ちょっとしたこと,綴っておこう。モレスキンのノートとモンブランの万年筆,時々たつログ。
たつログ
えとせとら
鞄をさげて,さあ天草。
北海道というサッポロ
実は愛読書
確かな大地
そろそろやめよう。
教師の都合に子どもを手繰り寄せるようなワークシートをやめよう。
教師の思考をなぞらせるだけ。子どもは考えない。大人の最短距離に引き込むこと。大きな失敗はないけれど小さな学びの積み重ねもない。単調なことをこなすだけ。教師の教材研究の結果を再整理した表の穴埋めに終始する時間。
そろそろ、こんなことはやめよう。
学ぶということ
観覧車に乗せて
僕はこの学校のスーパーバイザー、らしい。といって、実はスーパーバイザーって何かよくわかっていない。その名前の意味はわかっていないんだけれど、僕はここに生きている教師たちのことが大好きだ。
毎回、下駄箱に小さないたずら心のこもったメッセージを添えて迎えてくれる男がいる。大村はま先生や有田和臣先生に学び、菊池省三先生に師事している勉強家で恥ずかしがり屋の大男がいる。自分のことはいちばん後回しにして職員のことに心を寄せる姉さんがいる。
とにかく目の前の子どもにがむしゃらに付き合っていく教師たち。若手も新任もベテランも、一気に集まる、一心に取り組む、ひとつになって子どもを守る。そして、みんな涙もろい。語気を荒げながら子どものことを心配し、目尻を下げて子どものことを語る。この教師たちの身体の中にはいつも子どもが棲んでいる。
自分は教師なんだと権威を振りかざす乱暴ないばりん坊など一人もいない。授業を固定化した自分勝手な見方だけで評価するような権力者はいない。子どもを見ようともしないで決めつけたように子どもを語る横着者など存在しない。誠実な仕事人ばかりがここにいる。
こんな学校、ほかにどこにもない。どこにもありはしない。
だから、もう少しだけがんばろう。
僕はこの教師たちと同じ時間を生きていることを誇らしく思ってる。
万博公園の観覧車が遠くに光っている。少しだけ遠回りしてホテルに帰ろう。
きょうの余韻をあの観覧車に乗せてくるくる回してみたい。この余韻を光の粉にしてみんなにふりかけたい。教室の感動って、本当に美しいんだって、観覧車のてっぺんから叫びたい。
ありがとうありがとう、ありがとう。
神さま、幸せって無限なんですね。無限っていいですね。神さま、無限って不器用なんですよ。
神さま、きょうという一日をありがとうございます。ふつかはやい七夕。今夜、教室の織姫とプールサイドの彦星に会えました。
本当に幸せです。
いいことありそう
朝からメール。
壮から、8月は壮の発表に浸ることができる。鶴首。
宮脇さんから、鹿児島の雨も落ち着き、昨夜はゆっくり床についたとのこと。安堵。
大地から、西海は達富のホームですよとのメッセージ。7月10日を心待ち。
松尾から、やる気をあげた姿が目に見える。さらに応援。
そして、松尾に粋な配慮の中尾。大人としての支えを実行している中尾に感謝。
さあ、これから大阪。谷本。スーパーバイザーとしてかかわらせてもらってる教室へ。
いいことありそうな、いや、いいこと続いている金曜日。
神さま、ありがとうございます。
やっぱり教室
きょうは論理学の授業を2コマ。180分。
12時を過ぎて終了。手ごたえ、抜群。心地よい疲労、たっぷり。学生の満足感、あったように感じる。
ここ数週間、この180分のために費やした準備の時間はその10倍以上。
午後、芥川の羅生門を扱った高校単元づくりの授業。90分。
夕方。手ごたえ、満足。教えたという感覚、ぴったり。学生の充実感、高まったと感じる。
ここ数週間、芥川を読むことしばし。昔読んだ全集を棚から取り出し、書斎を散らかしていた。
やっぱり、教室。そして、教室に生きるには準備。準備にかける時間。
今夜のビールは美味しいはず。
牛乳石鹸、よい石鹸
新しい石鹸を使いはじめる日のお風呂は格別。昨日までと同じ香りのはずなのに違う。角張ってる石鹸は若い。はつらつとしている。そうであってかつ妙なみずみずしさがある。
お風呂あがり、世界でいちばんきれいになった気分。
牛乳石鹸、よい石鹸♪
歌いながらつまらない一日を洗い流してる。
酒飲んでねるぞ、
教室で生徒と学びを創り上げている教師を応援したい。それだけだ。僕に立派な理論があるなんて思ってはいない。系統だった指導方法を語れるわけでもない。ただ、子どもの学びを見つめる教師と生きたいだけだ。
