私の問い》と言語活動がつなぎます。
「こんなこと(A)ができるようになりたい。」
「だからこんなこと(C)をするよ。」
「じゃあこんなこと(問い)を解決しなきゃ。」
「こんなこと」をちゃんと分かり合える子どもって美しい。
「《問い》を解決したら言語活動のここに役立てられるよ」って,言葉にできる子どもを育てましょう。
それって,教師の評価規準を自分の「がんばりどころ」としてとらえている証拠。
教師の手元にある評価規準が子どもの机に乗っかったら,それは「がんばりどころ」になるんです。
「教室のひとつの事実はつながっていますね。」
僕はその通りとうなずいた。
子どもの断片的な学びをつないでいるのは教師です。
と思っているのも教師です。
子どもの学びは断片的に見えます。
事実,子どもの学びは断片的であることが多いです。
しかし,教師がつながなくてもつながっていくこともあります。
教師がつなぎそこねることだってあります。
教室はいろいろです。
ただ,言えることは,教師はつなぎたがります。
そして,
教師は自分がつないだのに,自然とつながっていることにして,そのことをほめるのが上手です。
次はもっとうまくつなぐことができるよ,と教師は子どもを導きます。
だから,教室は育っていくのです。
教師がいるから育ちが軽やかなのは確かです。
教師が案内するから子どもは自覚し,定着していくのです。
子どもは学校の主人公です。
そうなると,教室の主人公は,やっぱり,教師かもしれません。
教える主人公は教師であっていいはずです。
校長が言う。
「私たちは授業の前後,単元の前後の子どもの変容がうれしい。校内研修も同じ。この時間の前と今とで私たち教師が変容できたのなら,きょうはいい一日です。」
僕は,ここに来てよかったと心から思っている。大人が本気で一緒にやったらこんなことができるんだ。
まだ二度目なのに,もう仲間内の気分だ。寒い友だちの気分だ。
だって「遠慮はいらないから楽しんでいきなよ。」って言ってくれる仲間がこんなにいるんだから。
さて,明日の仕事までは自由。サイコロふたつ持って落陽でも見に行くか。
いいもん,見っけ!
明後日からの北海道出張にむけて着々と準備を進めている。朝日小学校で使っている教科書は,僕がいつも使っているものとは異なるので,いくども読み返している。
今回は,全学年が授業を見せてくれる。言語活動に浸っているところもあれば,《問い》を立てるところ,《問い》を解決しているところもある。まさに単元をまるごと学べる絶好の機会だ。僕の胸も高鳴る。あと二日。
「よろしくお願いします」のお土産ではなく,「また来たよ。さあ,一緒のやろう!」のお土産を準備したい。とはいえ,北海道。僕の鞄におさまる量はたかがしれている。さて,何にするか。
ここしばらく,ずっと,いつも,何度も思案中。
ちゃんぽん17人分だと多分,僕の腕がちぎれる。
カステラ,こんなの札幌のデパートに行けば買うことができる。
温泉のもと。登別に負けるとは思わないが,別に雲仙を運ばなくてもいい。
そうそう,長崎と言えば鯵,鯖,伊勢エビ。とはいえ,鮭解禁のこの時期に無粋。
と,きょうもまた思案しながらの昼食。
ひとりで網焼きの鳥。一人鳥焼き。いいじゃないか。
僕は,モモもムネもつくねも,生のピーマンでくるんで食べるのが好きだ。
ごちそうさまでした。満腹。と,会計をお願いしているときに妙案!
