ちょっとしたことを綴っておこう。モレスキンのノートとモンブランの万年筆、時々たつログ。
たつログ
えとせとら
きりのくせに
独り身
解決策で解決できるか
《問い》を立て,その《問い》の解決策を練り,試行し,解決を図る学習。
今やあたりまえになった学びの姿だが,《問い》の解決策の練り方を教えているかを見つめ直さなければならない。学習課題では「思考操作」を具体的に提案しているにもかかわらず,「解決策」は単純に考えさせている,としたら,それはもったいない話である。
では,どうするか。
「解決策」を知り,解決のみちのり実感するためには,「(ほぼ)共通の問い」あるいは「教師からの(有効な)問い」をもとに「解決策」をイメージさせ,「解決」を体験させることが有効であろう。
そんなことずっと前からやっていたとおっしゃるだろう。そう,「価値ある発問」とはそういうものだ。「初発の感想から導いたように見せかけた(みんなの)めあて」もそうだ。大切なのは,そこに学び手の切実感をどう重ねるか。
それこそが本物の教師のできる不思議なわざ。
そんなことを考えさせられたきょう。
ふたつの教室。
仲間が仕事をする姿は,こちらまで清々しくなる。
唐津産のいちごさん
関西弁は熱い
日曜日はビアホールで
京都に住んでいたから
ゼミっ子たちの読書会
佐賀指月会
仲間が輝く姿
2月7日。この日を大切に包んでおきたい。そしていつまでも語り継ぎたい日。にがつなのか。
仲間が輝くのは我がごとのようにうれしい。
8時30分。佐賀市立本庄小学校 平田昌志の授業。この学級の子どもの「話す姿」に不自然さはない。話したいから話す。聞いてほしいから話す。話さなければならないから話す。このような本気の「話す」は,思考を自分のほうに手繰り寄せてくる。表現を解き放つ。電子辞書を操りながら,ノートにメモを残しながら,そして,教師の声には素早く的確に反応しながら。教師だけが動かしているのではない授業だからこそ,子どもが自在に思考を深めていく。子ども。その大きな可能性が見える。
9時30分。江里口大輔の授業。「うなずく」と「首をたてにふる」の違いを手持ちの言葉で語る。辞書を使いながら違いを言語化する。そのことがこれからはじまる「ごんぎつね」の読解を作っていくことを知っているのか知らないのか,だけど子どもは言葉を通して自分の考えを形作っていく。そして「ごんぎつね」の6の場面に出会ったとき,「ああ」と教師の導きに目を丸くする。子どもの思考を安く見積もらない教師だからこその45分だ。
14時35分。熊本大学教育学部附属小学校 中尾聡志の授業。前日まで,いや,今朝まで,ちがう,さっきまで練りに練った単元。もしかしたら,まだ考えたりないのかもしれない。単元研究に終わりはない。これまで教えてきた教師の確信とこれまで学び続けてきた子どもの自信。それらが今,ひとつの布になる。「ちがう」「ちがう」「まだあまい」。教師がこんな厳しい声が発するなんて,参会者は思ってもいなかっただろう。だけど,こどもは鮮やかに「だから」「じゃあ」「わかった」と正面から受けている。そう,この教室には厳しさと熱さと柔らかさがある。だからこそ,みんなが心から安心して教師の単元に全身をあすけている。あともう15分あったなら,そう感じたのは,参会者。教師。いや,子どもだ。子どもがもっともっとこの時間が続けばいいと願っていた。中尾は幸せだ。
翌8日。
9時00分。田邊友哉の授業。完全に緊張している。昨日までの彼ではない。この学校に赴任してはじめての研究発表会に飲まれるのはしかたがない。だけど,それが決してマイナスではない。彼は完全に包まれていたから。包んでいるのは彼の学級の子ども。これまでの単元で学んできた実績を,子どもが言葉にして語っている。1年生の語りだとは思えない。学習者としての見事な語りだ。その語りに彼の緊張もとけていく。授業終盤。いつもの学級に戻った。そのあたたかさを見て安堵したのは,小さな教室を埋めた参会者だ。この学校の研究発表会に集まる参会者は,明日からの授業に期待している。だから,こういう授業は授業者もうれしくなる。
10時00分。溝上剛道の授業。授業前の廊下で「ゆうべは眠れたか」と問いかけると「ねてしまいました」の爽やかな笑顔。間違いなくいい授業になる。間違いなく。思えば2年前。彼の附小デビュー。「あんた,聞いとくれ。」という単元から始まった溝上の単元学習。この2年間は並大抵の時間ではなかった。彼の内側から湯水のように湧き出てくる「問い」の量は半端なものではない。源泉掛け流し。その「問い」を一つずつ,確実に解決してきた道のりがきょうの授業だ。見事,圧巻。彼が何歳かは知らないが,僕の教師人生にこのような充実の授業はなかった。彼が先輩中尾の背中を追い続けてきたからこその授業力。見事な師弟関係。花はかならず開く。
仲間が輝く姿は美しい。
授業リフレクション研究会。必ずやります。
もっと素敵な背景で写真を撮ればいいのに、と思われるかもしれないけど、これはわざとのチョイス。
ここは我々の一日の終わりの場所。何度、ここで握手をしたことだろう。
今夜の別れは次回への約束。
授業ライブ
校長は学友
授業するなんて、もう言わない
日々、授業をしている先生はそれだけで尊い。どんな言葉もいらない。授業に身を置く先生に僕は憧れる。
子どもはこんなに素敵なのに、散々な姿でした。きょうの授業。
子どもは学びに向かっているのに、声を共有できなかった。きょうの指導。
この子どものがんばりに大きな拍手を贈りたいのに、当の本人は、あかん、あかん。これでは。
かつての同僚がそばにいたらきっと言うだろう。「たつとみ、もうやめとけ。」って。
西村隆志さんがいたらあきれるだろう。「なにしてんのん?」って。
天王寺附小のヤングたちは「たつとみさん、もう抜きました。」っていたずらな目をするだろう。
清原先生が「錆びつきましたな。」と、大村先生が「指月の指は、」と、おっしゃるに違いない。
単元で教えるときと、45分を教えるときと、そんなことも分からなくなっていた僕を恥ずかしく思うし、情けなく思う。
あかんあかん。錆びついちゃいました。
授業するなんて、もう言わない、きっと。
神様、きょうもいちにちをありがとうございます。
話すことは語彙と言語活動
京都タワーと京都駅
ここにも仲間が
たつゼミっ子
きょうはゼミ。12月23日にいちど書き上げた卒業論文を見直す時間。そして、きょうが最後のゼミ。
ちょっと、しんみり。は気のせいかな。
ゼミで続けてきたゼミ文集「葡萄の木」。これは宝物。ゼミ生の学生生活がつまってる。
卒業おめでとう!はもう少し先だけど、「よくやりました!」な言葉はきょう贈ります。
ありがとう、たつゼミっ子。
京都市が好きだ!