それなのに、きょうは誠実な教師を讃えることも励ますことも守ることもできなかった。
そんな自分にうんざりだ。なんと情けないことだ。自分が小さく小さく感じる。
数学教師のMさん。その誠実な気持ちがいちばん。学習の振り返りのとき、一人一人に合わせた言葉かけはMさんにしかできない絶妙な指導でした。逡巡しながら言葉を選び、タイミングをはかり、生徒に言葉を届ける。見事でした。数学の授業でありながら生徒支援の時間。生徒を達成感に近づける時間。
頼りにはならないけれど、僕はずっと応援しています。どんなことでも「言われやすい自分」であり続けることは大切だけれど、瞬時のマイナス評価などには耳を貸さず、誇り高く生きていきましょう。
教室を語れるのは教室に生きている者だけ。僕たちは教室の中に居続けよう。教室、それは僕たちの人生です。
こんな日こそ、神様、一日をありがとうございました。
桜島から
学校
ひさしぶりです
はじめまして,ひさしぶり!
今週は教室。きょうは小学校。
午前は佐賀市内。
休み時間に6年生がホワイトボードに書いている。言語活動をすすめている。両面からふたつのグループが書いている。ただただ,書いている。
4年生が語ってる。先生と語ってる。先生の目を見つめ,ただただ声を届け,声を受け止めている。
教室で,こうだから魅力的だ。主役は子ども,主役は教師,どちらも主役。それが教室。
ということで,お昼もとらず移動。
午後は鹿島市。
妹みたいな担任がこっそり言っていたみたい。「たつとみ先生が来るよ。」って。
だから,
書いたものを持って集まってくる。「たつとみ先生,この文末いいでしょう。」って。
初対面なんだけど,答えている。「うまくなったやん。」
妹みたいな担任からこれまで聞いていた子どもの姿どおり。
やっぱり,教室はいいなあ。
神様,きょうもありがとうございます。恵みにあふれたいちにちでした。
虎屋に乾杯!
さあ壮,コラボレーションだ!
始発。行き先は鹿児島。壮のはたらく中学校。
壮が書いてくれた墨書が僕を待つ。力強さは優しさを秘めている。
まずは教室。とにかく話しかけるのが達富スタイル。声を届けるのがだいいち。声を聞くために語る。
日頃の壮の指導がどれだけ生徒に響いているかは一瞬でわかる。声がここまでまっすぐ届くから。
だから,この教室にずっと居たいと思った。ありがとう,郡山中学校2年1組のみなさん。そして,壮。
次のコラボレーション単元はいつにしようか!
帰りは椋鳩十の店で少しだけ喉をうるおした。先ほどの授業についての河野君からの質問が心地いい。こうして,授業が意味づけられ,授業参観が言語化されていくんだ。
授業は一人で行うのもいいが,観てもらうのもいい。そして,語り合うことがなければならない。
神様,きょうもありがとうございます。恵みにあふれたいちにちでした。
5つのパン
必ず来ますから
やっぱり,ヤフ!ド
ちょっとだけ,ヤフ!ド
さあ,ヤフ!ド
やっぱりかっこいい
学生だってアクティブ・ラーニング
なかま
いくつになっても
この日ばかりは吉田拓郎さんの「いくつになってもhappy birthday」が朝の曲。我が家のリビングのお気に入りのB&Wのスピーカーで鳴らす♪
きょうは,近くの野市に行って,そこで干物と買ってきて,そのあと庭の芝生の手入れをして,きれいになった緑の上でサッポロビール★を10本飲むつもり♪
紫陽花もたくさんの種類が咲いてきた。毎年恒例のPENNY LANEの紫陽花アルバム。
来週になったら,もう20種類は咲きそう。
と,お昼過ぎ。宅急便のK君も「きょう,お誕生日なんですね♪」と荷物を届けてくれた。
子どものメッセージの書き込まれたnonnonの箱。気に入るに決まってるゾ!と,ご機嫌。
予定通りの庭食べ。野市から連れてきたイカの一夜干し,きびなご,干しカレイ。それと子羊。しいたけ,などなど。しあわせ♪
いくつになっても誕生日は一年で最高のいちにちだ。
夕飯前には,お袋と兄貴とも電話で話した。みんなの元気な声がうれしい。兄貴の誕生日は6月10日。子どもの頃は,一年おきに9日と10日にお祝いをしてもらっていた。そんな懐かしいいちにちを思い出しながら,11本目のサッポロビール★で乾杯!