これでお土産もととのった。寒い北海道の放課後,ほっとひと息。一緒に職員室で語らっている気分になってもらおうじゃないか。
神さま,きょうも一日ありがとうございます。台風が東から西に動いているそうです。そんな時代,もっと地球にやさしい営みをつづけられるよう,謙遜のうちに生きていきます。
芋づるが歌う土の歌
何を学ぶのか,何を学んだのか
きょうは佐賀の勉強会。を,長崎で開催。
リモートでつないだり,マスク越しに議論したり。不自由だけど,そこに学びがあるのは確か。
今回は,達富企画で「筆で書こう!演習」も取り入れた。
ちょっと緊張しながらの書字。気持ちいい。
どうやら,僕の筆は不評のようだ。穂先の柔らかさが不自由だそうだ。
マスクも筆も不自由。だけど,その不自由を創造的なものに変えることができるのが人。
そう言えば,昼食の焼き場をこしらえるとき,切り炭に火をおこすのにバーナーを多用する若者に辟易した。前回も教えたはずだ,と口走ってしまった。楽をし,考えることなしに,バーナーの先を炭につっこんで火をおこしたいならガスコンロを使えばいい。ここに来なくても安くて食べ放題できる店に行けばいい。
食わせてもらう,遊んでもらう,ぜんぶやってもらう。そうでなければ不自由だと愚痴をこぼす。
そうではなく,自分で食べる場を調える。自然のふところに抱きかかえられて遊ぶ。責任と工夫の中で創造的に生きる。それが大人であるはずだ。そんな大人の姿を見て子どもは育つ。
火がとぼしくて,風にいたずらされて,思っていたより時間がかかった帆立の貝焼き。
じゃあ,次はどうすればいいか。
かんたんなこと。風よけを立てる。その前に炭の組み方を変える。流木を鋸と鉈で調える。火がこっちにまとまってくるように空気を操る。そうするだけで,自然はぐっと僕たちにやさしく近づいてくれる。
授業力をみがくのは参考書を読むだけではない。直接的な指導方法について語り合うだけではない。学び続けようとする感受性を高めようとすることなしに授業力の向上など実現するはずない。
僕は自然の中に学んだことを教室に散りばめている。1時間も風の音を聴いていれば,受け持ちの子どもにぴったりの風景が見つかる。自然の風景の数は子どもの数よりうんと多い。そうか,そうなんだ。
そんなとき,本当に僕が担任でよかったんだろうか,って小さくなる。僕でよかったでしょって,そんなことは絶対に言えないし言わないけれど,縁あって万里の川を越えて出会った偶然に感謝しているから,僕はもっともっとその子どもの景色を探し続けなければいけないって自分を見つめる。
休みの日に学び合う仲間が集うこと。この尊い習慣を,もっともっと高めたい。学び慣れないように,学んでいるつもりにならないように,教師として生きていることを見失わないために,集うことは確かめ合うこと。集うことはみんなが高まること。それは他と離れて群れることではなく,誰もが近づき合うこと。いつもそばに感じ,声を聞き合うこと。
さあ,10月の指月会。その前の9月23日。佐賀じゃない地域からも集まりませんか。県内,そんな時代じゃない。
さあ,準備準備
さてと,きのうは9月23日の分,きょうは9月24日の分。新幹線の指定席を予約することができた。
これで,9月23日の「長崎の集い」の個人的な準備はととのった。あとは研究会の準備。
この準備期間がなによりも勉強になる。主体的に学ぶということは自分が見通しを立てること。自分で見通しを確かめること。お客さんにならないこと。集中し,継続し,点検し,修正し継続すること。僕はずっとスタッフでいたい。創り手でいたい。学び手でありつづけたい。成就感は準備期間が連れてくる。
それもこれも心づくし。
大阪まいどおおきに空港
大阪に来ている。
この学校とはもう5年ほどになる。みんな仲良しになれた(と僕はおもってる)。
きょうのお土産は学校の畑の「鳥飼茄子」と仲間たちの熱さ。
きょうの研修会での声,
「評価のお話大変興味深くお聞きしました。そして更に悩むことにもなりました。評価の概念の違いに苦しみながら達富先生のお話をお聞きしていました。評価規準表を先に配ることによって、評価を気にしながら学習する子どもにはしたくないと思いました。やはり学習自体、その単元の教材の特性自体が楽しいと思える学習にしたいと言う強い思いがあります。ただ、その一方で児童の実態には合っていると考えます。その辺りを自分自身の中でどのように折り合いをつけるか今後の自分自身の研究課題だと確認できました。」
