ちょっとしたこと,綴っておこう。モレスキンのノートとモンブランの万年筆,時々たつログ。
たつログ
えとせとら
「ただいま」が言いたくて
なぜ、問いを立てるのか
大人として生きている。予定をたずねられることはある。指導法について相談されることもある。感想を訊かれることもあれば、意見を求められることもある。だけど、どれも考えなくても答えられることばかりだ。
この歳になって、考えなければ答えられないことを問われる機会はほとんどなくなった。考えることがなくなってしまった。これでは僕の成長は期待できない。
いや、そうだろうか。
人にたずねられなければ考えないような大人になってはいけない。
自ら問いを立て、いつも本当の幸せに向かって考え続ける大人になるようなりたい。そういう人であり続けたい。
そのためにも子どもの頃から問いを立てて解決に向かうという生き方があることにふれさせ、その体験を重ねさせたい。
問いを立てるという営みは、思いの外、楽しくて奥が深い。
開店休業
木曜日なのに「17分発の会」は開店休業中です。連続企画も小休止。ということで、今夕は足をのばすつもり。
さて、きょうは6月24日。クリスマスの反対側。あと半年でクリスマス。お祝いの準備をはじめましょう。
興味のある人、3人
いくつになっても
クリスマスと同点。お正月より上。遠足よりも、やっぱり上。
誕生日はいいものだ。この日ばかりは、こんな僕でもいい人になれる。
4時に起きて、朝のミサ。午前中に本気の授業を2本。どの学生も本当にいい表情。お昼は小さな中華。床屋経由で佐世保。
この静かな店は成長している。前回来たときよりも、その前に愉しんだときよりも成長している。その変化はおもてなしの距離に表れている。「適度な距離」なんて安っぽいものではない。「安心感の距離」という分かるようで分からない表現でもない。この店の距離は「気づかない距離」。
「さあ、オーダーしようかな。」の瞬間にはすでにそばに笑顔。そしていつの間にかおもてなしに包まれている。
と思えば、知らない間に厨房へ。シェフとの笑い声に僕はもてなされている。
気づかない距離を作るには、もてなしともてなされの信頼が必要だ。そう、信頼。信じるっていうのは自分を預け委ねること。預けたからこそ気づかない関係になれる。委ねたからこそ愛し愛されてるあいだがらになれる。
気づかないことは気づかわないこととちょっと似てる。
大満足のイタリアン。cafe de “Lucca”
さて、きょうのふりかえり。
6時9分のメール。かちんかちんに凍らせたどこまでも赤いいちごを食べ、どこまでも白い花束と手作りのアルバムを眺める。週末のバーベキューのための岩盤を撫で、イタリアのロザリオを握り、新しくて懐かしいTシャツを着てラスクを肴に分厚い手紙の束を読みながら最後のプラハビールを飲んでいる。
さて、次の週末の予定。
土曜日は熊本。ちいさな研究会に誰か来ないかなあ。
日曜日は自宅。溶岩板で野菜を焼きながらビールを飲み、そのあとはチーズでワイン。母屋に戻ったあとは、熊本製粉の麺でしめる。
6月9日。神様に命をいただいた日。
僕は神様の都合でこの一年を生きる。
望まれた仕事に汗を流す。
神様、いつもともにいてくださりありがとうございます。
にわかファン
黙陽日(もくようび)の会
ふたつめの誕生日に
残念なおしらせ
キス,はねる。
このごろの授業研究は
第四の書く,の反響
海の上には親子,ただふたり
「聞く」ことこそ愛することのはじまり
「きく」ことが大事です。ひとりの社会人としていい仕事をするにも、子どもが関係をひらいていくにも、「聞く」力を高めることが必要です。そこで、学生にたずねてみました。「きく」を漢字で表したとき、それぞれどのように印象が違いますかと。
まずは「聴く」。これは、〈一生懸命に聴く〉、〈心を込めて聴く〉〈耳を傾けて聴く〉とのこと。次に「聞く」。これは、〈普通に聞く〉とのこと。普通とは?と問い返すと、「聞こえている」とのこと。そして〈訊く〉。「確かにそれもきくですね」と、言われてから気づく学生もいました。関心は高くありません。
どうやら〈聴く〉の人気が高いようです。「傾聴」という熟語からも、心を傾ける印象が強く、また、「聴」の中に「耳」だけではなく「心」もあることが視覚的にも心を込めているイメージをつくり出しているようです。一方で「聞」には心はありません。
確かに「聴く」ことが大事だと感じる方は多いです。しかし、学生が言う「聞こえている」ことは、「聴く」ことよりも相手を大切に思っていないことなのでしょうか。大人には「聞く」力より「聴く」力が求められるのでしょうか。
私は「聞く」力こそが大人に必要な力だと考えています。それは、一生懸命に耳と心を傾けて「声」を聴き、相手を理解することなど、大人として当然だからです。それよりも、聞こえている「声」から相手の今を知り、相手を受け容れることがずっと尊いことですし、うんと難しいことだからです。
