ちょっとしたこと,綴っておこう。モレスキンのノートとモンブランの万年筆,時々たつログ。
たつログ
えとせとら
若松島はいまも
上五島、若松島
佐世保港、朝10時。フェリーなみじ。
甲板から似首、丸尾を眺める。僕の住宅の近くの教会がひかっている。
昼はもちろん、五島うどん。慎とこっこの暮らしの味がいい。
そして、懐かしい声、懐かしい顔、懐かしい時間。
ここは僕が生きていた島。まちがいない。僕はここに居た。
夕食の魚が美味いのは、焼酎がたまらないのは、あたりまえ。ただ、味わい深くするのは昼間の3時間があったから。本気で語り合う時間が美しいのは、互いを敬愛しているから。時の経つのがはやいのは、互いを大事に感じているから。
上五島、若松。僕は「ただいま」のことばがこんなに似合う町をもっていることが誇らしい。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
教育実習のはじまりの日に贈る言葉
きょうから教育実習生として本物の教室で子どもに教え、本物の教室に学ぶみなさんへ。
悪天候のために教育実習の計画が変更され、本日、9月2日の月曜日から教育実習が始まることになりました。本庄小学校の主事をしている私からみなさんにお話ししたいことがあったのですが、先に決まっていた私の予定を調整することができず、きょうは、本庄小学校に向かうことができません。残念です。
私は、きょう、私がはじめて教員として働いた長崎県五島列島の小さな小学校を訪れ、授業づくりの研究を行います。8時ちょうどに佐世保港を出港の予定ですから、今まさに、港を出たところです。これから数時間かけて島に向かいます。どんどん離れていきますが、みなさんの教育実習が実りあるかけがえのない経験となるよう、祈っています。わたしも、夜には40歳を超えた教え子たちに会うのを楽しみしています。
さて、教育実習をはじめるにあたって4つの話をします。4つのキーワードはメモして残しておきましょう(メモの準備を待つ)。4つのキーワードとは、健康でいること、あらゆるものを見ること、識別すること、そして行動することです。
まず「健康でいること」です。自分のために健康であることはもちろんですが、担当している子どものため、学びの機会を作ってくださっている本庄小学校のみなさんのためにも健康でいることが大事です。体調管理の方法は、人それぞれでしょうから自分自身の方法で身体をととのえてください。
普段の大学生活とは異なる生活リズムになります。普段以上に、自分の身体との対話をすることが大事です。
健康であること。その上で大事なのが、「見ること」です。
私たちは、ともすれば、自分の専門としている教科や領域、分野などをものさしとして子どもを見てしまいがちです。そのことはみなさんの「よさ」であり、「あたたらしさ」でもありますから、とても尊いことです。
ただ、子どもはみなさんの「ものさし」に適うように学んでいる訳ではありません。みなさんが子どもの学びの特性に合った「ものさし」を用意することが大事です。具体的には、みなさんの「専門性というものさし」と、専門だけという傾きをもたない「まるごとというものさし」の二つを用意することです。
小学校の教師は、なんでも教えます。全部、教えます。まるごと教えます。自身の専門だけを教えるのではありません。子どもの一日の学びをまるごと教えるために、まるごと見ることが大事なのです。
次に「識別すること」です。識別することとは、「分かること」と言ってもいいでしょう。「分かる」ためには「分ける」ことです。弁別することです。弁別するということは何らかの秩序をもって名前をつける(ラベルを貼る)ということです。それほど意識して見ているわけではないことに名前をつける(ラベルを貼る)と、それが全体から切り離されて特別なことになります。うまくできたとき、うまくできたと感覚的に喜ぶだけではなく、「なぜうまくできたのか」と自分に問うのです。そして、できたわけに「名前をつける」のです。そう、ラベルを貼るのです。
国語の学習で、場面の様子を想像する学習のときに、子どもの考えをうまくつなぐことができた。なぜできたのだろうか。それは子どもが音読している様子を見ていたときに、「これってつながっている」という言葉をつぶやいたのを覚えていてそのことを紹介したからだ。それほど意識して見ていたわけではない教室の風景に「こどもの言葉をつなぐこと」というラベルを貼ることができたわけです。
このことは、一つ目の日常の「ものさし」で見つめることが「識別する」ことに役立つということを示しています。
だからこそ、「識別したこと」つまり「分かったこと」は言葉で書いて残しておきましょう。書かずにおいておくと、そのほとんどは忘れてしまいます。ととのった文字でなくてもかまいません。箇条書きでも単語だけでもかまいません。識別したことは書いて残すこと、これを続けましょう。そうすることで、考えることが連続します。「なぜか分からないけれどできた!」ということが、ものさしによる識別によって「こうすればできる。何度でもできる。いつでもできる!」というように言語化され、質の高い指導法が再現できるようになるのです。
おしまいは、「行動すること」やってみることです。そんなことを言うと、「わたしたちは毎日、いつも、何かをやっています」と思うでしょう。それはそうです。しかし、「大学で準備してきたことをその通りに行動すること」や「そのときにひらめいたことをとりあえず行動すること」と、「見て観察したことを識別して分かり、思考して弁別し、ラベルを貼って書いて残しておいたことを行動すること」は同じではありません。
さらに、「こうすればできる。何度でもできる。いつでもできる!」ことはしたくなるものです。そして、熱中できる教師は、「こうすればできる。何度でもできる。いつでもできる!」だけで終わらず、「もっと確実にするにはどうするか。もっと柔軟にできる方法はないか。」と問い続け、成長し、最終的には「子どもをできるようにすることができる!」という確かな指導力につないでいくのです。
教師が行動するとは、単に積極的であるということだけではありません。行動するとは、思慮深く、子どもを敬愛し、見通しを立て、責任をもって教えるということです。
さあ、今から、子どもたちはみなさんのことを「先生」と呼んでくれます。みなさんも自分のことを「先生はね」と言います。みなさんは間違いなく「先生」の立場なのです。松浦先生、福山先生、元気ですか。ちゃんと子どもをまるごと見ますか、識別しようとしますか、そして思慮深く、子どもを敬愛し、見通しを立て、責任をもって行動していきますか。
子どもを「できるようにする」教師として成長していきましょう。心から応援しています。みなさんの4週間がいつまでもいつまでも柔らかくてあたたかい布で包んでおきたくなるような大切な時間になりますように。本気でやりなさい。そして、きっと、夢を叶えましょう。
薪づくり
きっかけ題材
大阪に「大阪児童美術研究会」というかけがえのない研究会があった(現在もあるだろうが)。
僕はこの研究会に多くのことを学んだ。導いてくださった花篤實先生、岡田博先生、河村徳治先生、三澤正彦先生、素晴らしい師に鍛えられた。
その中に[きっかけ題材]というものがあった。
子どもは教師が設定する目標よりも造形だ。教師の語りはあくまでも造形の深まりの[きっかけ]に過ぎない。材料、行為、想。
「ええか、今から画用紙にお好み焼きつくるで。」
「まず、油ひかなあかんな。上手にひけるか。そんなちっちゃいので油ひいとったら煙でてまうで。」
「そやそや、次はメリケン粉とたまごやな。しもた、粉とたまご入れるもんわすれた。しょうない、パレットでやろか。どっちからや、水もいるやろ。」