僕はこのような声を聞けることに感謝している。だって,これは僕の声でもあるからだ。
「評価を気にしながら学習する子どもにはしたくない」。その通りだ。
だからこそ,評価規準は「がんばりどころ」と考えてはどうだろうか。
「学習自体,その単元の教材の特性自体が楽しいと思える学習にしたい」。その通りだ。
だからこそ,「学びがいのある学習との出会い,読む値打ちが染みこむ作品との出会い」にもっと丁寧に向き合わなくっちゃいけないんじゃないだろうか。
僕は,かつて,「学習自体,その単元の教材の特性自体が楽しいと思っている」子どもにBの評価をつけることができなかった。「こんなに授業を楽しみにしているし,あんなに一生懸命やりつづけたんですよ。それなのにやっぱりだめなんですね。」って,あんなに悲しかったクリスマス前の個人懇談はなかった。
そうなんだ。だからこそ「単元びらき」が大事なんだ。
単元びらきは「作品(題材)との出会い」であり,「学びとの出会い」である。心の底からわくわくする物語,好奇心がかり立てられる説明文,気になってしかたがない話し合いの話題,すぐにでも書き出せそうな作文の材料。教科書をちゃんと扱えば「作品(題材)との出会い」は間違いない。
だけど,教科書をきちんと理解できていない僕はおそまつな「学びとの出会い」にしかならなかった。わくわくする物語なのに,力がついたかどうか分からない学習にしてしまったことなど数え切れない。知的好奇心から始まった説明文の学習があくびと未完成の言語活動でしめくくられたとき,間違いなく失敗していると身体が冷たくなった。
評価規準表は子どもを量り売りするための一覧ではない。評価規準表を作っておくと,僕みたいに単元の途中で道を見失う者であっても,ちゃんとまっすぐの道をたどることができるためのもの。ついつい,これもあれもと教師の都合と教師の興味によって脱線する発問群に包み込まれることなく,子どもの学びの見通しを大事にできるもの。
そんなことじゃないかなあ。
ここに来ると,いつもいつも,若かった頃の自分に会える。若かった達富がたくさんいるこの小学校は,恥ずかしいくらい正直で,自慢できるくらい正直だ。
神さま,きょうも一日ありがとうございます。
たこ焼き食べて帰ります。
たつとみせんせい!
僕の大好きな映画「男はつらいよ」で寅さんは,マドンナに「寅さん!(←このマークがぴったりではないんだけれど)」と呼ばれたら「はあい♪(←これも音符じゃないんだけれど)」と答え,目を細めて跳ねるように動く。
昨日,今日,僕は小学校1年生にやられてしまた。心うばわれてしまった。
「たつとみせんせい!(←何度も言うが,もっと適切なマークがほしい)。」と呼ばれるたびに,ほいほいとこの男の子のそばに弾むように行ってしまう。
「ちょっと待って。」という自分の都合の無粋な返事はしたくない。「はあい」しかない。担任時代以上に軽やかだ。まるで爺やのようだ,と思いつつ「はあい」とやってしまう。
こんなに楽しませてくれたんだから,最後にシーカヤックツアーに連れて行ってあげよう。おじさんの自慢のガリラヤ一周コースを15分で行くよ。スピード出すけん,楽しまんばよ。
こんな日曜日はいつまで続いてもいい。こんな日曜日がずっと続かなきゃいけない。
またおいで。すぐおいで。いつでもおいで。
PENNY LANE ロスになっちゃうぞ。
おじさんは,すでに
510 Family ロスになっているゾ!
神さま,今日も一日をありがとうございます。子どもの声は,ただそれだけで面白いです。
アレルヤ
いのちはつよい
左の写真。ちびっ子が僕の鞄に乗っかっている。
右の写真。そのちびっ子がリールを巻いてキスを釣り上げた。
いのち、育ってる。
もちろん糸を巻いただけだけど,ちゃんと2匹のキスが跳ねた。あとからもう1匹も釣れちゃった。
合計3匹。釣り上げたちびっ子は「たっくんもっと釣りする。」を繰り返している。
と,思っていたら,釣ることより面白いことを思いついたらしい。キス並べ。
僕の軽トラのへりにキスが並べられている。まるで3両編成の新幹線のようだ。祝!九州!click!