今年も届いた教え子からのエッセイ集。いつもいつもとりまとめをしてくれている賢治にも感謝。こんなの読んでいるとまたまた★がふえてしまうよ。ヒロ,りゅう,あや,かおり,賢治,DO,恵理子,ぐ,なほ,直子,真美,源,みっち。元気にしていますか。ありがとう。
たくさんのメールありがとうございました。キリ!日付変更線ぎりぎりのLINE,うれしかったよ。何年たっても,年の差は変わらんから,ずっと,いちばん年の離れた友人でいてちょうだい。
誕生日,ありがとう。
それでも
吉田拓郎さんの「夏休み」という歌に,「それでも 待ってる 夏休み」というフレーズがある。ちあきなおみさんの「喝采」に,「それでも 私は きょうも恋の歌 歌ってる」というフレーズがある。
ぼくは「それでも」が好きだ。誰かに言う「それでも」は好きじゃないけど,自分に言う「それでも」は自分への賛歌だ。「それでも」。自分が自分に言い聞かせている。僕が僕に言い聞かせている。
まるで,到着駅に着く直前,ゆっくりになった列車の窓に映る自分に語りかけるように。まるで,その地を去る列車,スピードを上げる窓に映る自分の顔に眼を閉じるように。
上手くいくこととそうじゃないことは,そうじゃないことのほうがうんと多いけれど,「それでも」僕は,明日を生きる。
そう,
「それでも,きょうも,授業をしている」。
トラック
土と生きる
次の声のために
平易平明
自分が分かっていることを相手にわかるように語るとき、心がけることはつかう言葉のふさわしさと、言葉の並べ方と、声の届け方。
易しい言葉がいいというわけではない。思いついた順でいいというはずはない。いつも同じ声でもいけない。
少しつかいなれない言葉でも、少し間があいたとしても、普段と違う声の態度がいいこともある。
のんきそうじゃないか
さあ行きましょう
勉強をするというのは何歳になってもいいものだ。小さな自分と柔らかい自分に出会える。
さあ、行きましょう。
明日は、大学で教員免許状更新講習(中学)。
クリームパンを旅に連れて
麦秋
青い空の下で
こんな日は遠回りして帰ろう
人が好きやけん
言葉はどこまでも
天草は思ったより近くて
僕はいま
駅に向かう車の音楽。僕のスマートフォンにつながったスピーカーからはQueen。
今朝の心境とは少し違うかと感じたんだけど、そうじゃない。
We are the champions – my friends.
そう、まさにそう。
And well keep on fighting – till the end.
やるしかないんだ。時間がないんだ。
僕はいま、東に向かう列車の中。
届いた写真
ジョー,復活
愛に包まれ祝福を
K先生と歩いた道
あざみ
令和のしごとはじめ
半年ほど温め続けていたことがある。
昨年末、「調」という漢字の勉強をしていた。「調」を「ととのえる」と読むことは知っていたけれど、「調」を深く調べれば調べるほどこの漢字に惹かれていく。
調整、調理、調達、調律。
「調」、いい漢字だ。深い意味だ。この漢字を使って論文を纏めたくて仕方がない。
以来、練り続けていた構想を綴ってみた。使いたい言葉がきっかけで思考が立ち上がってくる。言葉が僕を形づくる。そんな言葉に出会うと贅沢な気分だ。
連休中、5月1日と5月5日は机に向かう時間をつくった。そのかいあって、令和のしごとはじめは調子よくすべりだした。
ととのえるというのは、整理整頓だけではなく、必要なものを必要なときに必要なだけ必要なように揃えること。まさにこの瞬間をやりがいのあるようにこしらえること。
調えられる大人になりたい。
神様、きょうも一日をありがとうございます。
さあ、子どもの日
かつて子どもだった大人の日
さあ,明日は「子どもの日」イブ
どこまでもひろがれ
新しい時代を生きる
これまでに感謝、これからに感謝。事実を信じ、過去を許し、新しい時代を悠々と航っていきたい。
神さま、ありがとうございます。
僕はもう少し愚直で小さな自分であり続けようと前を見ています。
新しい明日に祝福を!