「きょうは広島ふうやで。粉、たらしたら、キャベツや。そんなごっついキャベツ、食べにくいやろ。そやそや、ここは細い筆でキャベツの線かかなあかんな。次、どないすんねん。」
ここからは個人のスピード、ペース、経験、発想。つぎつぎと具材が乗っていく、そのたびに太さの異なる筆が選ばれる。にじみやぼかし、混色、重色、重ね描き、水加減、ひっかきなどの基本的な描画法がすべて画用紙の上で繰り広げられている。
「どや、美味しそうなんできたか。先生にも食わして。なんや、ソースかかってへんや。」
そのひと言で、迷っていた子どもが惜しみなく、これまでの見事なお好み焼きをソース色の絵の具で塗りつぶしていく。
「先生、かつお節と青のり、いるか?」
「あたりまえや、こてと割りばしもたのむで。」
割りばしの袋に書かれた「お好み焼き屋 仲田商店」が名札の代わりになる。
教室の後ろに貼られた黒い円形に緑の点々が書かれた画用紙は間違いなく子どもの大傑作品である。
[きっかけ]はお好み焼き、単元(題材)の目標は「描画道具の使い方になれること・基本的な描画方法に親しむこと」。間違いなく、完ぺきな図画工作の学び。熟考された、だけど、見事にちっちゃな[きっかけ]が大きな学びを創る。
大阪児童美術研究会の帰り道は赤ちょうちんで一杯。
「先生、[きっかけ題材]って、偉大ですね。可能性のかたまりですね。僕、きわめてみます!」
「達富、何、言うてんねん。あれば[ひっかけ題材]や。子どもをその気にさせたら、どんな学びでもできる。子どもは無限大や。子どもはできるんや。できひんのは教師ばっかりや。はよ飲みや。」
大阪人の[ひっかけ]が僕の「達富型 言語活動」の原点になっていることは間違いない。大阪人の[ひっかけ]が今の僕を創っている。だから、僕ももっともっと仲間に[ひっかけ]たい。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
見る、識別する、行動する。
「知る」「分かる」「やってみる」。
このことは、「知りたい」「分かりたい」「できるようになりたい」を導く基本的な動詞である。
その動詞の質を高めるなら「なに」「なぜ」「いかに」という問いが必要。
これは創造ではない。謙遜だ。
もちろん挑戦でもない。振り返りだ。
見ようとしてこなかった僕。分かったつもりでいた僕。やりっぱなしだったこれまで。
さあ今から、基本の動詞に浸ってみる。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
からだを流れるもの
やりたいことは変わる。できることも変わる。
一緒に歩んでいる人も、歩んできた人も、いつまでもずっと同じでないことを分からなきゃならないと思っている。僕もずいぶんと退化してきたを自覚しなきゃいけない。判断が鈍る。新しいことを思いつかない。ひらめきなどまったくなし。何をしているのかを忘れてしまう。残念なお話だ。
それなのに馬鹿な僕はずっと同じチームで野球ができると思ってしまう。
「2番、セカンド、達富くん、」のアナウンスは遠い昔のことなのに。
新たな兄弟の「1番、ショート」においていかれないようにもう少し勉強しなきゃ。
ワインを飲みながら恐竜と語る
校長会という仕事
きょうの仕事は、がらにもなく校長会研修会で話をすること。目の前にずらりと校長さん。知った顔も聞いたことのある名前もはじめましての方もいる。心地いい緊張感の中の70分。テーマトークを2回取り入れた講演会はまずまずの65点のできばえ。
学力の伸びなやみを子どものせいにしないなら授業を改善するしかない。いいかげんな改善ではなく、ちゃんと改善しましょう。そのためのキーワードは、、、
と僕のほうが熱くなってくる。
だけど、僕は知っている。僕を熱くさせたのは「知った顔の5人、聞いたことのある名前の4人、はじめましての3人」。
僕はこの12人の校長さんとビールを飲みたいと思った。本当に思った。65点って、悪くない。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
よくばってしまう天草
達富版、「説明文を読む」単元を紹介する。これがきょうの新企画。
達富版、「語り継ぐ主人公」で問いを立てる。これがきょうの演習。
講演前、すぐ近くに湯島が見える。兄弟の島だ!
兄弟の分も、と張り切る。
が、張り切ろうとする気持ちが空回りになる。どうも自分の言葉にならない。「伝えたい」が「伝わる」にならず、「伝わっただろうか」で終わってしまっている。
無念、120分で折り合いをつけられる内容でなかったことが僕の反省、それなのに真摯に聞いてくださったのが天草の熱意。
もっと上手に話すことができればよかったのにと反省ばかり。
ううん。まだまだ話し上手にはなれない。まだまだ僕はひとり上手。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
楽しいことしかしない
楽しい仲間と楽しいことしかしない、そんな「今日から」にする。
8月後半、天草2回、宇土、楽しみまくるぞ。
9月、上五島、北海道、京都、大阪、勢いづくぞ。
10月、富山、湯島、湯島、湯島、調子に乗るぞ。出島メッセもやるぞ。
11月、福岡、京都、北海道、天草、北海道、一気に行くぞ。
12月、京都、大阪、宇土、天草、楽しいことばかり。
長崎ベース、京都大阪ベース。
僕は楽しいことが大好きだ。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
教室の声に学ぶ
第16回 教室の声に学ぶ会は鹿児島。開催のためのすべてを引き受けてくれた壮には感謝しかない。
僕はこれから新幹線。道中、奴の顔を何度も思い浮かべながら、もらった時間を充実のものにする下ごしらえをするつもり。
きょうのテーマは、「説明文における言語活動」。「一枚に書く」ことの魅力を分かりやすく伝えたい。
さあ、もうすぐ仲間に会える!
8月15日
ここ数年、8月15日は永井隆の著作を読むことにしている。
「平和を」という強い信念を感じる文章に僕までが熱くなる。
8月。
気温以上にアツくならなければならないことがある。
天使たちの日曜日
夏の朝のにおい、鹿児島の集い
たしかな道
なんともすっきりしない前期が終わった。すべての仕事を終え、きょうは久しぶりに薪づくりに汗を流した。
無になれる。木にたずね、どこを切ればいいか教えてもらう。チェーンソーを握り、木目の流れにまかせて力を移動する。無になる。この時間もひとつの黙想だ。
前期、僕は無になる時間がなかった。その時間をつくろうともしていなかった。傲慢で強引だった。つまらない日々に押しつぶされそうになる。
たしかな道とは何か。そんなことを考えながら、きょうの夕陽を眺めている。腕についた木くずを数えながら波に足をつけている。たしかな道なんてありはしない。万里の川を越えて探し続けるものだ。
神さまに向けて心を柔らかく開き、恵みの一日を迎える。それが僕にとっての道なはず。夏休み、僕はちょっと深呼吸しようと思っている。
長崎のひつじかい
みんなが謙遜の中に学びを進めている。誰もが仲間を敬愛している。そして一人一人が受け身ではなく、自分がこの研究会を作ってからという誇りをもっている。
お客さんがいない、と言ったらいいのだろうか。人まかせではない本気さがある。
だから僕はこの研究会を大事にしたいと心から思っている。
第8回 長崎のひつじかい 例会。
きょうの4時間も僕たちは学び続けた。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
ことしも待っていたよ!
福岡行橋の仲間たち
ダブルヘッダー、とってもいい!