そしてママはこの3両編成のキスをさばくと意気込んで包丁を握っている。
たいしたものだ。ちゃんとキスの天ぷらになった。
夜はキスとアジの天ぷら,焼き肉,カンパチステーキ。と,心づくしの予定通り。
神さま,今日も一日をありがとうございます。いのちに囲まれ,いのちにつつまれ,いのちに感謝しています。3人のちびっ子とパパとママ。
僕たちの家に来てくれてありがとう。
心づくし
いよいよ明日,元気なファミリーがPENNY LANEにやってくる。
僕は3週間前から天気予報に一喜一憂していたが,あまりの雨予報に悲しくなり,最近は予報を調べることさえしなくなった。テレビなど信用できない。大好きな南さんの予報だって外れるに決まってる。
雨でも曇りでも心づくしに変わりはない。だけど,晴れてほしい。海で三人のチビっ子に自然の中に生かされているってことを全身で感じてほしい。人は海が好きなんだ。
とにかく遊ぼう。
明日,朝ごはんを食べたら,あとは水分以外はなにも身体に入れずにおいで♪まっすぐ長崎を目指しておいで♪
昼ごはんは石窯ピザからはじめよう。ポテチのチーズの燻製を食べながら冷たい湧水を飲もう。釣ったキスと豆アジの唐揚げ。昼はここまで。
海遊びのあとは鯛の造りと琉球と包み焼き,イシダイしまごろうは蒸して食べよう。カンパチは溶岩焼きとなめろう。岩牡蠣は生とガーリック焼き。ムール貝で美味しいスープをつくってあげる。
夜食は自慢の手製のちゃんぽん鍋。
ああ,長崎和牛を食べるタイミングがないじゃないか。胃腸はどれくらい元気だ?
翌朝は,達富王国のお味噌汁と鯛めしではじめよう。そのあとは,海につかりながらアンチョビパスタを食べよう。帰りは眠るだけだ。
帰りのフェーリーから降りたらPENNY LANEでの二日間は夢の国になっているかも。
それでいい。それがいい。
芝生もととのえた。海岸も美しいぞ。カヤックも万全。海遊びの道具はぜんぶ点検済み。柴犬たちも待ってるぞ。
あとは,あとは,なんだろう。あとは,,,
ああ,そうそう,あとは天気予報。
だけど,こればっかりは僕の心づくしではどうにもならない。
心づくし。このやっかいで待ち遠しい時間。
いちばん楽しんで,待ちくたびれてるのはこの僕にちがいない。
やれやれ。
神さま,元気なファミリーが元気に帰れますように。
アレルヤ
燻製に酔う
5番,ピッチャー,達富君
桃は夏か秋か
椅子に身体をゆだねて空を見る
9月23日・コンパクトライティングを学ぶ
2022年9月23日
長崎市出島メッセにて「第10回 九州教室の声に学ぶ会」を開催します。
テーマは「コンパクトライティング」です。
言語活動として書くことだけでなく,
見通しや振り返り,習得した資質についても記述できる学び手を育てるために,
教室にコンパクトライティングを取り入れ,書くことを日常化する方法を学び合いませんか。
まだ,若干,定員に余裕があります(追加募集)。
興味のある方,ぜひ,ご参加ください。
夏のたより
さて、学びの集い
何をおいても素晴らしいのが前田氏が模擬授業を行うことだ。教頭の職についても授業の腕をみがくことに惜しまない努力をしている姿はまぶしい。
この姿を若い教師はどう見るか。
そのことを語り合うだけでも値打ちがある。
きょうの研究会。確実にアップデートさせる。
学びに小休止はない。鹿児島に集った者だけのアップデートをかけがえのないものにしよう。
同時中継を見て学ぶ人たちに会場の熱さを届けたい。
まずは,腹ごしらえ。大隅うなぎをたらふく食べて会場入り。
これまでで最高の研究会になるのは間違いない。大事なのは,今からの最高の時間にすることだ。きょうの参加者に実りあれ!