サタセンファイナル
九州小学校国語教育研究大会
授業という仕事
達富です。
緊張,なし。気負い,なし。不安,もちろんなし。妙な考え,まったくなし。心地よさ,満点。
佐賀大学附属小学校の教員のはからいで授業をさせてもらえることになった。僕にとっては何よりもの贈り物である。車は大学において,歩いて附小に向かう。お堀ばたの日だまりを歩きながら,何ができるようになるのか,どんなことをするのか,そしてどのように考え浸る時間にするか。何度もなんども頭の中の黒板を塗り消しながら,歩いた。
子どもの声を聞くと,優しくなれる気がする。子どもの前に立つと,厳しくなれる気がする。子どもと重なるとうれしくなる。
きょうのこの時間の実りが,金曜日のこの子たちの学びに役に立ちますように。
この僕の姿を撮ってくれたのは,かけがえのない仲間である松尾さん。僕と子どもの「瞬間」を見事に残してくれている。ありがとう。
さあ、佐賀の子どもをみんなで育てよう。九州の子どもをみんなで育てよう。九州のみんなで九州をつくろう。
僕に望まれているものはなんだろう。僕はそのことに自分を勘定に入れず浸りたい。
神様,きょうも一日をありがとうございます。
はっぴぃデビュー
「こんにちは,たつとみです。」
で始まったFMデビュー。
1時間の生放送。なんだか,とっても楽しかった。
アナウンサーのノッコさん。僕をラジオの世界に連れてってくださってありがとうございました。さすがプロ。話したいことをどんどん引き出してくださる。調子にのった僕は,ついつい話しすぎてしまう。それが楽しい。はじめての生放送なのに,笑ったり,視聴者さんのメールに相づち入れたり,コメントはさんだり。
ヒロ,メールありがとう。大阪とつながっていることが不思議。
次回は3月。くせになりそう。
そして,時津東小学校。この学校の力は底なしだ。学校が力を付けるということをこんな間近で感じられるなんて,そうそうない。何よりも素晴らしいのは「みんな」ということ。
校内研修で前に立って話を聞いてもらうときのあのなんともいえない気恥ずかしい気持ちがまったくない。「聞かせてください」というのでもなく,「教えてくださいでもなく」。「聞いてください」でもなく,「お分かりでしょうか」でもない。
「一緒にやりましょう」「さあ,今からです」だ。
僕はこの学校の仕事をそばから支えるのでもなく,導くのでもなく,仲間として一緒にやりたいって,本気でそう決めている。勝手に決めちゃっている。
さりげなく研究する環境
鶴,舞い降りる出水。
きょうは,出水。しかも研究会は午後7時から。午前中は勤務し,午後に鹿児島入りした。
友だちのオーかわ君の案内で,念願の長島をたずねた。
東シナ海。そして,島めぐり。
まずは,島娘とツーショット。
続いて,鰤カツバーガー。
仕事前だから,ここは我慢してコカコーラ。
そして,研究会。熱い。出水,熱い。2時間の研究のあとは3時間のがぶ飲み。
勤務を終えて集まる教師。研究後も語り続ける教師。その中に身を置くことが心地いい。
そして,翌日。朝一番の新幹線。出水駅に向かう。
と,目を疑った。えっ!
「1月6日にお見送りできなかったので。お見送りするまでがおもてなしです。」
こんないい男に出会った朝は,なんだか得した気分。帰りぎわ,壮がくれた知覧のお茶。
飲みたいような。このままおいておきたいような。
貸し切りのような新幹線もうれしい。
また,ひとつ。2020年の思い出。
合宿
今年もやってきた。熊本 3 Days 企画。学び浸り,語り通し,問い続ける3日間だ。
一人一人がとにかく単元づくりに夢中になる。自分ができることは何かを問い続ける。この尊い3日間に,僕たちは伸びていることを実感する。振り返っていることに心地よさを感じる。そして,やっぱり,伸びていることをありがたく感じる。
語り合った時間は僕たちを育てる。
熱さ,時々,静けさ。
僕は何を望まれているのだろう。僕ができることは感謝を包んで届けること。
3年の授業は子どもが自分を追い込んでいる。自分たちができることを知っている。自分たちがしなければできないことも分かっている。自分たちができそうなことを楽しんでいる。
1年の授業は好奇心に満ちている。先生のひとことに憧れをもっている。「わたしはここにいます!」って,みんなが先生に声を届けている。
6年の授業は自分を許そうとしていない。もっとできることを知っている。もっとやりたいということを隠さない。だから,みんなが高め合っている。
そんなとき,言葉にすることって,とっても大事なことなんだよ,っていうメッセージを届けた。担任がすぐに「きょうの自分にプラス1」という掲示板に残した。僕は,いたずらのように,その紙に手書きを添えた。
そして,少しだけ,みんなの学びに言葉を添えた。
学びを支えることは難しい。だけど,このことを仕事として選んだ自分は間違っていないと思っている。僕は子どもの幸せのそばにいたい。
この仲間も同じ気持ちだ。
さあ,大きな声で笑おう。大きな声で誓おう。大きな子で子どもの名前を呼ぼう。
この三日間にありがとうを贈ります。
そして,この三日間の僕を元気にしてくれたいつものうどん屋さんに感謝です。
神様,三日間,ありがとうございました。
お帰り
薪づくりで自然と対話
宛先
宛先。それは手紙やメールを届ける先。届けたい相手やその場所。
社会言語学でも、宛先性(アドレス性)という用語はよく使う。発話の先のことだ。
手紙ではなく発話のアドレスはひとつに限定できない。話し手もアドレスをひとつに定めず発話することがある。
聞こえてしまった限りは、自分へのアドレスでなくても反応することがある。聞こえていても、アドレスが自分ではなければ受け止めるだけでも構わない。
翻って、自分へのアドレスの発話に反応できているか。的確な内容をふさわしい話し方で返せているか。
そもそも、自分へのアドレスと気がついているか。
アドレスとして僕を選んでくれる人がいるなら、僕が「あなた」に聞いてもらいたいように、僕は選ばれたアドレスとして、ちゃんとその声を大事にしたい。
アドレスとして選んでもらえること。教師はこのことをあたりまえに感じてはいけない。
神さま、きょうも僕に与えられた仕事をきちんとします。
下駄を履かせたからこそ見せられる憧れの風景がある
学習に夢中になっている子どもは,それまで使ったことのない新たな言葉を使いたがる。そんな事実について,昨日,ある原稿にこんなことを書いた。
作品を一読して「温かい気持ちになる」という感想をもった子どもがいる。その子どもに「温かさ」ということばだけで立ち止まらせるのではなく,自分のもった「温かさ」の質や程度を確かめさせ,他の言葉で表すことができないかどうかを検討させる。「温かさ」では十分に言い表せないかもしれない。「読者としての自分」の読解にふさわしい言葉を集めさせ,比較させ,吟味させ,そして選択させる。そんな時間があってもいいじゃないか,という僕の考えだ。
・・・・・・・・・・・・・・
生徒たちは、「盆土産」の温かさを感じる描写や言葉を選び、その温かさを他のどのような言葉で言えるのか、というそれぞれの《私の問い》を立てます。自分が選んだ言葉はどの文脈や描写から導かれているのか、それはどんな言葉で表せるのか、なぜ自分はその言葉で表さなければならないのか。自分の解釈を言い当てるふさわしい言葉を見つけることは自分の読解をもっているということです。子どもは奇抜な言葉を使いたいわけではありません。自分の大発見を平凡な言葉による表現で済ませたくないのです。
(中略)