夏休み
教室をたずねる旅
旅の終わりは駅そばがいい
学ぶには時間が必要
日本海の旅
いい授業をしたい。
学生だから身につけられること
佐野元春の音楽に「つまらない大人にはなりたくない」ってフレーズがある。
大学生の頃から大好きな言葉だ。「つまらない大人なんか絶対になるもんか。」って、自信もあった。それがどうだ。まったくもってつまらない大人になりきってしまっている。
なぜか。
もっと若いときに身体に染みこませておかなければならなかったことがたくさんああるに違いない。
僕は出汁の味は分かるつもりだ。京料理の繊細さにはうるさい。小さいときから母が僕に味見をさせてくれ、昆布や鰹のひとつひとつを毎日教えてくれたからだ。身体に染みこんでいる。
じゃあ、子どもの学びに対するセンスはどうだろうか。できるなら教育実習生の頃に戻りたい。新任教師の頃に戻らなきゃ取り返せないことがたくさんある。知らず知らずのうちに身についてしまったこのつまらない教師としての技量。ああ、これをそっくりそのまま何処かに埋めることができればいいのに。知らなかったことにできればいいのに。
僕はいま、「これが絶対」なんて言わないし言えないけれど、清原先生や大村先生、野名先生先生から学んだことをこれからの時代を生きる子どもに合わせて、22世紀を生きる子どもの背中を押す力になってほしいと願い、学生に伝えようとしている。
目の前の大学生がつまらない大人にならないように僕ができること、それは、僕の失敗を語り、みんなの使命をことばにすること。
一緒にやろう。きっときっと、子どもの成長につき合える教師になれる。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
天草に行こう
仕事を午前中に済ませて、昼から天草に行こう。
鰹の燻製と天草の地の小エビとあさりとイカの入った渚カレーを食べよう。
そして、苓北町の小学校で熱い仲間と語り合おう。
「《私の問い》を立てるのに枠はあったほうがいいですよね。うまくいったんです。」
「どんなことでも《問い》にするといいです。このいざないは《問い》はもちやすいかもしれないけれど、学びにつながらないこともあります。きっかけの《問い》と呼んでもいいかもしれません。」
「この前の単元では、赤い部分から《問い》を立ててみようと言ったり、青いところから《問い》を立ててみようと言ったりしたのですが、これが子どもにとってすうっと入っていきました。」
「赤い部分とは指導事項のこと(Aフレーズ)ですよね。教科書の[たいせつ]にもつながる《問い》になりますから学びに直結します。青いところとは言語活動(Cフレーズ)。子どもにとっては今からやろうとすることですから、この《問い》は活動に直結します。もちろん緑のBフレーズ(思考操作)にかかわる問いは、まさに課題解決のための《問い》ですから、だれとでも交流できる《問い》です。」
こんなやりとりに夢中になれた30分間。
「説明文を読む単元の《問い》が大きくなりすぎるような気がするんです。悪くないんですけど。」
「物語を読む単元では言語活動モデルを作成します。説明文を読む単元も同様です。言語活動モデルから《問い》を立てると、学習用語に引っ張られすぎた抽象度の高い《問い》になることは少なくなります。教師が言語活動モデルをつくったときに使った説明文は、子どもが実際に読む説明文とは異なりますから、説明文の内容のコピーにもなりません。どのように説明文を読むのかという、まさに「説明文を読む力」に重なる《問い》になります。」
残りわずかな時間だったけれど、こんな話を共有できた15分間。
熱くなりすぎて写真を撮ることもできなかったけれど、とにかくこの時間は大事な時間だった。
天草に行こう!この決断はきわめてよかった。
もちろん、そのあとも最高。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。苓北、また来ます!
故郷を着て歩く
教室の声に学ぶ会 -指月会-
2003年、比叡山の見える京都の研究室でうまれた「指月会」。教師になって、もう20年ほどになる仲間も多い。
教えたいことはたくさんあるだろうが、今、教えることは「ひとつ」。この単元でできるようにすることは「ひとつ」。よくばらない。だけど、きっとそのことをできるようにする。すべての子どもを学びに連れて行く。そんな教師になろう。
きれいな会議室での語り合いは時間を忘れる。
きょうもいい研究会だった。そのあとの時間も楽しかった。
原点にもどれるのは、原点の仲間がいるから。僕は包まれて守られて支えられている。ありがとうございます。指月会。
赤い贈り物。めちゃくちゃ気に入っている♪
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
楽しい授業、これが原点。
授業を見るということ
授業で何を見るか。
あたりまえのことだけれど、人それぞれでいい。教師の語りかけに耳を傾けることも大事だ。板書を追いかけながらメモをとるのもいい。時間配分も大事なことである。
人それぞれの見方があっていい。
ただ、教室に居る者が見逃してはならないことがある。聞き逃してはならないものがある。
それは、子どもの息づかいであり、教室の声である。
教師の都合で45分間をこなす者にとっては、子どもの「今の反応」は単に時間配分をコントロールする対象でしかないのだろう。だから普段から教室の声に学ぼうとする姿勢がない。
子どもの学びの事実としての45分間を一緒に作り上げようとする教師にとっては、子どもの「今の学び」はかけがえのない事実であり、次の瞬間をつくりだす源であり、これまでの学びの集大成でもある。だから、成長しようとする教師は包み込むように教師の声の中に身を置き、学び続けようとする。
子どもの中で成長する教師、僕はそういう教師たちと生きていきたい。
以下の2枚は、昨年度の記録。教室の事実を見る本校の教師たち。
この1葉の写真に何人の教師が学んでいるか。いったい何人の教師が子どもの声に学んでいるか。
この教師は何を見ているのか。子どもは自分のがんばりを教師に見てほしがっている。教師のやさしい目と子どもの本気の目がぶつかり合う瞬間、教室は成長する。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。僕も学びの途中にいることを再確認できる京都市立竹の里小学校の校内研究は尊い時間です。
アスパラ姫、登場!
劇的な値上げ
天草の心地よさ
さあ、天草!
研究会は「ここらす天草」。松屋さんもいいんだけど、やっぱり椅子のほうが楽ちん。
とにかく、熱い。
小学校実践の話題提供をしてくださった武藤さん。一人一人を大事にされていることが伝わりました。こんなに丁寧な授業って、本当に美しいです。
中学校実践の話題提供をしてくださった吉田さん。これって、まったく新しい研究ですよね。僕は少しばかり言葉を失うほどの衝撃でした。まさに中学生ならではのメタ化。
夏休みにとことん研究しましょう。楽しみです。
熱い勉強のあとの冷たい乾杯!