おのずと,力が入る。
参加者が語り出す。おのずと,成果があふれる。
鹿児島。このかけがえのない時間を作ってくれた仲間にありがとうを届け,ありがとうを往復し,ありがとうを分かち合い,つないでいくことを誓い,語り合おう。
あの日も同じように
あの日も同じように青い空だったはず。
僕の家の庭の栗の木と入道雲。越してきた年に祈念に植えた栗の木にこれでもかと実がなっている。
祈念の木。
たらふく食べよう。甘い栗をたらふく食べよう。そう願いながら。鳥も誰も地もたらふく食べてお腹を満たそう。身体を安心させよう。間違いをおかさないように命を安心させよう。
今年の平安はゼミ生と祈った。
11時2分。達富研究室には僕と佐世保に暮らすゼミ生。どちらともなく掌を合わせる。僕は十字を切りながら。
こうして穏やかに暮らせていること,こうして大好きな場所で安心して生きていること,こうして大きな愛に包まれて生かされていること。ぜんぶぜんぶ,あの日もそうだったはず。
ほんの少し何かが間違ったから。だったら,これからは,ほんの少しも間違わないようにしなきゃ。
ほんの少しも間違わないようにするために,まず自分の都合を捨てることを誓う。
僕の8月9日はそんな一日。
自分の都合を捨てる。長崎には平安がよく似合う。平安は長崎が約束する。
アレルヤ。
最終日のごほうび
寅さん忌
鈍行の窓に問うてる寅さん忌
きょうは飛行機も新幹線も特急もなし。移動するなら鈍行。つっかけで歩く。できれば畳の上で口上のひとつでも。
仕事帰りに柴又でもと思ったけれど,偲ぶ人が多く集まる処に足を運ぶよりも静かな温泉で「 信州信濃の新蕎麦よりもわたしゃあなたのそばがいい」とやるのが似合いそう。
と,仕事帰りに湯に寄った。
旅の疲れは湯につかるのがいちばん。相棒も同じ。昨日の鉄板からの油まみれをきれいに流してやった。
頭をつかったあと腹がへる。ちょっと足をのばして楽しむことにした。
あひるのパリパリ揚げをめあてに入った店。
「擬音語・擬態語」。カタカナは音,平仮名は様子。だったら「この場合は平仮名でしょ!」と確信して一口目。食べもしないで間違い探しに勝ったような気分になっていた自分が恥ずかしい。
この店のパリパリは間違いなく「音」。パリパリにはビールか紹興酒か。きょうもよく働いた。
神さま,きょうも一日ありがとうございます。鈍行旅のように人の声のなかで生きていくスタイルを教えてくださってありがとうございます。
旅も三日目なら
空とことばと日本地理
一昨日から兵庫県の日本海側の小さな町に来ている。空気が美味しい!と言いたいところだけど、ここまで暑いと深呼吸をするのもはばかられる。
僕の住む長崎の海では水揚げされない魚たち。「ほうう、」としか言えない僕の美食語彙は極めて少ない。
昨日は打って変わって但馬牛ざんまい。お昼の但馬焼肉弁当、夜のホルモンそば。やっぱり「ほうう。」の連発だ。
「美味さの箱根越えだ。」とか「美味さの波状攻撃だ。」五郎ちゃんのような描写力がほしい。
研究の成果はもちろんのこと、この町での二日間は夏休みのはじめの彩を青くした。
そう言えば,泊まった民宿は畳のへりまで青く青く魚が泳いでいた。
さて、旅の続き。風の吹くまま気の向くまま、というわけにはいかないが僕は鳥取空港で離陸を待っている。いつものように公志への罪を思い出しながら。
ところで、鳥取空港は「鳥取砂丘コナン空港」と呼ぶらしい。実際、空港ビルにもそう表示されている。
そういえば、おとなり米子は米子鬼太郎空港、高知は高知龍馬空港、豊岡は但馬コウノトリ空港、宮崎は宮崎ブーゲンビリア空港。行ったことはないけど、おいしい山形空港、徳島阿波踊り空港、北海道のまんなか旭川空港というのもあるらしい。
中学校の社会科で習った知識がつながるよろこびがこんなところにもあった。中学の教科学習は生涯にわたって役立つ。これは間違いない。僕は今でも試験管を洗うこともまつり縫いも蹴上がりもできる(はず)。こうして日本地図を言葉にできるのも南先生のおかげだ。