一方で、『温かさ』という言葉を他の言葉に言い換えさせることに否定的な考え方もあるようです。洒落た言葉を使うことだけに意識が向き、実際は深い読解になっていないという指摘です。確かに辞書で調べたことをそのまま写すだけという姿はよく見られます。言葉の意味をしっかり理解しないまま、たまたま出会った言葉を安易に使ってしまっていることも少なくありません。しかし、語彙学習初期に見られるこのような姿は、語彙学習を継続していく中で見事に解消されます。新しい言葉を使いたがる時期から、使いこなしたくなる時期へと子どもは成長していくからです。むしろ、そのような意識に高めていくことこそが教師の仕事です。質の高い語彙学習は継続していくことで実現します。子どもは新しく出会った語彙を使いたいのです。このような子どもの成長に対する後ろ向きな指摘は、子ども理解を怠った軽はずみなものです。年間計画を立てた語彙学習を継続している教室においては杞憂のものです。
・・・・・・・・・・・・・・
僕は京都に育ったせいか,新しいものはすべて山の向こうから来ると思っていた。京都は三方が山に囲まれているから。だから,京都駅に立っているだけで,新しい自分になれる気がしていた。
そう,新たなものをふれることは今の自分を見つめることになる。もちろん,いにしえの京都のことも大事にしていたし,大好きだった。
新たな言葉にふれるということは,新たな考え方を取り込むということだ。思考の結果を言葉にすることもあるが,言葉が思考を引き寄せることも多い。
これまでの言葉を使いこなし,使い切ることもたいせつなことだ。
ただ,新たな考え方でこれまでの言葉を見つめ直すことで,これまでの言葉をもっと理解し,新たな言葉との関係に気づき,新たな言葉を自分の中に取り入れ,「意味や価値」創造することができるようになる。
子どもに言葉の下駄を履かせよう。ちょっと慣れない言葉にふれさせよう。その言葉を使ってみさせよう。
下駄を履いたら,塀の向こうが見える。壁の向こうに行きたくなる。新しい景色が見える。知らなかった匂いがする。耳を傾けたくなる音色が流れている。見たことのない色が広がっている。
だから,「よいしょっ」と壁をのぼる。ぴょんと向こう側に飛び降りる。
そのとき,きっと下駄は脱ぎ捨てられているに違いない。いつまでも教師の下駄を履いている子どもはいない。壁の向こうの大地を裸足で駆けていく子どもが目に浮かぶ。
私たちの仕事は,下駄を履かせて,塀の向こうに憧れさせ,壁に上らせてぴょんと飛び降りさせること。そう,「自分で下駄を履いて,自分で脱ぎ捨てたんだ。だから,自分でこんな大地を走れるんだ!」と思わせることができたら最高だ。
往復書簡
前略
瀧川さんのおっしゃる通りです。人と人とがつながっているからこそ授業研究が広がるし深まるのだと実感しました。「このワークシートを使えばだれでもうまく授業ができます」「この授業展開ならだれでもできます」という研究会ではない。
達富先生のお考えは私たち仲間の実践のまん中を貫いているけれど、それぞれの教師の固有性によって、人柄によって、単元が作られている。何を大切にする先生なのか、大事なことをいう時にはどんな表情になる先生なのか、どんな声で語る先生なのか、そういうことを子どもが受け取っていることが、教室ではとても大事だと思います。それは今までも分かっていたつもりです。でも、今回の研究会では、教師同士がそういう人柄も分かったうえで互いの授業研究から学び合うという経験を初めてしました。
一言でいうと感動です。
達富先生と前田先生が響き合っているからだと私は思いました。そして、私たちもそれに共鳴しました。
長くなってすみません。後からじわじわくる感動です。
佐賀 田﨑信子
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こんな往復書簡をもらうと,「集い」をやってよかったなあ,としみじみ思う。私たちの学びの実りがきょうからの授業に役立つことを確信する。ほんの少しだけでも。
長崎は嵐。暴風。この風の中,大きなランドセルをからって学校に来る子どもを大きな両手で受け止めるのが私たち教師の仕事。
葡萄の木
佐賀大学,達富ゼミでは週刊のゼミ文集を発行している。タイトルは「葡萄の木」。小学校で担任をしていたときの学級通信と同じ気分だ。異なるのは,毎週,ゼミ生のエッセイを載せていること。
2020年はじめの一枚は明日の発行予定。その編集のために2019年の最終号を読み返した。
巻頭言というほど大それたものではないが,僕の文章は次の通り。
・・・・・・・・・・・・・・
年の瀬。今年一年を振り返る。このことがなければ翌年の抱負が現実味をもたない。私たちの明日は、今日までの続きであることを実感する。◆そう言えば「早寝早起き」という言葉もそうだ。一日という単位で見るなら「早起き→早寝」のほうがよさそうだ。しかし「早寝早起き」。これは、きちんと寝るからこそ、ちゃんと起きられるということ。◆さあ、みなさんの今年はどうでしたか。どんな来年を創っていこうとしていますか。そのことを「言葉」にすることが大事です。思っているだけではなく言語化する。言語化することで自分でも気づかなかったことを自覚できるからです。簡単なことです。書けばいいのです。◆達富ゼミでは「葡萄の木」を通じて書いてきました。みなさんが教師になるなら、通信は欠かせません。生涯、書き続けることが仕事になります。だからこそ、書くことを厭わず、書くことを楽しむのです。間違ってはいけませんよ。「楽しいことを書く」のではなく、「書くことを楽しむ」のです。そのためにも、自分の書く力を伸ばしてください。それは、振り返る力であり見通す力でもあるのです。(Y2)
・・・・・・・・・・・・・・
昨年をどう振り返るか。昨年をどう終わるか。2020年になってからのこの一週間。未だ昨年を振り返っている僕は,今年の見通しを立てていない。そろそろ2020年をはじめなきゃ。小学校も明日から始業式だし。
ということは,まだまだ僕は小学生気分というわけだ。友だちは校長先生なのに,僕は小学生気分。
それが案外,気に入っている。
京都からの便り
達富先生
本当に本当に素晴らしい会に参加させていただき、誠にありがとうございました。
大会委員長の前田壮一先生にご高配いただき、参加が可能になり感謝しています。
前田先生を筆頭に、鹿児島のスタッフの方々は全員素晴らしい方ばかりですね。
本当に素晴らしい会でした。
最後は人。
先生がいつもおっしゃっていたことです。それを現実にされているのを目の当たりにしました。
この集まりはなんでしょうか!
京都にいらっしゃる時よりも勢いが増しておられます。
維新という熱さを感じました。
本当に感激です。
今宵の会に最後まで行かせていただきたかったのですが、残念ながらお先に失礼いたしました。
魔王、磨き大島と、皆様お飲みになれない焼酎までいただいて、ほくほくして新幹線に乗っています。
地の運転手さんに脇道を通っていただき、駅でお土産を買う時間もいただきました。
九州のお蜜柑を味わいながら、新幹線に揺られています。
味わい深い物は手間が必要、手間がいるからこそ、味わい深い。
そう思いながら、お蜜柑の種を出しつつ、単元学習を振り返ります。
それにしてもなんですか。この質の高い研究会は。
振り返るたびに圧巻の研究会です。
さて今から1000キロメートル。最後の乗り換えの出町柳は終電ですが、長旅の間、じっくり振り返りたいと思います。
本当に本当にありがとうございました。
これからも、参加させていただきたいです!
何より、人が魅力的ですねえ。それにつきます。そこが魅力です。
今ごろは二軒目か三軒目か、皆様と親交を深められていらっしゃるところ長々と失礼いたしました。
つい、興奮が醒めず。
失礼いたします。
瀧川賢治
鹿児島に集う
「九州 教室の声に学ぶ会 ご参加の先生方 バスはこちらです」のサインを持って出迎えてくれるのは僕たちの仲間。
会場には行儀よく案内が掲げられている。
受付前には,壮!