まだまだ語りたい気持ちを残して、今夜もありがとうございました。
神さま、きょうも仲間との一日をありがとうございました。いつくしみに感謝しています。
誕生日って、こんなにいいもの
説明文は感動的に、物語は論理的に、
分かりやすい説明文は一人で読むだけですっきりと理解できる。味わい深い物語は何度も読んでみたくなる。誰かと語り合いたくなる。そう、説明文は論理的だし、物語は感動的なんだ。
だからこそ、説明文を感動的に、物語を論理的に読んでみたい。
例えば「どうぶつの赤ちゃん」。
・しまうまの赤ちゃんは、生まれたとき、もうやぎぐらいの大きさがあります。
・しまうまの赤ちゃんが、おかあさんのおちちだけのんでいるのは、たった七日ぐらいのあいだです。
これって、
しまうまの赤ちゃんは、生まれたとき、やぎぐらいの大きさがあります。
しまうまの赤ちゃんが、おかあさんのおちちだけのんでいるのは、七日ぐらいのあいだです。
でも、通じる。
だけど、「もう」や「たった」があることでこの説明文はうんと分かりやすくなるし感動的になる。
例えば「ごんぎつね」。
・ごんは、ひとりぼっちの小ぎつねで、しだのいっぱいしげった森の中に、あなをほって住んでいました。
・ごんは、見つからないように、そうっと草の深い所へ歩きよって、そこからじっとのぞいてみました。
・ごんは、村の墓地へ行って、六地蔵さんのかげにかくれていました。
「おれと同じ、ひとりぼっちの兵十か。」こちらの物置の後ろから見ていたごんは、そう思いました。
・ごんは、道のかたがわにかくれて、じっとしていました。
・ごんは、お念仏がすむまで、井戸のそばにしゃがんでいました。
ごんはいつも隠れている。出てこない。出てこないけれどいろんなことを知っている。考えている。想像している。そして、出てきたとき、悲しいことになる。
ごんの心情を考えるとき、ごんがいる場所を点検することで分かってくることも少なくない。
僕は大村先生に「直接たずねなさんな」と教えてもらった。「子どもが考えてしまうように語りなさい」。
だから、今は、「直接的な《問い》」ではなく、言葉と言葉のつながり、文と文のつながり、思いや考えと文とのつながり、作品と読み手のつながり・・・・・・。そんなつながりの中で《問い》を立てられる子どもを育てたいと考えている。
「どうぶつの赤ちゃん」を読んで、「ライオンの赤ちゃんやしまうまの赤ちゃんに詳しくなる(ライオンの赤ちゃん博士やしまうまの赤ちゃん博士になる)ことを目指しているわけではない。「たんぽぽのちえ」を読んで、たんぽぽ博士になることはめあてではない。
「ごんぎつね」を読んで、「悪いことはしないよ」「自業自得だからしかたないよ」って感想を言わせることをめざしているわけではない。「海の命」を読んで、漁師にあこがれることはめあてではない。エーミールしかり、メロスしかり、ルントウしかり、ダイコンの鰹節もそう。
国語科教育は、「言葉を操作できること」だけを目的にしているのではなく、言葉の獲得(習得)と活用(習熟)を往還しながら、生涯、言葉の学びを楽しみ、人間関係をひらいていくことができるように「言葉の学び手として成長できること」を目指さなければならないのではないでしょうか。言葉を操作できるように教え、そして、操作できるようになったことをつないで役立つように生かし、言葉の学び手として成長していくように教えることが必要です。どちらかだけでなく、互いに高まっていくように教え、活用していけるようにしたいものです。
きょう、仲間の野田梨江さんが僕の中等国語科教育法Ⅰの授業に来てくださり、『ここからはじまる国語教室』の一節を音声にして学生に語ってくださった。
そうそう、そうなんだ。って、今さらながら、説明文は感動的に、物語は論理的に、学ぶ。そんなことが教室を創造的にすることを思い起こした。
北海道の小学校から連れてきた《教師たちの問い》について考えてみた。
「中等国語科教育法」という授業
大地のトマト
また来るぞ!新冠。
新冠、帰ってきたよ!
新冠、帰ってきた。って、そんな気持ちがあふれているんだけど、実は「はじめまして」の小学校。
新冠町立新冠小学校。昨年度までの新冠町立朝日小学校と新冠町立新冠小学校が一つになって、きょう。
だけど、やっぱり帰ってきたって感じがするのは空気が同じだから。先生たちと会うのはこれからだけど、僕はもう期待365パーセント!
で、やっぱり期待通り。
研究会は充実の時間。僕が準備してきたスライドを使う時間などナシ!それよりも新冠の教師たちとの語らいに僕はもう魅了されまくっている。新冠町立新冠小学校、最高レベルのあこがれに満ちている。どうかどうか、これからよろしくお願いします!って、本当に、感動的な一日だった。
もちろん、給食のシチューは最高に美味しかったし、
しめの美智子庵のあさり汁も大満足!
本当にいい一日。すてきな一日。また来たくなる一日。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。必ず、すぐ来ます!
新冠に行くよ!
終わっちゃった。
「ロス」ってことば、若い人がつかうものだと思っていたけれど、使ってみた。すると、なんとも今の気持ちを言い当てていることに気がついて。
「ロス」って、ことば本当は好きじゃない。だけど、この空虚な気持ちを言い当てていて、妙に気に入ってしまっている。
そんなことより、この「ロス」をどうするか。課題を考えながら31名との10時間を思い起こす。だれもの学びが集大成として包まれるような課題にしよう。
課題ができあがったら、きっと「さらなるロス」が登場するに違いない。それなら、こんどは採点をしながら心を落ち着かせることにしよう。
採点が終わったら、「何ロス」になるんだろう。
「11月29日、指折りかぞえるロス」かな。
みなさん、ほんとうにありがとうございます。幸せな10コマでした。勉強になったでしょうか。来週の金曜日は、《梅雨入り、ときどき「たつロス」》になってくれるとうれしいなあ。
さあ、中洲川端
あじさいの森
二十歳、二十歳、二十歳
たからもの/この文集の編集長さん、不器用で誠実な男。「継続は力」と言いながら、レイアウトの工夫などは一切ない。ところが、綴られている言葉が秀逸。ゼミ時代に綴ることを習慣化していた成果なんだろうか。20冊近くになるこの文集。今回もまた、いや今回はこれまでで最高に泣かされた。こまったものだ。
お気に入りのもの/センスのかたまりのお買い物。器用で誠実なかた。望遠鏡の操作が上手なのか、感覚がすっとしているのか、やられっぱなし。こまったものだ。
なくてはならないもの/かけがえのない仲間。やさしくてやわらかくて包まれるよう。故郷が歩いているって感じ。こまったものだ、心うばわれまくり。
雨の日曜日は紫陽花の色を濃くし、僕の思いを柔らかくする。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
わたし、今、わかってるはず
まずは腹ごしらえ。いつもの店でのお昼はいつものカレーうどん。
長崎のひつじかい。
日常の教室を言語化する。それだけでいいのかもしれない。
普段の教師の反省的観察を言語化する。それがいいのかもしれない。
そして、言語化された事実を仲間で共有する。それが楽しい。
長崎のひつじかい。成長し続ける教師たち。
さあ、ひつじたちの夜会!