となると、僕の住む長崎空港はどんな名称になるだろう。今のところ名称は聞いてはいないが、さしずめ、長崎カステラ空港とか、長崎ちゃんぽん空港といったところか。
どうもかっこよくない。
個人的には「長崎祈りといつくしみ空港」とかがいいんだけど少しばかり長い。
大阪空港なら間違いなく「大阪まいどおおきに空港」だろう。
長崎平和祈念空港、長崎祈り潮騒空港、長崎西海紺碧空港、これまた自分の貧弱な語彙にあきれる。
さて、これから、羽田おもてなし空港にむけて出発。ひと仕事終えたら、今夜は神奈川ベイスターズ空港を新設してひとっ飛びしたいくらいだ。
神さま、きょうも一日をありがとうございます。日本海、ここにも仲間をありがとう。いつもいつもつながりをありがとうございます。
浜坂,二日目
「朝から冷やしておきました。」という会議室は確かに涼しくて快適だった。
だけど,すぐに暑くなったのは,浜坂南小学校の教員たちの情熱。
いい学校だ。ここにも通いたい,と,すぐにファンになってしまう自分もちょっと気に入っている。
日本海の夏休み。
今年もいい夏だ。
このあと,明日の一便で東京に向かうために鳥取に泊まる。今夜の鳥取の夕飯はまさに孤独のグルメ。
・・・・・・
鳥取,何年ぶりだろう。
この町の駅前はやけに文具店が多い。
まずは,老舗「ヲサカ文具店」
そして,紙の専門店「加藤紙店」
まだまだあるが,僕のお気に入りは,「万年筆博士」
インターネットで調べればこの店の魅力は十分に理解できる。長崎の「万年筆病院」に勝るとも劣らない。
昨日の「砂丘そば」よりも驚かされた。「スタバ」の珈琲はよく知っているが,
「すばば珈琲」ははじめてだ。しかし,この店で時間をつぶしているわけにはいかない。目指すのは今夜の夕飯。
ということで,
ねじり鉢巻きの大将が包丁で切り分ける肉,それを厚くて熱い鉄板で焼き上げる女将の手慣れた技。
できあがった「ホルモンそば」に僕の相棒も呆然としている。
鳥取,いい夜を過ごせそうだ。
さて,休みをとって日本海
始発列車で長崎を発つ。身体に力をためようと,朝から重たい食事。
薄切りされた牛タン塩焼き朝食。これが,美味しい。
途中,岡山での乗り換え時間で食べることが難しいと考え,朝昼兼用だ。
予想通り,岡山駅で駅を歩くだけ。この駅は四国への玄関口でもある。高知に向かう列車はアンパンマン。
僕はここから鳥取へ。右に左に小刻みに揺れる山越えの列車が僕は嫌いじゃない。空けて見える日本海が楽しみだ。
さて,鳥取駅。「砂丘そば」。いいじゃないか。寄らない手はない。どんな味がするのだろう。砂丘味。
なんてことはない,駅そば。だけど,それがいいじゃないか。10種類の具が巻かれた巻き寿司は砂丘に舞う風のようだ。
ここからは山陰線。
扇風機列車が懐かしい。おばあちゃんと高校生と語りながら1時間。立ち上がって見送ってくれる17歳。九州の大学に来るときは連絡を,と笑顔で別れた。
さて,長い一日は実はこれからがはじまり。
待ってくれるなら,僕はどこへでも行くから。この言葉に嘘も大げさもない。
本当に,来てしまっている。日本海,浜坂はいい町だ。
朝からみんなと一緒、そして
朝6時からzoom。みんなと一緒。しかも,一緒に「本づくり」の企画。教師として働いてきた集大成の一冊にすることを約束する。一緒にやろう!と,気持ちいっぱつ,一も二もなく賛同して集まってくれた九州の仲間には感謝しかない。
きょうもきっといい一日になる,に決まってる。
さて,朝ごはんをすませて僕は大村線に乗る。大村湾の空は間違いなく青。これぞ夏休みの空。どこまでもどこまでも青く,大村湾。
会場到着!古民家がきょうの教室。
20年ぶりのアート・ゲーム。長崎県時津町の子どもたちとアート・ゲーム。もうわくわくしかない。
まずはマッチング・ゲーム!
ラファエロ,ゴッホ,ゴーギャン,シャガール,ピカソ,小磯良平,向井潤吉,そして山本二三。
これらの画家が描く「人物」「家」「空」をマッチングさせる。
そして,次は「絵に空いた穴をかくそう!」!