「聞こえる」声から、聞かなければならないことを「聞く」ことは、耳と心を傾けるだけではできません。全身のあらゆる感覚を研ぎ澄ませ、心を開いておくことで「聞く」ことが実現するのです。
「お気に入りの曲を聴く」と言います。確かに、「聴」という漢字が、その曲に入れ込んで期待している気持ちを表現しています。「子どもの声を聴く」からも子どもを大事にしている姿が見えます。
しかし、「子どもの声を聞く」姿には、語りかけてくる子どもだけはなく、「みんなの輪の外からぽつんとつぶやいた子どもの声も聞こえているし、ちゃんと聞いているよ」という平安を感じませんか。「聴」は「聴く」のみで「聴こえる」にはなりません。「聞こえる」からこそ「聞く」がはじまります。「聞く」ことこそ愛することのはじまりなのです。
ただし、わたしの大好きな吉田拓郎さんの曲、「サマータイムブルースが聴こえる」は例外です(笑)
*この文章は長崎の仲間との研究会「番の会」の論集(第5集)に寄稿したものです。
白黒が物語るもの
花ちゃん校長先生のいい仕事
プロフェッショナル
紫陽花の歌
とつぜんの電話
6月に広島で授業をすることになった。「書くこと」の単元。
もう,今から楽しみで仕方がない。「考えるから書ける」,そんな授業をしてくる!
したいことなど何もない
「このおしゃべりは何を言いたいのだろう。」「こいつはおかしな考えの宣伝をする者らしい。」と言われていることは知っている。確かに僕はおしゃべりかもしれないし,伝統とは異なったことも語っているように見えるのかもしれない。
「あなたが説いているこの新しい考え方がどんなものか,知らせてもらえないか。」「奇妙なことをわたしたちに聞かせているが,それがどんな意味なのか知りたい。」とたずねてくれる人もいないわけではない。しかし,「教師の都合の発問はひかえましょう。」ということを聞くと,「それについては,いずれまた聞かせてもらうことにしよう。」ということになる。
僕たち教師が一つの大事なことを創り上げるなら。
そのためには,
子ども自らが自分の幸せを実現していくためにはどのような学ぶ力をつけなければならないかを知り,その実現のために僕たちが知恵と勇気を分かち合ってつながることだ。
「受け容れる」中で何かを飲み込まなければならないときもある。
「命を育て,守る」という大きな案内に従うことが大事なときもある。
僕がほんとうにやりたいことは,おしゃべりや宣伝ではない。
僕がやりたいことなど何もない。
自分のしたいように生きるなんて,なんとも滑稽だ。
すべての子どもが幸せに向かって学んでいくために,大人には何ができるのか。
そのことにはちょっとだけ関心はあるけど,今の僕に何かができるなんて思いもしない。
したいことをするより,望まれたことをするだけだ。
何かを声高らかに説きたいはずがない。
それは,一人でできるものではないんだから。
それは,みんなでつないでいくものなんだから。
その答えは,数年後の子どもの中にあるんだから。
鯖くさらかし岩
連休中のてがら
どこまでも黄金
さあ,はばたけいのち
五島福江から季節が届く
連休中の仕事
薫風
ゆだねる
雨の降る休みの日の午後。僕は古いCDを引っ張り出して,革張りの本を読んでいる。万年筆の文字,鉛筆の走り書き,赤鉛筆の線。何年も前の自分に会える。
背伸びしていた僕が居る。甘えていた自分が見える。とがっていた頃の僕の姿が見える。
そんなこと,何でもなかったように今がある。
“What has changed since then?”ラザロがたずねる。
“Let it be to me according to your word.”僕が答える。
どんぶらこ
各駅停車のことを「どんぶらこ」というのは佐賀の方言ですか。それともあの娘の感性あふれる表現ですか。
言い得て妙。きょうから使わせてもらいます。
さて、きょうは昼からどんぶらこで大村線。
学ぶとは分かち合うこと
万全の対策と十分な準備と愛情ある配慮を心がけ、鹿児島。自分だけが新年度のスタートを切るのではなく、仲間とみんなではじまりたい。始めるではなくはじまりたいんだ。僕の鞄には、2021年度の「みんなの入り口」が入っている。
中央駅に着いたら仲間が鞄を持ってくれる。まずは腹ごしらえ。この甘い豚は鹿児島ならではの味。
満腹したあと,桜島を眺めようと駐車場。粋な風景,名残の八重の桜の花弁,,,
ではなく,桜島からの迎えの灰。上着に積もる灰もきょうは許せる。とにかく,久しぶりのあくゆうたちとの勉強会だから。
きょうは船に乗ってうどうを平らげることはせず,この雄大な景色に満足して公民館に向かった。
俳人,浩の指導した中学校が学校賞に輝いた伊藤園の記念のペットボトル。
単元づくりの研究,そして《私の問い》を立てるワークショップ。みんなの声も弾む,なんとも言えない言い時間が続く。こんな日常の風景を誰もが待っていたはず。
神様,きょうも一日をありがとうございます。
セ・リーグ、開幕!