写真を撮り忘れるくらい語り合う。
最後の一品はこれ!煮卵に雲丹。
と、祥平が粋なことを、、、
ありがとうございます。「もう少しだけ頑張りたい」と思っている新しい自分に気づきました。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。仲間たちと会わせてくださってありがとうございます。
学びの連続を目指して
のび太君は45分間でやり残したことはないだろうか。しずかちゃんにもっとできること(したいこと)はなかっただろうか。教師による「では、きょうは、」から始める授業スタイルでは、のび太はきのうの学び残しを放っておいたままきょうを始めなければならないし、しずかちゃんは本当ならきのうでもできたことを今から始める、というようなことが少なからずあるように思う。
一方、一人一人の子どもが「きのう、僕はここまで進めたから、」「きょうと明日でわたしは、」と始めるスタイルだと、一人一人の学びは途切れていない。学びが連続している。45分の学びを矢印(←)で表すなら、しずかちゃんの矢印の長さに比べてやや短いのび太の矢印ではあるが、短いなりに矢印はつながっている。5時間分の二人の矢印の長さの合計にはずいぶんと差があるかもしれないけれど、つながっている矢印は強い風が吹いても倒れないし、新たな目標を射貫くに十分な強さをもっているはずだ。そんな力をもっている自分に自信もわくに違いない。学びの実感と言ってもいい。
だからといって、教師は何もしないとは言っていない。
教師は教えて教えて教え続ける。ただ、「みんなに教えるということ」と「あなたに教えるということ」は何か、教師として問い続けなければならない。教えるということは「多くのことを伝える」だけではなく、「一人でもできるようにする」こと。そのためには何をしなければならないか。どんな下ごしらえが必要か。いつから準備しなければならないか。そもそも存在する個人差にどう向き合うか。その前に、個人差が見えているのか。
僕のこの「情熱」と「問い」。突っ込みどころ満載のようだ。いろんなところから疑問や揶揄が飛んでくる。そのとがった言葉や嘲笑が心地よいはずがない。
ただ、僕に懐疑的な教師こそがまじめな教師なんだと思う。まじめだからこその葛藤を整理できず、その解決の糸口さえ見つけられず、だからこれまでの方法にしがみつくしかないんだろう。だけど、このままでいいとも思っていないに違いない。
葛藤する教師、教師を目指す大学生につき合うのが僕の今の仕事なんだと思っている。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
おとな学び
小学校の担任をしていた。
中学生に教えることに夢中になったこともある。
高校生のひたむきな姿に涙したことも覚えている。
そして、今。社会人と学び合っている。
福岡での90分の10コマ。
僕は31人のおとな学びに魅了されている。
聞き上手であり、話させ上手。おとな学びの醍醐味はこれに限る。
来週でおしまい。なんともさみしい。みんな不合格にしてもういちど、初めからやり直すなんてできない。こんなに学び浸っている社会人は、すでに僕の学び方を超えている。評価するなんておこがましい。
最後の90分まで、とにかく「31人のおとな学び」の中に学びたい。
前夜、お酒をひかえめにしておいてよかった。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
学生がつくる授業
教育実践フィールド演習Ⅲという大学の授業は、学生が授業づくりをするというもの。
この授業の目標は、いい授業をつくることではなく、授業のつくりかたを学ぶこと。自分が行う一回きりの授業をいいものにすることではなく、教師として生涯にわたって授業をつくり続けるセンスを身につけること。
今年度から担当することになったが、この授業がたまらなく楽しい。
僕のほうが、センス、みがかれている。
大好きな兄貴であり父でありともだち
なにもかもが楽しくて
さあ、授業授業!
上五島発、大学経由、博多への一日!
上五島、やっぱりここ
さあ、上五島。佐世保港から出発だ。
35年前は「フェリーごとう」だった。きょうは「フェリーなみじ」。この緑と白は今も変わらない。この船は僕の原点。
船内のカップラーメンの自動販売機はいまも現役。
有川港に接岸。僕はいちばん前。先頭で降りた。懐かしい顔がこちらに手を振っている。
「兄貴、お帰りなさい!」「兄弟!ただいま。」ヤクザ映画じゃないんだけど、兄弟、会いたかったぞ。
さあ、島を寄り道しながら進もう。
懐かしいぞ!
研修のkeywordは7つ
・「子ども主語」の単元づくり
・「教師の都合」の見直し
・「学び浸り、教え浸る」時間に生きる
・楽しさが連れてくる「子ども主体の学びの連続性」
・他者の学びにつきあえる仲間との空間づくり
・成長し続ける教師たち
・楽しむ学校
どれもがこの小学校ですでに実現しつつあるという実感。この手応えとわくわくする予感を抱いて、さあ、ご飯を食べに行こう!
目指すはフェリーターミナル。
このターミナルも思いでの場所。懐かしい。
そして、圧巻は、「イサキのキムチ」。美味い!
成長し続ける教師たち、これからも語り合い、学び合いたいです。また来ます!の言葉は僕の本当の気持ちです。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
火曜日はフルタイム
90分の授業×6本=フルタイム!それが心地いい。
まだまだ楽しめる!それがいい。
家に帰ってからのビールが美味い。それが最高。
1日6コマできなくなったら教師やめます!それも何故か待ち遠しいんだけど。
中央軒、ここは九州のどまんなか
あれから1年、
「ひつじ、1歳の誕生日会をしましょう」と、何人かの兄弟姉妹が発起人になってくれて実現したきょうの会。
机に並べられた各地の銘菓、名物。
これこれ、この会の隠れた楽しみのひとつはこの小さなお土産箱。
五島うどん以外は、会の途中にこっそり食べる。
さて、研究会。昨晩、鳥栖の勉強会で開発した「単元 大きなおならのお勉強」を少しだけ紹介して、そのあとは《問い》について。
学ぶ場というものはいいものだ。
普段から「教師の問い」を立てているから、研究会が熱くなる。問いを立て続けているから研究に前向きになり、研究会を開こうとする。そんな仲間ががここにいる。集っている。
それぞれが僕を置いてきぼりにしてつながっているのがいい。こんな置いてきぼりなら大歓迎。みんなが名前で呼び合っている。「先生」なんて呼び合うのはよそう。僕たちは兄弟姉妹なんだから。
食べるのを忘れるくらいに語り合っている教師たち。
またすぐ会いたくなる。こんどは達富抜きで集ったらいいのに。
そうそう、僕と西原君は、予定していた新幹線にしっかり乗り遅れ、僕は最終地までたどり着けず、、、これもいい思い出。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
教師をめざす学生たち
バンクーバーからのLINE
湯島そだちの会
僕はこの湯島小学校との共同研究で大きく成長するはず。そして、湯島小学校の教師たちも成長のきっかけを得てくれるはず。もちろん、子どもたちはぐんぐんと成長するように教師は丁寧な授業づくりに挑む。みんなが成長するようにと「湯島そだちの会」と、道中、港までの景色の中で勝手に名付けた。
近くの食堂で昼食。会話が弾んだせいか、海老の天ぷらがメニューの写真よりも多い。女将のサービスか、大将の数え間違いか。
さて、港。こんな船で迎えに来てくれるのかと想像していると、
思いのほか時化た海原。船室の窓ガラスが潮に濡れる。
湯島はいい天気。僕の鞄を運んでくれる兄弟はすでに島の人となっている。
島をぐるりとまわる細い道。
辿り着いた小学校には、メッセージと僕の名前の下駄箱。
教室の窓からは見事な景色。
ついつい僕の話も熱くなる。
3000人のホールでの講演も、6人の教師たちの教室もなんの差もない。むしろ僕はこっちのほうが好きだ。
「ひとりぼっち学び」ではなく「ひとり学び」を充実させましょう。
丁寧な授業は子どもの力を信じることから。
先生が足を運ぶこともいいけれど、子どもがたずねに来る教室にしましょう。
《問い》を立てることは《問い》を立てることでしか育たないから《問い》を立てる機会をたくさんつくることです。
教師として「国語好き」にならなくてもいいから、「国語フツー」になりましょう。
「教えることは「名詞」ではなく、「動詞」。「段落」を教えるのではなく、「段落に分けて書くことができる」ようにする。
小学生の「まちがい」は「気づきのきっかけ」、「まちがい」を指摘して直すことは「できるようになる」機会。そのタイミングをみがきましょう。
研究会のおしまいに校長先生が言葉を贈ってくださった。「 」空欄のある掲示物を準備してくださって話をしてくださった。その丁寧な下ごしらえに熱くなる。
そう、僕たちは子どもも教師も言葉という「愛」の中に生きているんだ。
そんなことがぐっと凝縮された湯島の初日。もうすでに次の船便が楽しみになってしまっている。
細い道をたどって、港に向かう。帰りはひとりだ。港で手を振ってくれる兄弟がたくましく見える。
また、すぐに来ます!