陶器市
5月の連休といえば陶器市。今年もなかなかいいものを見つけた。これで明日からの庭食べが愉しくなるはず♪。
プロ野球はしばらく見ないことにする。
雨に唄えば
庭仕事
さてと,
お誕生日おめでとう。
クリスマスよりもお正月よりも復活祭よりも誕生日。僕は誕生日が好きだ。この日ばかりは、一日を胸張って、深呼吸して、きょろきょろしないで少しばかり背が高くなった気持ちで過ごすことができる。
きょうは僕の大好きな友だちの誕生日。
おめでとうの言葉では物足りない。だって「ありがとう」の気持ちも多いから。「よかった」って気分も加えたいから。
いろんなことを、いろんなことが、そして、もっと大切なことを経験し、実現し、夢見ることを教えてくれた友には「ありがとう」も「よかった」も大切だから。
「おめでとう」って、「ありがとう」に似てる。「よかったね」に支えられてる。きっとそう。
同じ時を歩むことができた奇跡に感謝します。そして、これからも同じ轍を創っていけることに感謝します。なにより、出会えたことに感謝します。
本多ひとみさんに祝福を。
サプライズを企画してくださったタケなっちゃんや花ちゃんに感謝。
とにかく友
今夜はあくゆう。人懐っこい顔が手強い。
壮は今夜も元気。部活での心残りな出来事がますます彼の心を美しくする。壮の口から出る言葉に生徒へのネガテイブキャンペーンはない。
ヒロシの言葉への頑なさが僕は好きだ。「言葉」が話題になったときばかりはヒロシがかっこよく見える。
粗相野。これほどまでに丁寧な男はいない。Queenが好きなのかThe Beatlesが好きなのかは不明だけど、生徒が好きなのは間違いない。今夜のレノンのTシャツ、似合ってたよ。
むらながさん。生徒の見方や考え方についての誠実な観察は圧巻。そうなんだよね。そうすればいいんだけどね。と、みんなを教師一年目の姿に戻してくれる。
鹿児島の友とその友と、そのまた友との出会いの夜は、僕が鹿児島にいるという事実。
ありがとう。鹿児島の友。鹿児島県のあくゆう。
翌日の中学校の教室。
学ぶ姿はいつも美しい。
僕も中学生の前で,
ありがとうの気持ちだけだ。もうしばらく僕は鹿児島に浸りたい。
感謝とよろこび
ノートルダム寺院
心痛みます。
好きなものはと問われれば
椎茸、枝豆、高野豆腐。
これさえあれば毎日ご機嫌。
今夜は中尾にもらった熊本菊池の椎茸に舌鼓。
我がよき友よ
#NAGASAKI こいつがともだち
門司港
斉田さんの眼鏡
斉田さんの眼鏡はどこにいったんやろう?