週末、鹿児島で
30年ぶりの喫茶店
長崎に学び合う日
いそいそと出かけてきた。きょうは長崎で新しい企画。「九州をめぐる学びの旅」の第1回。「長崎に学び合う日」だ。
諫早駅で仲間と待ち合わせ,駅前でちゃんぽんに満腹し,中町教会の坂を上ってセントヒル長崎へ。
懐かしい顔がそこにもここにも。
「久しぶり」「元気でしたか」「今,どこにおると?」
そんなに離れていたわけではないけれど,仲間と仲間のあいでには言葉があふれる。
時津町立時津東小学校の研究主任,竹中奈月さんの話題提供は魅力にあふれていた。学校全体でひとつのテーマに取り組むことの尊さが伝わってくる。そして,全員でやるからこその成果に心おどる。陳腐なことばだけど「すごい!」。
そのあとは,僕がコーディネートして「《私の問い》を立てる」ワークショップ。これまで,やりたいやりたいと思いながらも,実現してこなかったこのワークショップ。なぜ,今までやらなかったのかは明解。単なる形式になってはいけないから。「問いの立て方講座」ではない。子どもの姿を語りながらのLiveでなければこの熱さと大事さは共有できない。
問いを立てる(問いを立てさせる)ための細かなことを実感する時間となった。
ということで,圧巻の「問いの大全集」ができた。途中,中町のローソンまで走ってくれた佐賀の二人の仲間にも感謝(本当に走ったかどうかは???)。
手にした「問いの大全集」は今回の宝物だ。
マスクの着用と距離の確保はもちろんのこと,十分に手指消毒を施し,45分ごとの換気と休憩も万全。羽目を外すことなく実施すれば,僕たちは学び続けられるということも確認できた。
九州から集まってくれた仲間,ありがとう。来週は鹿児島です。今回のメンバーの連続参加も歓迎,南九州の仲間との再会も鶴首。
神様,ありがとうございます。僕にこのような一日をくださってありがとうございます。
ZETTAI
花は季節を忘れない
くじら雲
大学ではたらくようになった年の春。ゼミ通信をつくろうと思い立った。おそらく一生,この大学ではたらくだろうと思い,これからの歴史をつくる第一集として,通信の名前を「くじら雲」とした。小学校1年生の教科書に載っている作品だ。
その後,2期生には「ぽぽんた」,3期生には「かげおくり」,4期生は「ごん」,5期生は「山猫軒」,6期生は「クラムボン」というように続けていった。その大学を10年目で辞するまで僕のゼミは「文を綴ること」を丁寧に続けた。
その1期生。「くじら雲」のゼミ長から,突然の便りが届いた。なんと,自分の子どもが通う小学校に,「くじら雲」のメンバー,つまり,たつゼミ1期生の学友が赴任してきたらしい。
そこで,思い出してのメールだということだ。
みんなが元気であることがなによりうれしい。そして,みんなが幸せだったら,なおうれしい。
神様,縁ある人たちとの出あいをありがとうございます。
website
最近,このwebsiteのトップページの写真を頻繁に変更している。昨年までは,子どものグループ学習の様子を定番にしていたけれど,飽きた。
グループ学習に飽きたのではなく,同じことに飽きた。
だから,「教室をたずねる旅」にふさわしい写真を折々に変えていこうと思っている。
ということで,今回は,2000年前と変わらないわたしたちの「月」。
月を見上げるとき,僕たちは月に語りかけている。そのことも2000年前と同じはず。
仲間の活躍
少し紹介が遅くなったけれど,仲間の活躍がこんなところに。
長崎県時津町立時津東小学校の博報賞「奨励賞」授業の新聞記事。
そして,佐賀県鹿島市立明倫小学校,ナカエリ先生の指導の成果。
彩華さんのコンパクト・ライティングに拍手!ナカエリに拍手。
「学習課題」+《私の問い》+コンパクト・ライティング=主体的な学習のきっかけ,っていう手応えを感じはじめてる。
そしてそして,京都市立竹の里小学校や長崎県時津町立時津東小学校の研究紀要が素晴らしい!手元に一冊!