そうそう、校長先生。あの「 」の中、全部に「愛」という言葉を入れてもいいかもしれませんね。
帰り道はちょっと寄り道して帰りました。
天草、ここが好きだ
きょうの給食のおまけは「かしわもち」。
天草の小学校のお昼。
天草の授業。
学びの主語は子ども、教える主体は教師。当たり前のことが当たり前にできている。こういう授業を質の高い授業と呼ぶ。
なにも東京に行かなくてもいい。ここに私たちがめざすべき授業があるじゃないか。
子どもは動かすのでははく、動く。
学びは立ち上げるのではなく、立ち上がるもの。
みんなで学ぶこととひとりで学ぶことが共存している教室。それが教室。
そして、研究協議。一人一人の授業の見方が共有される時間。
なんて心地いい一日なんだろう。出迎えてくれたメッセージ以上のものを身体に染みこませてくれたきょうの志岐小学校。
今夜の松屋はぐっすりといい夢に遊べそう。
?
久しぶりの「7号室」はいつのまにかフローリング。
今夜のMATSUYAは英語で夢を見そう。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
そう、あれはもう何年も前
トランクひとつだけで
そう言えば久しく旅に出ていないなあ、と僕。
そんなことはないでしょうと、大学の同僚。
先生、先週は淡路島と京都、今週は熊本でしょ、と研究室の学生。
全国を飛び回っていますね、と仲間たち。
そろそろトランク持って旅にでも出てきたら、と妻。
胸の中まで曇らないように旅に出たい。
時が流れても誰もが行き過ぎても旅の空に身を置きたい。
トランクひとつだけで 旅の風に吹かれたい。
昭和の歌を口ずさみながら、トランクをみがいている。
海を泳ぐ
やっぱり京都
風の吹くまま
大学の授業が始まって1週間。
担当授業の授業びらきを終えた今夜。僕は特売のお造りととびっきりの日本酒で舌鼓。もちろん寅さんを観ながら。
27話と28話の連続視聴は6話にもひけをとらない感動。
何気ない毎日の中でちょっと楽しい夜。
慎太郎、登場
慎太郎がうちに来る。それだけで朝からそわそわしてる。庭で焚き火して待ってる。ビールばっかり飲んでる。
土産にもらった虎パン、ふたつ。
この男、いい奴すぎて困ってる。
誕生日
誕生日おめでとうございます。
きょうは拓郎さんの78歳のお誕生日。
Don’t think twice, it’s alrightって教えてくださったのは1985年。東京原宿で。
拓郎さん、いつまでも憧れています。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
望まれたことを
(82+83+95+77+63+89+86+76+81+70+91+86+94+80+88+92+68)÷17=82.4
これは今朝の朝刊の「おくやみ」欄に載った男性の平均年齢。
さて、僕はあと何年。やりたいことは全部やった。やらなきゃいけないこともおおかたやった。だけど、望まれたことはちっともできていない。と考えた4月1日。新しい春。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
天に召される
アーティストK
指月会
たつゼミ、旅立ち!
上五島に行こう
ニュースパーク
ときにはこんなふうに勉強することも大事だと思う。
ニュースパーク、ここは思索のためには十分すぎる場所だ。
館長の尾高さんの論考やインタビューを紹介しておく。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jkg/74/2/74_46/_article/-char/ja
https://news.yahoo.co.jp/newshack/media_watch/newspark.html?fbclid=IwAR33tVguOe-uxMbFxNYBScwvfa52nOvwC8NPvyEqq5yLM6phLRt35JgJ_uo
ときにはこんなふうに道草くうのもいいと思う。
北の海からの贈り物
センスのいい仕事
語りの中に子どもが一人称と二人称で出てくる人が好きだ。
きょうの陽子さんの語りはまさにそう。教室が動き出す語り。いつまでも聞いていたい。だから、感じ、考え、学ぶ材料満載。
本当にいろんなことがぎゅっと詰まっている毎日の生活のなかですきまの時間を作って、こうして日々の教室の事実をまとめるなんてできないこと。ちゃんと睡眠してる?って思っちゃう。しかも三つの単元を「つなぐ」という考え方でまとめているから分かりやすい。ほんと、ねてる?
これをセンスと言ってしまっては元も子もないんだろうけど、やっぱりこれはセンス。とっておきのセンス。うらやましいぞ!陽子さん。
僕だって負けないぞ!って思わせてくれてありがとう。
神さまきょうもいつくしみをありがとうございます。
松屋という場所
今夜は天草中学教師の会。
少し早く出たので寄り道。
もちろん松屋にて。
研究の前にくつろぎすぎてはいけないんだけど、やっぱりここは僕の宿。
さて、夕刻。研究会開始!
こんなに詳しく問いについて語ったのははじめてかもしれない、ってくらい「問いを教えること」について語った。
先週の大阪といい、今夜の天草といい、学ぶ教師たちは美しい。
夕飯のとき、小学校教師登場。帰りぎわ、「遠慮せんではじめからくればよかった」ってぽつり。
大丈夫だいじょうぶ。次回、今夜とおんなじだけ、それ以上に語るけん。直美さん!
で、小も中もなく(焼酎は必要)学び合いましょう。それができるし、それをしたくなるのが松屋という本拠地!
天草、もう何年目になるのかなあ、赤城ィ、覚えてるかあ?
さて、明日は道草くいながら帰ろう。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
心さわぐ
見えない何かに向かっていることが心地よかったのは20代。
今は見えない何かを感じ、心さわぐ。
30代の拓郎さんは「誰かのために何かできると思わない」と綴った。僕は今、誰かのために何か小さな仕事をしたいと思っている。できるかどうか分かんないけれど。
いいやつ、いい酒、いい時間!