窓の外には桜島。
会場には静かな熱さが動き始めてる。
司会進行役もその時を待つ。
さあ、始まる。
こうして集うことがあたりまえに感じてはいけないんだけれど,仲間の堂々と,そして楽しそうに,だけど謙虚に語る姿を見ると,場を重ねることのたいせつさと切実に感じる。
西原さんの単元びらきの「授業ライブ」。企画上のさまざまな制約の中,みごとにライブをしてくださった。これで,「単元びらき」の空気は共有できた。
質問もみごと。語り手の語りたいことをいざなう質問は,会を盛り上げる。会を成長させる。もちろん質問している本人がいちばん得をしている。
校内研究の取り組みを語る竹なっちゃんの姿は,それはそれは,いきいきしてる。
とりあえずやってみましょう!これはこの小学校のキーワードだ。
成果も課題もコンパクト。
大島紬で語るのは,浩。
僕も調子に乗って,感想を少々,のはずが,熱く語ってしまった。
私たちの学びの実りが明日からの授業づくりの役に立ちますように。
さあ,がぶ飲み。
みんないい顔してる。ビールはもちろんサッポロ★。焼酎は魔王に佐藤に喜界島。
町に出ても仲間の語りは続く。曇ったことなどひとつもない。
僕はほんとうにみんなのことを好きだと思ってる。これが片思いでありませんように。
神様,きょうもありがとうございました。愛されたように。
そして,一夜が明けた。が,一人たりない。そう,壮がいない。粗相野君と筆ペンの扱いに詳しい末の友が鹿児島を案内してくれる。
壮,何処におると?
また来るけん。ありがとう,鹿児島。
家に帰ってさつまあげ。
しばらく,鹿児島ロスやなあ。
明日,鹿児島
明日は「九州 教室の声に学ぶ会 鹿児島の集い」の日。心待ちにしていたこの日。九州の仲間が集う。僕はその集いのほんの片隅で仲間の学ぶ姿をしっかりと見届けたい。
九州の仲間に感謝!
ちょうどいい一年になりますように
年明け,考えた。年末に読んだ鷲田清一の「語りの手前で」に立ち止まっていたからだ。
鷲田曰く,
《わたしたちは待つことに焦れて,ついことばを迎えにゆく。「あなたが言いたいのはこういうことじゃないの?」というふうに。語りにくいことをのみ込みかけているときに,すらすらとしたことばを向けられればだれしもそれに飛びついてしまう。語ろうとしてその語りがじぶんの塞ぎをうまく言い当てているか,そのことばの感触をいちいち確かめながらしか語りえないひとにとって,すらすらした物語は一条の光のように感じられる。そしてそれに乗る。じぶんでとぎれとぎれにことばを紡ぎだす苦しい時をまたいで。こうして,とつとつと語りはじめたその能動性の芽が摘まれてしまう。ことばを待って受け取るはずの者のその前のめりの聴き方が,やっと出かけたことばを逸らせてしまうのである。》
『臨床とことば』,河合隼雄・鷲田清一著,朝日文庫
達富考える,「すらすらとしたことばを向けすぎてはいないか」,「能動性の芽を摘んでいないか」,「前のめりの達富が,やっと出かけたことばを逸らせてしまってはいないか」。
さじ加減ということばがある。結果として加減がうまくいったかどうかは分かるが,「今,その時」は少なめにして継ぎ足すしかない。出汁の塩加減も言葉による説明も度が過ぎたからといってやり直すわけにないかないんだから。
学び手(これは,子どもであっても教師であっても)に「ちょうどいい」のはどのような加減だろう。早すぎず遅すぎない集合のためには「5分前集合!」と習った。こういうのは分かりやすい。小学生以来,僕は5分前が基本だ。
では,学び手と対峙するときのさじ加減。どこまで語るか,いつまで待つか。何を語って誘うか,どのように待ってどう語らせるか。
この冬はじめて霜の降りた元旦,お雑煮用のお餅を焼く七輪の炭を組み直しながら考えている。
食べおさめ,飲みおさめ。
さて,京都
仲間との時間
サンタが我が家にやってきた
いつもともに
酒棚
佐賀指月会,学びおさめ
旅の重さに
今月二度目。鹿児島。
きょうは書写の単元学習。新しいことをやる。これがあくゆうのモットーだ。とにかく楽しみで仕方がない。新幹線の中を駆けて行きたい気分だ。
そのあとは薩摩半島へ。
向田の作品にある山川漬けのことを壮にたずねると、枕崎あたりのひなびたところらしい。
そんなことを思い浮かべているうちに鹿児島到着。
いつもの笑顔が改札に待つ。鹿児島豚のカツを食し、中学校へ。ここにも仲間、そして学び手。
廊下が輝いている。学校全体が、もちろん生徒が。
今日のテーマは思考と書字。「ようこそ」に「ありがとう」を。
教室に並ぶ言語活動のモデルは「あくゆうの会」の仲間の作。
そして、生徒。
考え、語り、創作する。この往還する学びを繰り返すことが大事だ。もう一つ高みを目指す。高みに導くのは教師だけではない。生徒が高みにたどり着こうとすることが必要だ。そのためにはこれまでの《私》に手応えをもち、今の《私》を知り、今からの《私》に対しての問いを立てることだ。
そんなことに学んだ授業後の研究会も最高だ。あくゆう、ますます質が高まってきている。あくゆう、この尊き学びの集団。鹿児島に確かに在る。ちなみに上の写真の中央に写る男は授業者ではない。はじめての学級でもすぐに溶け込むことができる我らの末っ子的存在で筆ペンの扱い方に詳しい男。
陽が東シナ海に沈もうとする頃。僕は旅の友と枕崎へ。途中、寄った酒屋。どれを連れて帰ろうか。
と、僕にとっては幻、大好きな六代目百合がずらり。鳥肌。六代目に心奪われかけてる横から旅の友がひとこと、「いいのがあります。」
「熟柿」
確かに、名前がいい。箱の色がいい。香りが漂ってきそう。飲んだあとの感覚まで想像できる。
そして宿へ。一人で泊まるのになんと大袈裟なことを。
近くの郷土の店へ。どれもたまらなく美味い。
ほろ酔いで帰った宿。深夜の温泉、窓の外は東シナ海。漆黒。
夜中、何度も目が覚めたのは焼酎のせいではなく、潮騒、波の音のせい。3時過ぎから葉書をしたため、朝風呂に身を沈めた。
枕崎は鰹が空を飛ぶ。
線路の端。最南端。始発。
土産にもらった蜜柑が一つ。鞄に乗っけて枕崎線の旅が始まる。
思えば鹿児島の「あくゆう」たち、この良き友たち。今回は学期末だから、授業研究のあとのがぶ飲みは我慢しようと、僕は柄にもなく気づかい鹿児島市内を離れて宿をとったのに、連中はしっかりと市内で飲んでいたようだ。だったら一緒に、とも思ったけど、こうして昼の研究を一緒に過ごし、夜は互いに離れてみるとなおいっそう友の重さに感じ入る。
こら壮!おい浩!なあ村永、なんやタチワダ、えっ柏木、うんうん前園、いつ来たん粗相野?なんて、まるでそばに居るよう。「洋二兄、」「アニキぃ!」っ声が聞こえる。
枕崎、ひなびた町だからこそ僕は元気であることを確かめられた。
車窓。
7時38分発は僕ひとり。
尾花は山を見てるのか僕に手を振ってくれてるのか。
指宿、次はここに投宿。
みんなの金曜日がいつも通りの一日でありますように。僕の金曜日がいつも通りでありますように。
そうそう、壮から手渡された一品。
ありがとう。壮。
神様、鹿児島に導いてくださりありがとうございます。
日曜日はこまごまと,のびのびと
仲間
北大阪、八重の会の仲間は僕よりうんと歳の離れた若い教師たち。
若いという強さに僕は憧れている。「とにかくやる」を貫いている。「つべこべ言わずにやる」に徹している。だから、確実に力をつけてきた。八重の会に迷いはない。学習課題から《私の問い》を立てる言語活動の単元の質は全国指折りのレベルだ。数字にもあらわれてきた。もはや無解答率0パーセントの学力テストの結果があたりまえになっている。