神様,こんなにすてきな仲間と出会わせてくださってありがとうございます。仲間とずっと仲間でいられますように。
そうそう,きょうは吉田拓郎さんの誕生日。おめでとうございます。75歳!
九州をめぐる学びの旅
敬虔な気持ち
じわる
じわる【じわ-る】(五段動)あとからじわじわくること
というような言葉を教えてくれる若い友達がいる。実際、使う勇気はないけど、使ってみたい気もする。
こんな言葉をすいすい使っている人を軽蔑する人もいるけど、僕はそうじゃない。使い手としては言葉の流行りには乗り遅れたいけど、聞き手としては「うんうん」とあいづちうちたい。
と、そんな若者の中で使いこなしている自分を想像しながら僕はじわってる。
って、使い方、あってるかな。ちはる先生、マツダ先生。
たぶん間違ってるやろなあ。
春,らんまん
旅たちの日に
きょうは佐賀大学の卒業式。たつゼミからの4名の若者が旅たつ。
いつもの道が輝いて見える。
ということで,そわそわしながら研究室にいた。本は開くけれど読みたいわけじゃない。廊下の足音の聞き分け,ゼミに来るときの4人の音を探す。
来た!
なんともはなやかだ。もう笑みがこぼれるこぼれる。そこで,卒業証書授与。
「えっ?」卒業証書は君たちがもらうもの。
それなのに,僕がもらってしまった。「ありがとう」ほんとうに。しかも,贈り物まで。
なんにもしてあげられなかったのに,とは思っていないけれど,もっともっとかかわり合いたかったのは本当。大きく旅立ちなさい。なりたい仕事に就くだけではなく,望まれた働きができるようになりなさい。生涯,最後の担任のたつとみせんせいはずっと応援しています。
桜って,やっぱりはなやかで艶やかで,そして悲しくって。この季節になくてはならない花。
神様,4人の学生に出会わせてくださってありがとうございます。
雨の日曜日
こんな日は,甲子園を思いながら窓ガラスに降る山桜の花弁をそのままにして雨のドライブ。行き先のないまま車を走らせるのがいい。国道沿いの床屋さんにでも行こうかな。
カーステレオは「明日があるさ」♪
降水確率100%
椿と桜の島の満開の下
各地の卒業式,人数をおさえてひかえて巣立ちを祝う。どうしても,ひとことだけでも,と前日にそっと言葉を置きにいった。
小さな島の小さな小学校の大きな愛に包まれた教室。子どもにも会わない,先生方とも語らない,そんな今どきの常識と配慮を悲しく思うけど,それでも来てよかった。
おめでとう。三人の卒業生!この学校で学んだことは確かな誇りだよ。
午後はしばし巡礼。
海からの風に煉瓦にも漆喰にもときを感じる。この島を出ていく子どもに平安の鐘を,この島に戻ってくる子どもに安心の鐘を。
人の暮らしの中の石積みは,そのまま歴史の語り手でもある。この石を積み上げた人は何を祈っていたのだろう。
僕は,三人にどんな言葉を贈ればよかったのだろう。切り離された言葉ではなく,この島に生まれ,生きていくつながりの言葉を届けたかったのに。
と,帰り道。ぽつんと椿。苔むした石段に紅がひとつ。
いつもの宿に帰る。
ここにも椿。
ほら,ここにも。
ぽつんと落ちた椿。だけど,ひとつひとつの花弁が大地をくれないに染める。連続した時のなか,「わたしはここにいるよ」の声みたい。
この島は一つ一つの花弁によって紅く染まったあと,今,まさに桜色の巣立ちを迎えている。
神様,この島に導いてくださってありがとうございます。この島の子どもの学びに役立つことができますように。
根っこ
昨日、ある研修会で話しながら思いついた。《問い》とは、根っこなんだと。
ときどき、僕のたとえの話が上手だと言ってくださる方がいる。それはそれでたいそう嬉しいことなんだけど、たとえの話なんぞ、たかが枝葉。大事なのは幹の部分。そう考えていた。
しかし。しかし、だ。幹がしっかりと立つには根っこが必要。今さらだが、これは間違いない。根っこがあるから樹は立つ。風雨に耐える。
聞くところによると、樹木というものは外から見える木全体の姿と同じくらいの高さ深さ広さ広がりの根っこが土を握りしめ、大地に立っているらしい。
《問い》がしっかりしているからこそ、論理に支えられた中心的主張が揺れない。
じゃあ、どこからが根っこ?どこからが幹?