ありがとう、教えさせてくれて
この前、訪ねた教室から小さくて大きな葉書が届いた。
僕は何度も何度も読んだ。大切な仲間にも読んでもらいたくて、許可を得て読んでもらった。そして、こんな言葉を贈ってくれた。
「すべてこの生徒が言いあててくれていますね。国語のことも、学びのことも、達富先生のことも。
子どもってすごいなぁ。やっぱり、教室の学びはいいなぁ。」
一人の生徒の学びが、一人の教師の思考を揺り動かし、この教師が新たな子どもの学びをつくっていく。なんて素晴らしいんだろう。
まるで「簡単ですよ」みたいな説明、
僕はいったいどんな声を届けたんだろう。ちょっとふしぎな、だけどいつまでもとっておきたい一葉。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。そして、吉田北中学校の10のいのち、ありがとうございます。
指月会オールド
マイナス11度の露天風呂
露天風呂で髪を鉄腕アトムのようにとがらせてみた。一瞬で髪が凍ってかちかちになる。もぐってやり直し。今度は全体を立ててみた。漫画の世界ができあがる。まだだれも入って来ない午前5時の露天風呂のひとり芝居は楽しい。
昨夜のお酒も気持ちのいいものだった。3年担任の吉田さんとの授業。もちろん僕は邪魔をしないように小さく支えるだけだけど、一人の子どもの「問いを立てる」事実をいちばん近くで観察できたことに満足していた。
問いを解決することは教えられるけど、問いを立てることは教えられない。
問いを立てることができるようにするための教師の仕事のはじまりは問題意識が育つような学びにすることだ。では、問題意識が育つような学びのために教師は何をするのか。
その子どもと僕とのやりとりをずっとそばで聞いて記録を取っていた二人の教師は、ともに子どもの「育ち」に感激していた。
中学校の国語教師は、授業後、「感極まる瞬間が何度かありました」と言葉をくれた。そして夕方には「背筋が伸びる思いがいたします。来年度も頑張ろう!と力が沸きました。」とメッセージを届けてくれた。
僕がその子どもの問題意識を育てたことに感激したのではない。僕はそんな見事な技をもってはいない。ただ、二人には子どもの問題意識とはこういうように育つんだということが見えたのだろう。
問いを立てることができるようにするには、直接的に「問いを立てなさい」と何度繰り返しても実現しない。考えさせるために思考行為動詞の具体的な提案が有効であるように、具体的なてびきが必要である。
そのことがようやく一義的に言葉にできそうな手応えを感じた今週の鹿児島と北海道の旅だった。それは、一人芝居ではない。現実の教室の中での手応えだからこそ言葉にできるのである。
教室、このかけがえのない仕事場をくださった神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
北の大地に立つ教える大地と学ぶだいち
割烹 美智子庵
教えることの流れ
授業を進めることを「流す」と言う人がいる。「めあてを書いて、何人かあてて、こうやって本時は流します」というように。
授業を流してしまっては、子どもには何も残らない。流すなんてとんでもないことだ。
しかし、授業には「流れ」が必要である。しかもその流れは子ども一人一人のオリジナルである。
個別最適化とは、まさに一人一人の流れを大事にするということ。一人一人の流れが集まりぶつかりともに大きくなり、育った流れがまたそれぞれに新しい筋となり流れ続ける、この過程が協働的である。
さあ、吉田北中学校、2年。毎年1回、ここで授業をさせてもらっている。
僕はこの10人の生徒の学びの流れを心地よく感じながらも、ややもするとその勢いに押されかけ、そしてさらに勢いをと思い、目の前にかかった枝木を取り除くことや、ここはというところでは流れを緩やかにと少しばかり大きめの石を置くこと瞬時の判断で行いながら進めた。
この授業。
そもそもは少し前に届いた生徒からの手紙をもとに単元を組み立てた。500字にまとめられた10枚の自己紹介の手紙と、9枚の「達富先生にたずねたい向田邦子の読み方」。
それらを何度も読み、僕の黒い手帖に写し、そして線を引く。色をつけて丸印をつけて、矢印でつなぐ。
まるで、読解を楽しんでいるようだ。だから、教室に入ったらみんな顔なじみの気がする。
まるくなって座ろうと提案。
どの生徒も僕から目を離さない。僕も声を届ける。うなずくのが上手い。本を開けるタイミングは絶妙。手を挙げてたずねる姿に熱くなる。
手応えのある授業とはどんなものだろうと考えながらの帰路。きょうの授業はどうだったのだろうと窓を見る。
桜島が「これでいいのだ」って言ってくれているよう。そう、等身大の授業がいちばんいいのだ。さあ、安心したら急に腹がへった。
授業のあとの昼は美味い。
「教えること」の充実があればなお美味い。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。吉田北の10名のいのち、ありがとう。
観梅の酒
鳥栖にいる
JRを降りたら、まず、
食べる。
総合的な学習の時間はしなやかな運用が大事だ。児童生徒の興味や関心を包み込むような単元でありたい。
僕はいつも言う。
土日の「興味・関心」と月から金の「興味・関心」とは違う。
土日の「興味・関心」は子どもが自分から働きかけたり、親が導いたり、自然に湧き出てきたりするものだ。
だけど、月-金の「興味・関心」は、教師が教え、育てるものだ。
放っておいて「総合的な学習」の単元に都合のいい「興味・関心」ができあがってくるわけではない。そこには教師の下ごしらえが不可欠だ。
そんなことを今いちど確かめ合うことができたきょう。僕はこの勉強会に全力でかかわっていきたいと思っている。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
教室に居ること
先日のたつログについてさっそく言葉が届いた。
「達富さん、観察ということばがどうも達富さんらしくない。堅いというか、冷たいというか、達富さんらしくない。」
とのことだ。
じゃあ、言い換えよう。
教室を見る者は、教室の声を聞く者になれる。
教室の声を聞く者は、子どもに伝えられる者になれる。
そして、伝えられる者は、子どもをできるようにする者として努力する入り口に立てる。
だから、子どもをできるようにしたいなら、まず教室を見ることだ。
そのために、教室に居られることに感謝することだ。
どうだろう、これでいいだろうか。
きょうは31回目の記念日。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
言葉に自分の育ちが見える
「九州 教室の声に学ぶ会 天草の集い」の参会者からメッセージが届いた。
・・・・・・
ありがとうございます。
天草の先生方の学ぶ姿に熱意を感じつつ,自分もあの3時間は,学び浸っていました。
九州 教室の声に学ぶ会には,考えたい,考えなければならない余白があり,その部分が,個々の考えや方法を新たに生み出せるようになっていると改めて感じました。うまく表現できませんが,そこが学び続けることや開発,開拓の面白さを実感できる部分であるかと。
研究会では,読んで聞いて考えて、書きながら聞いて考えて読んで・・・・・・。
不器用な部分と,さらにマルチに対応できないことにも気づくことができました。
(発表された内容の聞き漏らしが多々あったような気がします)
今日から自分の今の環境を生かせるように,見通しと準備にも力を注ぎます。
・・・・・・
僕はこのような言語化がとても大事だと考えている。こうして学びを言語化しておくことで自身が育つ。言語化することで自分の育ちが見える。
メタ化、メタ化、ってよく口にする人がいるけど、どうなんだろう。メタ化以前のことだろうけど、手帖をみれば自分の育ちのだいたいは見えてくる。
だから僕は一生懸命、手帖と向き合ってる。この歳になると、どんな方法で自分を育てるかが分からなくなってくる。だからこそ、具体的な育て方を決めている。
こんな話をしながらお酒でも飲めるといいんだけど、誰かつき合ってくれないかなあ。
そうだ、このメッセージの彼と飲みたいなあ。どうだい、手帖を持って居酒屋で待ち合わせしよう。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
九州 教室の声に学ぶ会 天草の集い
開催を待ち望んでいた「九州 教室の声に学ぶ会」。結局、昨年9月の「天草の集い」依頼、2会連続の天草開催。天草が誠実に研究を続けている姿がここにある。
僕は朝から温泉につかり、青春の味「三ツ矢サイダー」を楽しんだ。
「ここらす天草」、ここでの研究会も何度目だろう。そういえば、『ここからはじまる国語教室』を執筆するため、ここの2階に何時間も居座ったことがある。あの本の誕生のために各地に書斎をつくったが、その一つが此処だ。いちばん長く居たのは神田駿河台の「山の上ホテル」、続いて上五島若松島の「えび屋」、佐世保駅前の「三浦町教会」、京都駅上の「ホテルグランヴィア京都」。「ここらす」では第10章を執筆したことを覚えている。
金子実践。先週、教室をたずねて観察した実践が、言語化されてまとまっている。圧巻。金子さんの実践は理屈ではない。理屈を超えたところで子どもが学び浸っている。断片的な参観ではこの力強さは分からない。
だからこそ、子どもも教師もどこまで読み込めば自分の納得にたどり着けるのか手探りしながら問い続けている。解決のゴールの先の納得のゴールが分かっていない。そしてその分からなさを楽しんでいる。
その楽しさは子どもと成長することを心地よく味わっている金子流の楽しみ方だ。粋な教師だ。
小川実践。昨晩、2時間弱、二人で語り込んだこともあり、将吾の見ている子ども観のしなやかさは十分理解できている。将吾の教室全体を見る目と一人を見る目は、打者を見る目とランナーを探る目とバッテリーに任せる目、ピッチャーがプレートを踏む前に外野手の守りの深さ浅さを確認する目、これらを瞬時に変える遊撃手ならではのスイッチによって養われたのだろう。二塁手だった僕にはできなかったフィールドワークだ。だから、「ぼくのは結びついているかなあ」の声を逃さなかったんだ。あれは偶然ではない。聞こえた声を聞き取った観察の力なんだ。
とにかく天草は丁寧で誠実だ。
勉強をしたごほうびは、
デザート(by みかんちゃん)も、
さあ、天草。また来ます!