そして僕は、若いという美しさに酔っている。質問に手加減がない。無駄がない。妥協がない。分かったふりをしない。分かり切るまでたずね続けてくる。
この熱い若者たちの強さと美しさにとりつかれた僕はきょうも大満足のうちに帰路についた。
新大阪、博多と乗り継いで長崎行きの「かもめ」。車内に聞こえてくる長崎弁に安心する。
京都を故郷とし、長崎を終の住処と決めた僕は関西を気にかけ、九州を愛している。
東大阪市に単元学習のきざし
あなたはクッキーが好きですか、チョコレートが好きですか。お気に入りのサンドイッチの具は何ですか。
軽妙な話術、テンポ、爽やかさ。抜群の力をもった指導主事さんに導かれ、僕は心置きなく90分の講演を完結することができた。
研修会は導入で決まる。そのことを見せつけられた。講師に丸投げの研修会に辟易していた僕はいっぺんにこの指導主事さんのファンになってしまった。
また一緒に仕事をしたい!熱いこの気持ちに偽りはない。
参加の教師たちの熱意も大したものだった。90分を構造的にノートテイクしてくださいね、との言葉をちゃんと実行してくださっただけでなく、僕を見る瞳から、声を聞き逃すまいとする姿勢まで、完璧だった。
上手く始まると見事に終えられる。
東大阪市教育センターがこの地の単元学習を胎動させたのは間違いない。東大阪市の単元学習黎明期に乾杯だ。
京都のまち
生まれ育った町というのは歩くだけで包まれている感じがする。生まれてすぐに吸った空気は肺のいちばん奥深くにずっと残っている、って
何かの小説で読んだ。
だから懐かしいんだ。この公園は僕らの遊び場所。泥だんごづくりも山すべりも野球もここ。この木は、野球をするときの3塁ベース。
一日中、遊んでいた。とにかく外で遊んでいた。いつも友だちと一緒にいた。
道路から家の中の時計を見ることができる場所や、叱られずに手を洗うことができる水道、雨宿りに絶好の大きなひさし。必ずカマキリを捕まえられる草むら。この町の遊び場所のことなら知らないことはなかった。
今朝の散歩。今となってはどれも残ってはいなかったけど、3塁ベースの木と古い御堂には会うことができた。
京都。いつまでたってもこの空気こそが母だ。
書斎「のぞみ」
《私の問い》についてまとめることができた。新幹線は僕の頭を整理してくれる書斎だ。
かつて博士論文をまとめたのも新幹線の中だった。毎週、同じ新幹線の同じ席に座り、隣の席もリザーブし、そこには資料を広げ、まとめていた。
きょうは違う。iPadひとつ。ときどき車窓を楽しみながら、最近の研究会での質問に応えるように綴った。
京都の附小の先生たちからは分かりやすいと高評をいただき、2時間かけてやったかいがあったと満足。
さて、明日は大阪。東大阪市教育センターで仕事。そのあとは、久しぶりに賢治と源和とたこ焼き。久しぶり。これがとっても待ち遠しい。
よう来たね。
ようこそ、長崎へ!
夕暮れはとつぜんに
12月は待つことに輝く
動き始めた列車
摂津の子ども
さあ、きょうは大阪。素晴らしく伸び急いでいるように見える子どもたちに会えるのが楽しみだ。自分たちの成長に気づきはじめている子どもは伸びよう伸びようと、伸び急ぐ。そんな姿にふれられる教師は幸せだ。
2、3日前の読解力低下のニュースなど他人事だ。この子どもたちが15歳になった時のことを考えるだけでわくわくする。きっとできる。この子どもたちは間違いなく伸びている。伸び急いでいる。
小学校に着いた。まっさきの言葉は校長先生から。「故郷の新米のおむすびがあるんですが。」「いただきます。」
美味すぎる。美味すぎるおむすび。おむすびを食べた人はやさしくなるんだって。その人の両手のあたたかみを食べるから。
そして,授業。
どの教師の教師も子どもと向き合っている。
分科会。分科会にも学習課題が設定されている。学校全体が単元学習だ。この小学校は全員で子どもを教えている。全員で守っている。全員が一員だ。
そうそう,山崎さんの研究概要説明も分かりやすく誰もがうなずく内容だった。
もっと時間をつかって詳しく話してほしかったんだけど,僕の時間に気をつかってくれて,,,と,驚いた。なんだ!このスライド。「本校にとって大きなターニングポイントでした。」なんて言い過ぎ!
僕が初めてこの小学校をおとずれた日をこんなふうに残してくれるなんて,幸せだ。
本日の授業者。授業者が研究発表会で尊ばれている。あたりまえなんだけど,このあたりまえが分からないことが多い。多すぎる。こんなことをしてくれるなんて,幸せだ。このことに気がついている校長,教頭がいる限り,この学校は安泰だ。
研究発表会後,校長先生と腐れ縁の男2人と写真。
授業者。
打ち上げは,サッポロのビアホール。
そして,幸せを創り出したチームで写真。この小学校の応援団長の僕は,幸せのいちばん上にいる気がする。みんながいちばん幸せ。この学校の子どもたちはもっと幸せ。
幸せの「上」の言葉がほしいなあ,北橋さん,清家さん,山崎!無限!谷本,石川,上野。
神さま,こんな幸せをありがとうございます。
鹿児島から平戸へ
師走は薩摩から走り出す
野村さんからの贈り物
生姜。ケーキ屋さんの生姜。これがたまらなく美味い。
これは昨日の研究大会に参加できなかった僕の友人の野村さんが同じ学校の職員を通じて届けてくださったお土産。
僕は懐かしさを「光」で感じることが多いんだけど、この「味」はまさしく懐かしさだ。
懐かしい味。決して今までに口にした味ではないんだけど懐かしい。
そう言えば、野村さんと最後に別れた駅。列車が着く15分ほど前に駅に送ってくださった。その後、もうお帰りになったとばかり思っていたら、列車がホームにすべりこんで来たとき、野村さんの声。ホーム横の駐車場で待っていてくださったんだ。何度も何度も手を振って別れた夕方。
あの時の光と、この生姜の橙色がこの懐かしさを作っているに違いない。
きっと、近いうちに会える予感。
野村さん、達富は元気です。
そして,もう一つの味。みやき町から届いた山形の洋梨。
実物を手にしたのははじめて。ぎゅっと握ったら,手に洋梨のにおい。もしかしたら僕のてのひらの形が移っちゃったんじゃないかと心配したけど。
この黄色,昼間見た銀杏の葉っぱと同じ色してる。
神様、たくさんの仲間とつながりをありがとうございます。きょう一日に感謝です。
一生懸命であるということ
きょうは福岡県京築地区の小学校国語教育研究大会。
3年生と4年生の授業者の一生懸命さに惹かれた。単元づくりも一生懸命。きょうの授業の導入も一生懸命。机間指導ももちろんそう。個別の指導も丁寧で一生懸命。
二人の教師の授業を観察して束ねて所見するのは失礼なんだけど、両授業とも同じように一生懸命だからこそ、同じように目に映る。違いはもちろんあるんだけれど、それ以上に共通する丁寧さに惹かれた。
翻って、僕の全体講演はどうだったんだろう。慣れからの緩みはなかっただろうか。疲れからの雑さはなかったろうか。奢りからの不遜はなかったか。
きょう一日が僕の本来の姿の仕事でありますようにと、願って出かけたのに、若すぎる美しさを見て心細くなっている。
僕のしたかったことはなんなんだろう。
と、壮からのメール。僕たちの仲間、藤岡浩の指導が生きている報せ。
ヒロシ、乾杯!