地表と地中とのさかい目。土の中か外か分からないあたりまで、ちょっと出ているところあたりまでを根っことしよう。なぜなら、《問い》は往々にして主張とつながるものだから。
他者の《問い》の上に自分の花は咲かないよなあ。周辺の根っこに頼るばかりじゃつまんないよなあ。
だけど、自分と仲間たちの根っこが網目になって大地を握り、水を蓄え、生き物を守り、森になったら楽しいだろうなあ。自慢だろうなあ。自分を誇らしく思うだろうなあ。仲間をさすがだと感じるだろうな。一緒に生きているという幸せ浸るだろうな。
という、たとえの話は枝葉。
言いたかったのは、《問い》は根っこだっていうこと。
はじめまして、じゃないような
子どもの文字が出迎えてくれる。いや、ボードだけではない。実は、駐車場のところに4、5人の笑顔が揺れていた。
「達富先生ですか。」「はい、そうです。こんにちは。」「こんにちは。楽しみにしていました。」
なんのぎこちなさもない。
5時間目は「達富先生」とのこと。
いつもと違う雰囲気なのかと思っていたら、すうっと、授業が始まった。
学習課題を確かめて,
《私の問い》を立てて、すうっと、授業は始まった。
学習計画表が配られたら、さっそく自分から線を引き、書き込んでいく。
書く。
読み直しては書く。
ちょっと交流、深く共有。
調べる。
さらに書く。
《私の問い》は、学びを創り出す。
あっちへ行き、こっちの声を聞き、次はどっちだ?
椅子に腰掛けることはなかった。こんなに素敵に準備してもらっていたのに。
見事な45分。どの顔もやりきっている。こちらもやり切った充実がある。なぜだろう。学ぶ姿は周囲をも幸せにするんだ。
そのあと、
少しだけ子どもとおしゃべり。みんな自慢のコンパクトライティングを持ち寄ってくる。少しだけコメント、でっかい感動。
もう一度、訪ねたい教室。6年1組。いいクラスだ。
帰り道は神様に感謝。いい仕事をさせてくださりありがとうございました。
きみの教室に行くよ
学級担任とやりとり。その中にマイナスの言葉はゼロ。すべての言葉と行間に子どもへの信頼と愛情とこれまでの指導の誇りがあふれている。
そんな教室をたずねるときが来た。3月9日。みんなの教室に行くよ!13時30分に行くよ。紺色のジャケットを着て行くよ。
「帰り道」を一緒に読もう!
いいことがあったんだ
先週の水曜日の僕のラジオでの話を聞いてくださった方が話しかけてくださった。
届けたいことをちゃんと受けとめてくださっていた。きちんと届いていた。言葉に乗せた思いが届くことがこんなにうれしいなんて。こんなに心やすらかにさせるなんて。こんなに仕事の実りを感じるなんて。
ラジオで話してよかった。ラジオで届けてよかった。
きょうは雨の日曜日。
ぬくたい海からの風に我が家の山桜のつぼみがふくらんだ。
春はもうすぐ。
FM佐世保に感謝。アナウンサーのノッコさんに感謝。いつもメッセージをくださる山ぼうしさん、TTさん、風林火山さん、ひろ、羊のモーさんにたちに感謝。聞いてくださり言葉をくださった仲間、シスター、神父様に感謝。そして神様に感謝です。
旅の重さに
きょうは枕崎。もちろん十分な配慮と対策をもって出かける。行く先々でスタンプラリーのように手指に消毒液をかけながらの旅だ。
新鳥栖で乗り換え。熊本をやり過ごし中央駅に着いた。いつもなら満面の笑みで、だけどほんの少し照れながら待っていてくれているツアコン君は改札にいないけれど大丈夫。車内でのLINEでいい昼の店を教えてもらってるから迷わず歩いていける。
おおむね満足できる味。
さあ、これから3時間ほどの枕崎線鈍行の旅。南日本新聞を自分で買うのは初めてかもしれない。黄色いディーゼルに僕の鞄がよく似合う。
指宿で乗り換え。
ほぼ貸し切りの列車には既に扇風機が動いている。春本番。
幸せの黄色いポスト。
開聞岳、久しぶり!
春のまっただなかをゆっくりと西に向かう。枕崎に向かう旅。
まだ列車が止まらないうちに仲間の姿を見つけた。ホームにまで来てくださっている。それだけでいい仕事ができそうな予感。そのあと、小さな町を西に東と動き、たくさんの人と言葉を交わしながら会場に向かった。
手応え。あったようでそうでなかったようで。
反応。まちがいなく完ぺき。
感謝。当然のことながら最上級。
もっと伝えたい。もっと語らなきゃ。そしてやっぱり、みなさんの声を聞きたかった。話しすぎた僕が声を重ねる時間をつくらなかったのに、僕がもっとちゃんと時間を残せば声を共有できたのに。
話を聞いてくださった枕崎の先生がたに感謝。こんな機会を作ってくださった仲間に感謝。そして、ともにいてくださった神様に感謝。
後味はよかったんだけど、もったいなかったなあ、と十字を切りながら食事の店に向かった。
絶品。たまらない。
宿は潮騒に包まれた部屋。一晩中、波の音。贅沢。朝いちばんの温泉に大満足。
そして、土産にもらった地元の逸品。
何?