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
宇土での学び
「ことばが創る会」、宇土を中心とした勉強会。今回が9回目の開催。次回は第10回の記念大会。とっても楽しみにしている。
さて、今夕。
説明文を読む単元の問いを立てるには、どのくらい詳細に読んでおかなければならないでしょうか。といって、教師の詳細な発問攻めによる読解はだめでしょう。
となると、
自ら詳細に読み込みたくなるような問いを立てることが有効になります。「自ら説明文に食い入る《問い》」。その《問い》はAフレーズに育ちに役立つ《問い》なのか、説明文博士になる問いなのか。
「問いの二本立て」なんて、あり得ない。となると、説明されている面白い内容に食い入り、その読み込みがAフレーズの育ちになる《問い》を立てることが必要。
そのために、教師は何をするか。
子どもが学び浸るための教師の手立てが必要。僕は、その手立てこそが「語り」と「丁寧な単元準備」だと考えている。もちろん「語り」と「丁寧な単元準備」は誠実な子ども理解の上にある。それがはじめの第一歩。
宇土には、教室で観察しない「贋 子ども主語主義者」など一人もいない。だから、これだけの期間に9回の勉強会が積み上げられたんだ。
4月、楽しみにしています。
日曜日
長崎のひつじかい
大村ずしを作りに行ったわけではない。きょうは長崎のひつじかい。ぎゅうっとつまった、そしてふわっと包まれた研究会。大好きな研究会。
まよさんの随筆を読む単元。目標(Aフレーズ)と言語活動の枠組み(論の展開/段落構成)についての検討には本当に頭をつかった。「ああでもないこうでもない」ではなく「こうもできるそれもいい」という検討は単元づくりがクリエイティブであることを実感させる。
しもちゃん(slippers)の「共有単元」にははじめて挑む心地よさがあふれていた。Aフレーズが純粋な「共有」。僕もやったことないかもしれない。しもちゃん、素晴らしい単元になるよ。次の例会での報告を心待ちにしている。
さて、僕の時間。いつものように資料を使って「大村が語る」時間。
「どんなにいい質問、作品の理解に対する的確な問いかけができたとしても、ある何人かにしか合わない、合わなくて当然です。研究としてはたんへんりっぱで、こういう質問を投げたらこの作品の理解に役立つだろうという問いができたとしましても、それがぴったり合う人がいく人もはいないわけです。」
だから単元学習、だから《私の問い》。
ひつじかい、また大きくなった。
支えてくださっているひとみさん、ありがとうございます。まとめてくださっているなつきさん、ありがとうございます。集うみなさん、ずっと一緒にやりましょう。夜も美味しかったし♪
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
ナマエリ
きょう、ナカエリに会った。相変わらず、うなずくタイミングは随一。安心できる聞き手に僕は大満足。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
鬼池港を右に
雲仙普賢岳に近づいてきた頃、東の空に細いお月さま。早起きはとにかく気持ちいい。しかもきょうはこれから天草。なお気分がいい。
フェリーが港を出る頃はもう青い空。2月の朝は数時間で表情を変える。
鬼池港を右。
2年生のはじめての《問い》、6年生の確かな《問い》、そして3年生の《問い》の解決のためのてびきの吟味。教室の研究とはこうでなければならない。
「教師の都合であってはならない」と言っている者の実践こそが教師の都合であることが多い。この学校の教師たちに「教師の都合」はない。ただ、子どもの育ちを見つめている。苓北町立志岐小学校の教師たち。僕はこのメンバーともう一年、しなやかに実践研究を進めたいと思っている。
頼りになる応援団長になれますように。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
帰り道、寄り道、旅の湯。
日本海の青が、春
宿から出ると小雨が鞄を濡らした。
とてつもなく熱い温泉にほてった身体にそれは気持ちよく、女将がさしてくれた傘からはみ出した右腕を拭おうともせず迎えの車に乗り込んだ。車がUターンするまで手を振ってくれている雪靴姿の女将は、ゆうべ料理を並べてくれていたときとはまったく違うあたたかさを放っている。ゆうべのあたたかさは箸を持つ僕を射止める確かなあたたかさ、小雨模様に手を振るあたたかさはなんともたよりないずっと引きずってしまいそうになるあたたかさだ。
旅の宿。この一宿一飯の出会いが旅をつくる。七釜温泉、大田荘。僕の隠れ家のひとつになった。
旅をつくるもうひとつがつながりと育ちだ。きのうの学びの3時間。舌鼓の3時間。もう何度もかかわった仲間、その仲間とのつながりが育っている。これがいい。「この前は、」や「次のときは、」なんてことばは育ちを共有している仲間の中でしか出てこない。
日本海の小さな学習会、次は夏休み。
そんな思いを口にしたかどうか覚えていないけれど、出発の時間に余裕をもって駅に着いた。土産に持たせてくれた浜坂の練り物に合う辛口を駅の売店で調達し、日本海をぐるりと回る列車に乗った。
持ってきた小説も難しい本も開くことなく、携帯電話や音楽をさわることもなく、5時間ほど車窓に聞き、流れる雲に語る。九州とはちがう景色からは新しいことばがあふれてくる。
これが旅をつくる三つめの楽しみだ。
気がついたら雨はすっかりやんでいる。遠く海岸べりには虹。
なにもかもがゆっくりとできあがっていく。この旅、いい旅。春のはじめの小さな旅。
そうそう、今朝の女将の手づくり小鉢、忘れられない味。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。