天草、そして島原
天草に学ぶ
午後6時。定刻に集まる。上天草から下天草から。牛深からの赤城ィは着替える時間ももったいない!と、ジャージのまんまだ。抱きつかないけど抱きつきたくなるいい男だ。抱きつく代わりに背中を押してやる。
「天草ですね。」「天草です。」「顔なじみになりました。」「私たちもです。」「深まりましたもんね。」「なんかできそうな気分です。」
前回、熱く熱く語った若い女性教師が同じ場所に座ってる。マスク姿が心配だけど花粉症かな。体調は悪くなさそう。小さな子どもはどうしたんだろう。そんなことを思い巡らせている僕に「この言語活動がしっくりきません!」の声。
僕が学んでいる。僕が育ててもらっている。
この春、定年退職を迎えた僕の大好きな大ベテランから甲子園のベンチ入り経験者の若手まで。新しい時代が来るのを待っているのではなく、こちらから迎えにいこうとしている天草の教師と一緒に今年も僕はここに通うつもりだ。
長崎の鐘
山桜の向こう
自分の授業に学ぶ
球春
陽春
仲間と迎える春休み
前の学年でもない。といって、次の学年でもない。春休みは無所属のようで気楽であり、どこにも頼りがないたんぽぽの種のよう。
これは僕の中学校3年生の時の作文。
きょう。春休みはじめての日曜日。佐賀の教師仲間と集まった。月例の指月会。
4月の第1単元に向けてたんぽぽたちと一緒に学んだ。
おーい、ぽぽんた!って呼びかけたくなるほど、仲間の顔は先を見ていた。
球春は相浦にも
「達富さん,きっと市立和歌山に感動していることと思います。」とか,「ひいきの高松商の見事な姿に春のビールがすすんでいることでしょう。」とか,午前中から僕に届くメールは球春の便り。みんな僕が甲子園で酔っていると思っているらしい。
ところがどっこい。
僕は部員10人ほどの野球部の試合に来ている。守りのときの三塁側ベンチはがらんとしている。といって、一塁側もそれほど多いわけじゃない。スタンドに鳴り物はない。
ここにも球春。
おい,球児たち!イチロー選手がバットを置いたって知っているかあ。お前たちも一塁ベースまで全力で走り抜くんだぞ!塁間は甲子園もシアトルも相浦も27.431メートルなんだから。
帰り道,夕焼け。
僕の携帯電話には写真がいっぱい。坊主頭の高校生,九州の仲間,駅前の蕎麦,商売道具のかばん,家の近くの夕景など,いろんな写真がつめこんである。
神様きょうもいちにちをありがとうございます。
甲子園も相浦もシアトルも,明日,天気になあれ!
イチローが
薩摩の春の風,今,此処に立ち 涼風
我が家の山桜が薄紅を空に透かした春分の日。鹿児島から壮と隆啓がやってきた。
彼らを迎えるのを楽しみに佐賀から昌志と長崎からキリもやってきた。だから僕は鯉の幟を空に泳がせた。
カヤックも楽しめるのがPENNY LANEのじまん。
いつものようにサッポロ黒ラベルが,のはずが,今回はちょっと違った。相手は薩摩男。ビールは2,3本ですませ,芋焼酎にうつった。本当に,あっという間に一升瓶がごろりと空になった。土産にもらったはずが,我が家の酒棚に並ぶ前に空いた。庭だけでの披露になってしまった。
飲んで騒いで,教室を語り,友を語り,仲間を誇りに思う。これが僕たちの飲み方。
お酒の隙間にほおばる「いちごさん」。これがまた最高に美味い。そして,鶏飯。壮の奥方が早朝からもたせてくれた逸品。僕たちは頬張るように流し込むように,だけど,しっとりとかみしめながら薩摩の味に酔った。あの雨の桜島以来の前田屋の鶏飯。美味い。本当に美味い。
帰り際,「鹿児島からの日帰りなんて,たいしたことないですよ。」の二人のひとことがうれしい。学年末の気忙しさくらい僕も知っている。だけど,こうして集まってくる。僕は,どんな時でも仲間と一緒に居たいと思っている。連中に愛想を尽かされないように気をつけなくっちゃ。
またおいで。
5月の10連休は「みんなで黒ラベル1000本飲もうウィーク」をするつもり。
薩摩と対馬の焼酎があと3本,唐津の苺がもう1盛り。明日からゆっくりと味わわせてもらうよ。壮,隆啓,そして昌志とキリ。ありがとう。かならずまたおいで。
薩摩の春の風,今,此処に立ち
これは浩(涼風)の句。
わかばちゃんの春
この道を通って7年目。佐賀大学でのはじめての年の春。登校中の小さな1年生を見た。そう、車の中から見た。勝手に「わかばちゃん」と名付けた。
大きいランドセルと大きな帽子。わかばちゃんが見えない。荷物と洋服が歩いているようだった。
7時18分。決まったように道を渡る。横断歩道のない農道は誰かが停まってくれないと渡ることができない。僕はわかばちゃんを渡らせるために、7時18分にそこを通過できるように運転を調整した。