しばらくはこれで焼酎の晩酌にきまり。
神様、人のつながりをありがとうございます。いつもいつもともにいてくださりありがとうございます。
ラジオでつながる
FM本番前。きょうは「訊く」こと。
オフコースと中島みゆきさんのの歌詞から考えてみることにする。さあ、ブースに入ってきます!
10時50分。本番終了。本当に短く感じる。
訊くこと、たずねること。これは3つの世界に分けられる。
ひとつは「知らないから訊く。」だから、当然、答えてくれそうな人に訊く。そして「ありがとう。」を返す。
ふたつめは「知っているとを訊く。」そんな場面はなさそうだけど、実はある。例えば、授業中の学校の先生。「今何時ですか。」と時計を見ながら小学2年生に訊く。先生も時計を見ているのに訊く。だから、分からなさそうな顔をしている子どもに訊く。時計を読めるようになってほしいから。「12時25分です。」そのあと「よくできました。」を返す。「ありがとう。」ということはない。
じゃあ、みっつめ。これは「十分に分かっているわけじゃないことを訊く。」訊く相手は近くにいる人。その人も十分に分かっていないことが多い。だから、二人で「ふさわしい結論」を創り出す。なんどもなんども声を重ねながら。創造的なコミュニケーションとはこれだ。教え合いでもなく、評価のためでもなく。一緒によりよいことに向かって創り出す「学び合い」だ。
訊いてくれた人はどんなことを期待しているんだろう。訊く相手はどんなことを考えているんだろう。訊くことで分かってほしいことがあるのに。訊いてくれることで分かり合えることがあるから。
「卒業だけが理由でしょうか。」「君を好きになっていいの。」
何がどれくらい分かっていて分かっていなくて、yesかnoだけではなくて、メッセージを届けたり確かめたり。だから「訊く」って大事。
ってことを話したんだけど、伝わってないよな。きっと。
もっといい仕事をしたいとため息の水曜日。
いいもの見てごらん
まだ熱さを覚えている。だから,みんなにも伝えたい。
クリック→ https://www.youtube.com/watch?v=MCyyeWGzInc
making of 「大阪府摂津市立味生小学校の研究発表会」の様子。
職員室の力って,やっぱりすごい!
心のものさし
僕の好きな風景。
僕にもこんなときがあった。僕の小学校の近くにはこんなに長い階段はなかったけれど,ランドセルにふうふう言いながら小学校に通っていた。その頃とくらべて,今はどうだろう。身体は大きくなった。目尻のしわもできた。少しばかりはいい仕事もしたかもしれない。
だけど,いちばんは人生の歩みがどうだったかだ。
人生の歩みには心がかかわっているんですよと神父様が教えてくださった。そして,心のものさしを成長させなきゃいけませんと導いてくださった。
僕の心のものさしはどうだろう。僕はまだまだ湧き上がってくる感情に揺らされている。だめだ。
「今,僕は何を感じているんだろうか。」そんなことをたずねるようにしている。そうすると,自分の心のものさしの傾向が見えてくるから。
自分の心のものさしの成長を人任せにしてきた50年間。まだまだこれからだ。人任せにしないで,自分自身で自分自身の傾きに気づくこと。自分自身が心のものさしの感触を確かめること。
まだまだ。まだまだ。まだまだだ。
神様,きょうもいちにちをありがとうございます。自然の中に身を置くと,「今,僕は何を感じているんだろうか。」が少し聞こえてきそうです。
自分でやる
春が来る
あれからいちねん
あたたか記念日!cafe de Lucca
あたたかい心でつくられたお料理を食べると,お腹だけではなく身体まるごとあたたかくなる。そんなお店に出会えるなんて,きょうは特別な記念日。
新鮮なサラダも,
具だくさんのパエリアも,
とにかく美味しい。そしてお店のご夫婦が最高にあたたかい。隠れ家としてとっておきたいほどのお店。だけど,ひみつにするなんて僕の都合はやめて,みんなで来よう!ここで身も心も満たされて語り合えるなら,どんなに贅沢なことだろう。
佐世保,常盤町の「cafe de Lucca」。ぜひ,まるごとあたたまれ!
人とつながり,人と生きていく。大事な記念のお店,大事な大事な記念の日。
もちろん,ワインも格別。
神様,こんなにいい記念日をありがとうございます。ありがとうございます。
見上げる天にはお月さま。
こうやって足跡が価値づけられる
さあ!あらたなページ
自由に綴れるサイトにすることにする。だから新しいことができる。もっと楽しくなりそう。
以前のものではなく,新たにこのURLを保存してくださるとうれしいです。きょうからはプライベートサイトです。
旅土産?