空を飛びたい
上五島、この聖なるところ
上五島行きの朝のフェリー。
波は高いとのことだけど,いいことありそう!
昨日のミサに与った五島の方々と一緒になった。船の中でも,まだ教皇様の話題が尽きない。僕も,うんうんとうなずきながら,だけど,ときどき床に体をくっつけながら。もらったみかんは握ったまま。
高い波,白い波,三角の波。
ようやく有川港。
この男。
前回は強風のため歓迎の幕を広げられなかった。その反省から,今回は上着の下に紙をしのばせる作戦に出た花ちゃん。しかも,昨日の POPE IN JAPAN 2019 のTシャツを着てくれている。実は僕も持ってる。
小学校に着く前に,途中に暮らす南慎太郎に会う。相変わらず元気すぎる。妹のこはるもいた。
そして小学校着。
この小学校はいつもあたたかく迎えてくれる。玄関の小黒板には「子どもたちも研究同人」とのこと。そう!その通り!学校は教師と子ども,みんなでで創るものだ!
そして授業。これまでの中学年複式の単元,高学年複式の単元の成果と課題を見事に調和させ,発展させた低学年複式の単元。
正直,僕は焦った。嫉妬した。うらやましかった。こんなに短期間で一体化した学校。僕は唸ってしまった。ここまでの学びを目の当たりにして,戸惑った。
すべては,大人が子どもを信じていることから始まっている。子どもを安く見積もらないことが創っている。子どもの伸びを誰よりも願った担任だからこそできるわざ。
僕は,この3人の担任教師と出会って幸せだ。この学校の校長や教頭,かかわっているすべての教師に感謝だ。間違いなく,僕がいちばん勉強させてもらってる。そう言い切れる。
きょうの低学年複式の単元は複式ではなかった気がする。複数学年の子どもたちが複数の単元を同じ教室で行っているだけ。異学年による本質的な「言葉の学び」だ。
「複式」っていう区別がそもそも教師の都合だ。子どもは12ヶ月間の誕生日の幅でなくても学びの仲間をつくることができる。誰とでも学べる。大人の都合がいつもいつも最適とは限らない。だって,全校児童全員で遊びの工夫をしたり給食したり掃除したり走ったりできるんだから。
子どもは教師の都合で教えられるのではなく,子どもは子どもの都合で学ぶほうがいい。
そんなことを頭にめぐらせ,言葉にし,共有できたのが放課後の研究協議。先生方のメモをとってくださるタイミングがいい。3回の校内研修で僕を受け入れてくださったんだとうれしいひとときでもあった。
時間だ。終わりの時間,お別れの時間だ。
みなさんが,玄関で,そして駐車場が見える廊下の窓から,いつまでも手を振ってくださってる。僕も熱い熱い気持ちで両手を振った。この学校に縁をいただきありがとうございました,って,何度言っても足りない。
帰りもフェリー。別れのテープは悲しいけれど,ちっともさみしくはない。やっぱり五島の行き帰りはフェリーでなくっちゃ。
上五島。やっぱり,ここが僕のはじまりだ。光も空も水も香りも願いも祈りも,全部,抱きしめてる。
ありがとう,花ちゃん。いつまでも手を振ってくださった二人の影を見続けた僕は幸せでした。
そうそう,昼休みは無理を言って外につれてもらった。
すうっと息を吸い込んで,ふうっと声を出す。
「きょうもいい授業をありがとうございます。」って。そして,「また来るけん」って。
神さま,ほんとうにありがとうございます。僕は五島に惚れとっと。
わたしたちは兄弟姉妹
本日,ローマ教皇,来県!!
いよいよ「本日」になったきょう。今にも降り出しそうな朝,僕たちはバス7台で長崎市へ向かった。
途中のサービスエリア。普段なら混むことはないところにバスがぎっしり。佐賀ナンバー,福岡ナンバー,大分ナンバーはもちろん,岡山ナンバーや高知ナンバーまで。
浦上天主堂の前を通過する頃,天気予報通り,ちゃんと雨が落ちてきた。
長崎県営野球場までは,平和公園に来られる教皇様を迎える人,ミサに向かう人,それを整理するスタッフ,報道,いつもの長崎市が雨に濡れながらその時を待っている。
会場もミサ開祭4時間も前からその時を待っている。知り合いの五島の方は「覚悟してミサに行くけん」とおっっしゃっていたが,その想いが雨に調和し,静まりかえった長崎はむしろ落ち着いた景色となっている。
教皇様が平和公園で祈られてるお姿がスクリーンに映る。
歓声ではない。みんな手をあわせている。祈っている。3万人が同じことを祈っている。
そして,ミサ開祭。空は快晴。強い日差し。
VIVA! PAPA!
「愛」を飾らず表現するフランシスコ教皇。私たちを愛してくださっているフランシスコ教皇。教皇を濡らした雨と同じ雨に濡れたきょう。僕は,「愛することや許すこと」をすんなり心に染み込ませることができた気がする。
ミサはショーではないという教皇の言葉にしたがって,ミサ中はカメラを持たなかった。そのかわり聖別のために連れてきた羊を手に包んでいた。
この子羊がこれからの我が家で謙遜と愛を思い出させてくれるはず。
神さま,ありがとうございます。ありがとうございます。
さてと,東京
きょうは日帰りで東京。一泊する余裕はなし。だって,明日はパパ様に包まれるから。だから日帰り。
一日をありがとう。
今,長崎は
いい仕事の帰りは嬉野の湯
テレビもいいもんだ
新米は友の味
上五島から時津東へ
朝5時半。ぐっと冷え込んだ大曽教会。僕は地元の祈りに包まれた。
約3時間,教会の外は快晴。
十字に鳶がやけにのんきそうだ。
奈良尾港まで,しばし花ちゃん校長と昨日の授業協議の協議。先生方の誠実さの褒め称える言葉しか出てこない。と,僕を乗せるフェリー椿の入港。
二度目のきょうは紙テープはないだろうと思っていた僕が甘かった。さすが花ちゃん。やっぱり花ちゃん。
同い年の男を見送る同い年。同い年の姿の上に,同い年の影。
金曜日の朝のフェリーなど,見送る人影はない。たった一つの人影がいつまでも手を振っている。小さな島影より大きな花ちゃんの影。ありがとうを置いていくよ。
さて,遅めの朝ご飯はクリームパン。旅の途中はクリームパン。
そう,まだ途中なんだ。きょうは午後から大きな授業研究が待っている。これほどに熱量を感じる単元研究があるだろうか,と思うこの半年。竹ちゃん先生は見事な授業を楽しんでいた。
教師が授業をつくるということは,学級を創ることにほかならない。小さな揚げ足を取るような発言はみっともない。何より見つめなければならないのは,「授業者の技」ではなく「自分の授業を観る目」。授業を観ることができる目と感性をもつことができれば,その人の授業力は伸びる。
この授業。間違いなく輝いていた。この授業に生きる子ども,間違いなく響いていた。
「おつかれさま!」の言葉より,「またね!」の笑顔。時津はこべらの教師たちはいつも「またね♪」だ。だから,僕も「Yes!」か「はい!」か「よろこんで♪」。きょうからは「もちろん★」も付けることにする。
見上げればクリスマスイルミネーション。今朝の大曽教会の祈りの声と長崎駅前の人の音。
神様。きょうも一日をありがとうございました。僕の働きが何かの望みにかなうならうれしいです。
祈りの島、上五島
さあ、はじまる。上五島、紺碧の会。
南風が強い今朝の五島灘。
30年前の海を思い出す。こんなときは船と身体をぴったりくっつけるに限る。ということで、じゅうたん席を選んだのは大正解!