8人の画家が描いた「空」のなかから山本二三の空と雲を選んだ。なぜ,山本二三って?そんな無粋な質問をする前に3秒考えれば分かる。
色鉛筆の色を選び,色鉛筆の動かし方を説明する。このとき,絶妙なアシスト!僕は僕の愛するアシスタントなつきと二人羽織。僕たち二人の二人羽織は抱腹絶倒だっただろうけれど,そうして写した映像はきっと分かりやすかったに違いない。だって,このあと「空にできた穴の修復」に、子どもたちは水を打ったような静寂の中,色鉛筆が紙の上を動く音だけが響いていたから。
いよいよ,3つめのアート・ゲーム。「こんなときは,この絵の中にはいろう!」
まずは「喜怒哀楽」の様子を表したフィギュアをつくる。そして,山本二三の背景を10枚,準備し,その中から4場面を選ぶ。4人のフィギュアがその絵の中に入る。
なぜ,山本二三って?それは無粋な質問。1秒考えれば分かる。
「なつき先生」のモデル
①おっはよう!きょうもいい天気,お腹すいたなあ。きょうの朝ごはんは何かなあ?さて,学校に行ってきまあす!
②なに?この踏切,ぜんぜんあかない!学校おくれちゃうよお。
③ふう,やっと学校に到着。あれ,だあれもいないよお。げっ!きょうから学校夏休みじゃん。ぴえん。
④しょうがないなあ,空を飛んで遊ぼう!まったねえ。
みごとなできばえに子どもたちの「やりたい!」もぐんぐん高まる。
最後に一人一人のストーリーをiPadで動画に撮影した。
ゲーム名は「山本二三,4コマストーリーで,GO!」。
2345と続いていること,分かってくれた子どもはいないだろうが,僕は十分に幸せ。
なぜ,山本二三って?それは,私たちの長崎県,五島列島出身だから。「時かけ」も「もののけ姫」も「じゃりン子チエ」も二三の作品。懐かしいという感覚よりももっと近いものを感じる。地元の誇り。
美術って,自分に近づけるもの。美術って,その中に入っていくもの。美術って包み包まれ一体になるもの。
夏休みのはじめ,長崎の美術に長崎の子どもが包まれている。僕も,なつきさんもひとみさんも包まれている。いい一日,やっぱりいい一日。
神さま,きょうをありがとうございます。僕は長崎の空の下で役立つ仕事に少しだけかかわれて幸せでした。
夜,小さな食事に大きな蟹。
慈しみに感謝していただきました。
そうそう,神さま,みなさん。暑い夏にご用心です!
どこか見覚えのあるガイドさん!
さて,明日からは日本海浜坂、鳥取、そしてさらに東へ。いつもの鞄を持って僕の旅は続きます。
みんなロス
旅のおとも
土産にもらったソースいっぽん
落陽。
この夏のテーマソングは「落陽」。あれからずっと歌っている。そして,土産にもらった最後のひとつを使う日がきた。
僕が5歳の頃から愛してやまなかった京都のハムカツが我が家へ。ハムカツは厚い系よりも薄い系が好き。ときどき,厚いのも美味しいけれど,やっぱり基本はカリカリの中の微妙なしっとり。
それには,ソースが大事。
あの爺さんときたら,そんなことも覚えていた。僕がご当地ソースを探しながら旅していることを。
土産にもらったソース。
美味い。
9月に行くよ。新冠に行くよ。襟裳岬に行くよ。そのときは,若い日を語り合って飲もう。あと10年。賭けるものを探しながら飲もう。黙り通した年月を言葉にしよう。身構えずおくびょうなんてどこ吹く風って感じではしゃごう。
つながりはどこにでも
きょうは唐津。長く一緒に研究を続けていた仲間が教頭先生になり,応援している仲間がこの春に移動した学校だ。
楽しみながら向かった。途中,道に迷ったけど,早めに出かけたので15分前に到着!ぎりぎりセーフ。
と,まだ15分もあるのに職員室から会議室に先生方が移動しはじめている。
「ちょっと早すぎない?」と,うれしい戸惑い。その集団の中に見かけた顔。思いもしなかった旧友再会。校長先生も馴染みの男。
それなら話ははやい。
僕は本気で先生がたの中に入ることにした。とにかく一体。とにかく一緒。とにかく本気。
校内研修が熱いというのはいいもんだ。熱くさせられたのか,一緒に熱くなったのかは分からないけれど,ことしの夏は楽しくなりそう。
神さま,きょうも一日ありがとうございます。「つながり」とは難しそうで,実はいつもそばにあるのかもしれません。それに気づかせてくださった神さま,ありがとうございます。