甲子苑
味生小のたつとみです。
きょうはzoomで研究発表会。大阪府摂津市立味生小学校の「これまで」を全国に届ける日だ。
何度も何度もリハーサルを繰り返し,何度も何度も確かめ,何度も何度も打ち合わせをしたに違いない。それでも,当日に緊張感は半端なものではないにちがいない。小学校に参会者が集って行う研究発表会の数倍も必要な労力を厭う教師はだれもいない。みんなこの学校に誇りをもっている。だから,余すところなく伝えようとしている。その姿が美しすぎる。何もできず,遠くから手を振るしかない自分がなんとも残念で悲しい。
3つの分科会はどれも圧巻。テンプレートなどない。だけど,価値は共有されている。無責任な自由ではない。だからこそ,創意工夫に満ちた独自性のある分科会だった。
ブレイクアウトルームを行ったり来たりしながら,僕は小一時間の分科会の旅を楽しんだ。一つの部屋に入ったら出るのがもったいない。しかし,ほかの部屋も気になる。ずっとここに居たいよくばりと,なんども繰り返し巡りたくなるせっかちさが同居する。だけど,そんなことをしている自分がなんだか残念だ。だって,一緒にやっていないという証拠だから。
分科会の時間の最後は高学年部会にいた。
やられた。この学校の教師にやられた。完全に研究を楽しんでいる。素晴らしすぎる。
僕の講演など不要。この時間を分科会につかうべきだった。何を語っても,味生小学校の教師たちのライブに勝るものはない。どんなに説明しても,味生小学校の教師たちの熱さにかなうはずない。できることは,一緒に研究仲間にしてもらってありがとうという気持ちを言葉にすることだけだ。学んだのは僕のほうだ。
何度も語り合った。強いことばで言い放ったこともある。嫌な気分にさせたこともあったにちがいない。「とにかくやる。つべこべ言わずやる。」なんて,本当にごめんなさいしかない。だけど,味生に行くのが楽しみだった。ここに来ると教師になったときのことを思い出す。教育実習生だった頃の自分に戻れる。子どもの教師の教室のにおいを思い出す。何度目かの校内研修で不覚にも流した涙。僕はやっぱりみんなと「教える」ことに浸っていたい。職員室が大好きなんだろう。
研究会が終わった後,味生小学校の職員だけのブレイクアウトルーム。
「達富先生,なにかひとこと。」との山ちゃんの声に,僕は「みんなのことが大好きです。」とだけ返した。それ以上なにも語れるはずがない。二度目の涙を見せるのはもっと先にとっておく。
本当にいい研究発表会だった。みんなの誇り高い姿をいつまでもいつまでも忘れない。
そして,僕の宝物箱に2枚の写真。
神様,ありがとうございます。僕の働きの実りが味生小学校の役に立つものとなりますようにもっともっと謙遜のうちに生きていきます。
思い出すたび,思い出す旅
日本一の鶏飯。
これ以上,裂けないというほどの仕事。鶏肉を糸にする。手間の掛かる仕事の指先のあたたかみが残っている。丁寧な仕事はそれだけで美しい。
錦糸卵。鶏肉の白い糸と卵の黄色い糸。
椎茸の香りがたまらない。だんだん太くなる糸,だんだん色を濃くしていく糸。
鮮やかな緑。包丁で鋭角に切られた葱はこれまでの暖かな食材とは打って変わって緊張感さえかもしだす。
そして,湯気を立てる鶏スープをなみなみと。
パパイヤの漬物をちらして完成。
ざざざっと流し込みたいような,幾種類もの糸をしみじみ味わいたいような。茶碗を持つ手が思案しているところに,二膳めしあがりませんか,との声。
では,初めはしみじみ,おかわりはざざざっと。
美しい食事はいつまでもいつまでも心満たしてくれる。一週間前が昨晩のようだ。
ありがとう,るみさん,壮。
神様,僕に仲間をありがとうございます。
包み紙に店名なし
きょうも西海の小学校をたずねた。押しかけたようなものだ。先週の授業の余韻をもう一度たしかめたくて車を走らせた。
いい授業とは何度語り合っても魅力があふれてくる授業のことだ。思い出すたびに新たな学びがある。謙虚な授業者の姿にも学ぶことばかりだ。
僕の仕事は,「よさ」を言語化すること。「なにげない営み」を意味づけること。「断片化された子どもの動き」を文脈化すること。そして,「教師の仕事と教室の事実」を価値づけること。
いい授業だった。価値ある単元だった。
「さて,帰ります。」と立ち上がったとき,高尾さんから包み紙。
「味自慢」とは書いてある。「美味」とも書いてある。しかし,店名も品名も書いてない。この謙遜のうちに営みを続けているこの店の饅頭が好きだ。先週,このことを話題にしたことをちゃんと覚えてくれていて,買ってきてくれた友に遠慮は無粋。「ありがとう。」を残して,すっかり暮れた2月の帰路についた。