五島灘。まぎれもなく、僕はいま、祈りの島に近づいている。これから小さな小学校の大きな学びにふれ、夜は教え子のさばく魚に舌鼓。明日の朝は静かな集落のミサに与る。
五島。僕にとってとても大切なところ。
馴染みのスーパーが見える。そして,懐かしい男が見える。
あいにくの南風。彼の演出もなかなか上手く運ばない。
「もう,よかけん!」
小学校も迎えてくれる。
校長室は地域や縁のあたたかさで満ちている。
授業に背筋が伸びる。ふたりの5年生とふたりの6年生が同じ教室で学ぶ。
子どもの学びに教室のサイズは関係ない。ひたすら学ぶ姿はどこでだって同じだ。心洗われる思いで小学校を後にした僕は,前回とは違うコースで宿に向かった。
明日の朝に与ります,と約束してがぶ飲みへ。
この男。「よか男」過ぎにつき要注意。
五島ならではの魚。酒,そして「かっとっぽ」。
家族にも包まれ,僕も花ちゃんも大満足の上五島の夜。
WELCOME BACK ジョー
もしかしたら,お帰り!ジョー!
こんなニュースが飛び込んできた。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191111-00000250-sph-base
本当にこうなったら,僕は来年横浜に住まなくっちゃ,って思ってる。
さて、大阪
久しぶりの大阪。まだまだ大阪弁は錆びてへんでえ。
今から3時間あまり、めちゃくちゃ楽しんできたんねん。ここの仲間はこてこての関西人やし、何ゆうてもかまへんみたいな空気やさかい、はめはずしすぎひんようにせなあかん。
ほな。
仲間が集うから、九国研 佐賀大会
明後日の会、元気です。
声が出ないんだけど
きたきた,鹿児島の壮から届いた。
学ぶ姿はどこにでも
10月30日。中学校の数学の授業にふるえた。生徒が「問いを立て」,その解決に浸っている。中学2年生が数学の授業で問いに夢中になっている。担当の教員は「これまでの授業とは歴然とちがいます。」「何もかも違います。」「これまでこんなことやっていなかったことが不思議なくらいです。」
僕はこの授業の教室に居られたことを誇りに思う。この教員の単元づくりの話を聞くことができたことを誇りに思う。そして,きっとこの教室に何度も来ることになると確信している。
いい授業とは,こんなふうにして教室にあるもんだ。
そして,夕方。大学に戻ると,国語科の学生たちが学内学会の準備を進めている。せわしなく動く姿に無駄はない。4年生は発表準備に汗を流す。
涙を流す,というのは大げさだ。だけど,うんうんとうなずきながら,この姿をずっと忘れないでおこうと思ったのは本当。40代前半の教員も,二十歳を過ぎたばかりの大学生も,学ぶ姿はまちがいなく美しい。
神様,きょうという日をくださってありがとうございます。
さあ,仲間と
さてと、動く!
よう来たね。って,
今朝は朝から寄り道をした。3時間ほどかけて瞳をとじて。
「信じること」って何だ?って,瞳をとじて。
ただで与えられていることを,ただで行う。ただでいただいているんだから,ただで与える。
「よう来たね。」って,声がする。
我が家に秋がやってきた。
いちばん年の離れた友
大崎高校の野球
だんだん分かってきた
東へ
在来線から見える田んぼは黄金に光ってる。田んぼに映る列車の影を見ていると、きらめく世界を走っているような気分になる。
秋。きょうも僕は教室に向かって旅してる。
奮闘努力のかいもなく
あくゆうがいるから。
ご存知,「壮」。今夜も鍋まるごと食らう男。
飲み放題はもちろん,サッポロ★!
昼間の研究会は頭から汗をかく深さ。誰もがこの時間を自慢したくなる。
しかし。しかししかし,それよりも,やっぱり,壮の奥方の手料理。鶏飯。
お昼休み,12時10分に届けられた「お昼セット」
粗相野さんが準備を仕切る(少し邪魔もしてる)。出汁をあたためるコンロまで,,,,
見るに見かねてみんなで手伝う。
一人分ずつ,きれいに小分けされたお昼セット。鶏飯セット。
るみさんの手料理。鶏飯。三度目だけど,この味がたまらない。一度目は,雨の桜島 in 壮の車。二度目は,ようこそ達富王国 PENNY LANE!そしてきょう。
全部,美味い。何もかも美味い。あくゆうの全部が美味い。ありがとう,るみさん。ありがとう,壮。ありがとう,鹿児島あくゆうの会。ごちそうさまでした。
ということで,夜の二軒目。
あくゆう,初のワイン。その後,静かに新幹線に乗りました。
神様,感謝のうちに友と仕事を終えました。ありがとうございます。
さあ、いくよ
日帰りだけど、楽しいことぎゅうぎゅうづめの日曜日。さあ、行くよ。
友,博多に来たりて
さがりの紫陽花
せみ
彼岸花
4年生の担任をしてきた頃。お彼岸を「おひゴン」と言った子どもがいた。僕の「ごんぎつね」の授業の彼岸花の描写に熱が入りすぎていたんだろう。恥ずかしくなる思い出。教材コンテンツだけに目を向けていた古い時代。
彼岸花を見ると思い出す、恥ずかしくも情けない、だけど懐かしい思い出。
その夜、届いた高知からの便りと写真。
日本中、彼岸花。日本の教育中、彼岸花、ごん。
どうかどうか、「彼岸花の頃のきつねの悲しいお話」だけの学習で終わりませんように。
僕の倅は「大造じいさんとごん」と言うことがある。日本の教育は子どもの記憶にすうっとしみ込んでいる。だからこそ、これからはこれからのしみ込ませ方を、と願ってる。
神様、きょう一日、ありがとうございます。
ヒロからの贈り物
ジョー
まだまだこれから!
ずっとファン!
きょうのめあて
めあて 《私の問い》の解決のために学習を進めよう。
これで決まり!