僕だけじゃない。誰もがわかばちゃんを渡らせるために一旦停止をしたかったに違いない。僕たちはおじさんドライバーは競って停まった。
雨の日は傘が歩く。写生会のときは絵の具かばんが歩く。水着やリコーダー、図画工作で使うんだろうか空き箱やペットボトルも歩く。学期末は、それら全部が歩いて帰ってくる。
あれから6年。
卒業式の日。大きくなったわかばちゃんは新しい服に身を包み、自分の目で確かめてお辞儀をして道を渡った。競って停まろうとするおじさんを先に通らせ、小走りに渡るわかばちゃん。
卒業おめでとう。
つぼみ,ふくらむ
静かな土曜日
ちいちゃん
このごろ元気
8年前のこの時刻。僕は京都市上京区の仁和小学校で授業をしていた。手応えを感じた授業だった。
先生がたと協議をし、気持ちよく街に出て紫明小学校の友人と秋刀魚の塩焼きを肴に乾杯した。その店のテレビに映っていた映像で地震を知った。
情報社会なのに、このお粗末で遅い動き。僕は恥ずかしいやら情けないやら悔しいやら。以来、何か震災復興に乗り遅れた気持ちが残っている。
だからといって、常にテレビやラジオを気にしたり、ネットニュースをチェックしたりするような情報依存になりたいとも思っていない。
ただ、空や風を感じ、全国に生きる友や地域に暮らす仲間と「今」を共有したいと思っている。リアルタイムでなくてもいい、葉書のスピードがいい。僕は「この頃、近頃、ここ最近」元気にしている。だから、たぶん、「もうしばらく」幸せだと思ってる。
神様、きょうも一日ありがとうございます。
下関球場
仕事帰りに100球
教室にいるということ
「達富先生!」という声。それだけで十分なのに,きょうは給食まで一緒だった。
「質問があるんですけど。」
「なに?」
「好きな食べ物は何ですか?」
「とびっきり辛いカレーです。」
という日常生活から,
「先生は努力をすることはどんなことだと思いますか。」
「誇り高く生きていくことだと考えています。」
「先生は自分自身に漢字を贈るとすればどんな字を送りますか。」
「《許》という字を贈りたいです。むずかしいことだけどね。」
という人生論まで。
これらが一緒にあふれているのが教室。だから教室は尊いんだ。
「誇り高く生きる」「許」「信」,求められたノートにこんな言葉を書いた。
書きながら,もっと誇り高く生きなきゃ,って何度も何度も思った。子どもの瞳が僕に語っている。子どもの声が僕の背中を押す。僕は,もう少し教室にたたずんでいたいと思っていた。
神様,きょうも一日をありがとうございます。
いまいちど
四万十川を上流に向かって車を走らせる。目指す学校は全校6人の小学校。
5年生と3年生の女の子二人が肩を並べて学んでいる。
本を読むのが大好きな5年生とその女の子とおしゃべりをするのが大好きな3年生。となりの複式学級からもまあるい声が聞こえてくる。
こういう学び舎に身を置くと、僕は自分の体たらくが恥ずかしくなる。
どんな教師になりたかったのか。こんな教師になりたかったんだ。
それなのにどうなんだ。何に心を動かしながら生きているんだ。心は錆びていないか。磨いてきた力は衰えていないか。まだまだ磨き上げるつもりはないのか。子どもの声は聞こえているのか。聞き逃している声をどうしてるんだ。
神様が問う。
雑な仕事をしてはいませんか。あたたかい仕事を残していますか。人の声の中で生きていますか。明日が見えていますか。明後日を創り出そうとしていますか。
小さな小学校が僕に語る。まだ間に合いますよと。
こんなはずじゃなかったと、僕は小さくなりかけた自分を言葉にする。
四万十の川の水は何も知らないのに何もかもお見通しのように僕の前を通り過ぎる。
いまいちど、子どもの声の中で生きてみたいって、そう思っている。
心見つめさせてくれた四万十の旅。
沈下橋と僕の鞄,向こうには菜の花,そしてふりそそぐ春の陽。この切り取られた景色を見るたび、僕は心あらたにいられそうな気がする。
僕はいま長崎に向かう飛行機を待っているところ。一昨日の僕と何一つ変わっていないように見えるけど、ちょっと美しくなった僕になって長崎に帰るつもり。ちょっとだけ、教師になったばかりの時の僕の心に戻って帰るつもり。
飛行機の窓から見たかつて働いていた大阪市の灯り。25年前、僕はここに居た。この明るすぎる街。きょうのふたつだけの机が並ぶ教室。どちらにも子どもが生きている。子どもと教師がいる限り、そういる限り。
神様、きょうも一日をありがとうございます。
桃の節句は四万十で
PENNY LANE でサッポロ!
さて、がんばりどき
こんな夕日に照らされて
行脚
話を聞いてくださるということ
きょうは京都教育大学附属小学校での研究会。地元京都だけではなく、兵庫や大阪、和歌山あたりからの参加者もあると聞いている。
交流が広がると思うと胸が高鳴る。佐賀平野を走る特急の揺れも軽やかだ。さあ、博多で朝うどんを食べて新幹線!
あたりまえに思ってはいけない。僕の話を聞いてくださるなんて、もったいないこと。
そのことを忘れてはいけない。
そして拍手をくださるなんて。忘れてはいけない。
ありがとうございます、を忘れるような日がきたら、僕は人前に立たないことにする。
と、来てくださったかたの中にかつての達富ゼミ生!うれしい!
感謝ばかりの土曜日。
もちろん、京都の夜も最高!
水仙の向こうは春がすみ
あくゆうから春の便り
夕方に仲間が集うということ
時間をもてあましている人なんているわけない。みんな時間をやりくりしてるんだ。そうしてでも集ってくる。これが「西海の会」。
授業力を高めるには,「時間ができたら研究する」では無理。「研究するのがあたりまえ」でなきゃ無理。西海の会はあたりまえをさりげなくやろうとしている。だから美しい。
発問といってもいい。問いといってもいい。課題といってもいい。
ただ,これらのものが「教師からのもの」だけではなく,「子どもたちから」のものになりたい。そう,こどもたちが自ら「私の問い」を立てるような単元。
そのためには,まずは学習課題から。とうことで,今夕はみんなでワークショップをした。もちろん盛り上がる。
参加者からの「なるほど!」の声が,また僕を西海好きにさせる。(きょうは花粉症ではながぐずぐずしていてごめんなさい。)
もう一度,授業をみるということ
きょうは授業リフレクション。先日,2月8日の授業をもう一度,みることにした。
参加者が一人称で,そして,授業者が三人称の立場で授業を語る。この瞬間が僕たちをひとまわり大きく育てる。
(^^)/ http://kokugo-kumadaifuzokusho.blogspot.com/2019/02/blog-post_19.html?m=1
続きは3月下旬に熊本で!と約束して,佐賀の夜は更けていく。
神様,きょうも一日をありがとうございました。
巣立ちゆく4年生
僕は今、天草へ
研究授業前夜はポッキーで!
くたびれました。
メールなんて
ゆうべ、なんとなく周囲とのちぐはぐな感じに気がついた。
原因は僕のメールの状況。どうやら二日前くらいから僕からのメールがみなさんに届いていないようだ。
受信はできる。こちらには間違いなく届いている。しかし、そのメールの返信がみなさんに届いていないようだ。もちろん新規に僕から送ったものは届いていないらしい。
そりゃあ、ちぐはぐになってしまうはずだ。
メールを届けられない焦りとメールを届けることができなくても何とかなる妙な安心感。だけど、メール社会から取り残された寂しさ。いや、メールに頼らない生き方ができるという妙な自信。
ともかく、みなさん。僕はメールの返信もしていたし、新しく届けようともしていたんですよ。
どのメールが届いていて、どのメールが行方不明なっているのかを定めることもできませんが、僕はちゃんと普段通りに過ごしていましたし、すべてのメールに返信していましたよ。
だけど、とりわけ、江里口、平田、中尾、溝上、藏田へ応援メールを届けられなかったのが残念。
神様、きょうも一日をありがとうございます。