問いを立てる
個別の学び。しかもそれは定食ではなく、一品もの。その子どもに最適化されたもの。つまり、その子どものための個人化。だから、その子どもは自分の学びを自ら作り出すことができる。
ここに自立した自律的な学びができる。
そんな学びの実現に向かいつつある45分。きょうの時津東小学校の6年生の教室。
この時間をどう見るか、それには我々の授業を見る力が問われる。教師のパフォーマンスを見るのは二の次、学習指導案を読むのはそれ以前。この瞬間、教師の観察は子どもの息づかい。教室の事実。教師の関与。
子どもの学びは声によるライブのインタラクション。学びの自覚は文字による丁寧なリフレクション。
我々の授業研究も同じ。すべては教室の事実。観察者の物語ではない。
本当に清々しい授業だった。授業後の協議も授業者、研究主任、司会の謙虚で丁寧な語りによって見事な成果を残した。
そしてそして、声によるリフレクション!
ここに集う仲間、最高!
この学校、成長し続ける学校。楽しみでしかたない。
きらりと流れ星
上五島,あれからの僕はと言えば
「上五島に行ってくるよ。」こんなことが実現するなんて,神様のお恵みに感謝しかない。
2日間の休みをとっての小さくて大きな旅。佐世保港からはじまる旅。30年前にはなかった船が僕を急かすように海の上をすべる。左手に西海大島,崎戸島,右手に平戸島。今となっては,馴染みのある島。30年前はどれがどの島か分からなかったのに,今では手に取るように島影を認めることができる。そう、やっぱり長崎は僕の終の住処だ。
10時5分。有川港。
何度も合っている友だちが,「間違うことがないように!」とメッセージを持って待ってくれている。「とうとう来たよ。花ちゃん!」
懐かしい島。すっかり変わった景色と,あのときのままの風景が織り混ざっている。だけど,やっぱり懐かしい。
何度も通っていたような初めてのこの小学校の玄関にもメッセージ。そして,僕の名前の下駄箱。
複式学級の授業は子どもの力にあふれている。黒板に向かって協働しているこの2人の背中は学び合っていることのあかし。
たった6人の校内研修は家族的。だけど,その根っこの下に流れている本気が伝わってくる。この学校の先生方は本物の教師,学び続けようとする教師,子どもに対峙する緊張感をもち続けている教師。だからたくましい。僕も本気で語った。言葉を届けた。瞳を見続けた。
地域に夕方の放送が流れる頃,花ちゃんが地域の教会をまわってくれた。真手の裏教会,跡次教会。
宿は青方の永田旅館。大好きな天草の常宿の松屋さんのようなたたずまい。フーテンの寅さんが出てきそう。
夜は花ちゃんと教育の話で一杯。子どもの話で二杯,未来の話で三杯。そのあと,五島で教鞭をとっていたときの教え子の慎太郎夫婦もやってきて四杯め。賑やかなひとときが静かな島の夜に溶け込んでいく。明日にそなえて早めに切り上げた空は,30年前と同じ群青色。
朝6時30分。教会の鐘が鳴る。そう,ここは祈りの島。7時過ぎに慎太郎が迎えに来てくれ,30年前にミサに与った教会をたずねた。
そのあと,親友であり兄貴のような存在だった虎さんの遺影に手を合わせた。早いもので逝ってからもう5年になる。写真の虎さんは間違いなく僕に文句を言っているはず。笑いながら。
先立たれたことを語る益代さんとしばし思い出ばなし。あの頃は教え子のお母さんだったけど,いまでは友だちのよう。
帰りのフェリーまで2時間ほど。慎太郎の店でサッポロビール★。
1時間前まで泳いでいたアジとネルを10秒で捌く慎太郎の包丁は見事。そしてその味も見事。「これは丁寧に仕事をして丸一日ねかせたアジ。」「これは五日もの」。五島の魚が美味いのは新鮮な内に食べるからではなく,新鮮なときに丁寧で本気の仕事をするから。教え子に哲学を聞かされ,幸せにひたる。
しめは五島うどん。アゴだけでとった出汁に慎太郎が汲み上げた塩。完全にやられた僕は,うなずくしかない。
そろそろかなと時計を見上げた暖簾の向こうに花ちゃん登場。
「港まで送るまでが今回の仕事やけん。」って,粋なことを。学校の先生がたがみんなで見送れないから代表で来てくれたことに感謝。
「また来てくださいよ。」となぜかあらたまった花ちゃん。
「また来るけん。」と思わず僕。
「また来んばよ。」続けて花ちゃん。
「すぐ来っけん。」握手で約束。
「これ持っていかんば。」と渡された2本の紙テープ。
30年ぶりの船の紙テープ。
夜なべして作ってくれたメッセージ。にじんでよく読めないよ。
紺碧の海を流れる紙テープ。二本のテープが切れても,僕の涙は乾かなかった。ありがとう。また来るけん。すぐ来っけん。
帰りのフェリーは赤い絨毯の雑魚寝スペースを独り占め。海から眺める中通島。有川,浦桑,榎津,丸尾,似首,仲知,津和崎。声に出して岬を呼んでみる。前島,野崎島,宇久島,小値賀島。二等客室の天井のしみが島影に見える。波頭に乗り上げ,時折跳ねる船の揺れさえも,もう少し続いてほしいと思う。五島,五島。
神様,きょういちにちをありがとうございます。本当にありがとうございます。
天草は確かにここに
明日は天草教育研究会の公開授業と授業協議、そして僕の講演。これまでの天草の真摯な研究の姿を参加者が共有できる最高の時間になる。
僕は前日のきょう、天草に入る。
やっつけ仕事でもなく、単なる飛び入りでもなく、僕も研究同人の一人として同じ空で朝を待ちたいから。もちろん、いつもの松屋さんには仲間がいる集う。
さあ、11回目の天草がはじまる。
この天気。間違いなくいい予感。
休みの日に集まってくれた仲間たちは,どの顔にもこれまでの自信と誇りがある。
そして,当日。
見事!コンパクトにまとめた赤城ィの研究趣旨の説明。
そして,鮮やか!射塲さんの単元。
丁寧な授業は子どもを惑わさない。本気の授業は子どもに響く。確かな授業は誰をもうなずかせる。
天草 国語教室の会。この仲間たちとの3年間。とりわけ10回の勉強会に学んだ事実がきょうの50分に凝縮されていた。そのあとの僕の講演など,デザートにもならない。教師にとって授業の事実ほどすべてを語ってくれるものはない。天草の仲間と「ありがとう」を包み合いたい。
本当ならこのまま打ち上げ!といきたいところだけど,打ち上げは単元が終わってから,言語活動の作品ができあがってから,というのも厳しくて素敵なことだ。11月,きょうの授業を再現しながら語り合えるのを楽しみにしてきょうは別れた。
活版印刷伝来の地,河浦をあとにし,僕は天草をぐるりと時計回りに夕日と語りながらフェリーターミナルを目指した。
神様,きょう一日をありがとうございます。
そうそう,「美味しかったです!」のメッセージを届けすぎた僕に,長尾先生がまたまた1本くださった。ありがとうございます。



























































































































































































































































































