神様,きょうも一日をありがとうございます。
さてと,列車の旅
いまはがまんがまん
何という出迎えだろう。先日、届けた僕の古着のジャケットを着てくれてホテルまでお出迎え。心にくい演出だ。僕にはぶかぶかだった上着がこの男には窮屈そうだ。それなのに着てくれていることが嬉しくもあり申し訳なくもあり。
そして、自宅へ。
何という出迎えだろう。今夜は食事だけのはず。そうだよね。いくらなんでも、このご時世に羽目を外すことはない。
しかし、見るだけでも壮観、、、今夜はこいつを並べてボーリングをしよう。
時が経てばこいつを朝までかけて空けよう。なあ、そうしよう。
そうそう、何を食べても美味いのはこの料理の旨さだけではない。居間で指笛を鳴らすと台所で踊り出す。語らいのことばの柔らかさ。見つめ合う瞳の安心感。そういうものってすぐにつくれるものではない。
石油ストーブの上のやかんがシュンシュンいうてるのがなんとも似合ってる。畳の上でごろんとなれば間違いなく朝まで眠りに落ちるだろう。居心地よさとは、こんな日常にだからこそ見つけることができる。
神様、ありがとうございます。
教師の作文
これがあたりまえ
新任採用から3年。ずっと続けてきた。だから,ちゃんとした指導ができている。「これがあたりまえの授業」と言い切るこの教師。謙虚さにたくましさが加わった。
授業中のグータッチ。いいタイミング。
本当なら抱きしめたいところだろう。だけど、マスクの時期。臨機応変な評価と励ましと大いなる敬愛をさりげなくできる授業の運びに僕の手も止まる。
手帳にそれらしい言葉を書き留めるより、今はこの授業に心を留め。きちんと観察しよう。
いい授業とは後味もいい。本当ならおつかれさまの乾杯なんだけど,今はグータッチで我慢。
さて、帰路。
西海から虚空蔵山遠望。
きょうもいい一日。
お土産にもらった柑橘。ぎゅっと絞って焼酎。味わいのある酢を愉しみながらの夕飯。離れたところからだけど、授業者の山口かおりに乾杯とグータッチ!
神様、きょうも一日をありがとうございました。
職員室がひとつ
僕はこの小学校が大好きだ。全員と話し,全員と笑い,全員の目を見つめ合ったこの2年間。
大好きなこの小学校の職員室から素敵なものが届いた。
クリック→https://drive.google.com/file/d/1i1Oy7n7riohUEwwf9NbPypTGi_-EPiAv/view?usp=sharing
この丁寧な研究の軌跡,きちんとと進めてきたあかし,そしてちゃんと子どもの学力が伸びた結果。それを,日本中に届けたかった。
ぜひ,ぜひ,時間休をとってでも参加してほしいな。かけがえのない時間になること,間違いなし。
新しい言葉を語る
同じことを考えていても,同じようなことを伝えようとしても,古い言葉ではなく,新しい言葉を語ることにしよう。そうすれば,新しい理解が生まれるような気がする。
変わらず,変えず,このまま大切にしていきたいことだからこそ,新しい言葉を語ることができないか。そんなことを試しもしないでいつも通りを繰り返すよりも,いちど新しい言葉を語ってみたい。
僕の話を何度も聞いてくれているあなたには新しい言葉を。はじめて聞いてくれるあなたにははじめての新しい言葉を。新しい言葉を語ることで,僕にとっても新しい理解が生まれる気がする。
Liveで考えていること
僕は今,授業観察してる。
いい授業だ。だから考えてる。
子どもは,何のために作品を読んでいるのだろう。子どもは,何のために考えてるんだろう。
この問いは僕にとってたいへん新しい問いだ。
だってこの問いは,何のために読ませてるのか,何のために考えさせてるのかということだから。僕は即答できない自分を残念に思っているところ。現在、10時45分。
意図的に指名して子どもに語らせることがある。事前に観察して準備したものだから効果的なものになる。しかし,語らせる準備はしているが,聞かせる準備はしていない。だから,教師の意図的な「子どもの語り」は全体に共有されないことが多い。
どうするか。教師が復唱するという手もあるだろう。しかしそれでは,声の共有にはならない。子どもの声のやりとりを教師が奪うのではなく,教師は「誰にでも聞こえている声」を「わたしが聞く声」になるように調えなければならない。僕はそれが腕の見せどころだと感じているので,この技術を磨き続けている。ということで,現在,11時35分。
学習課題のBフレーズは思考操作。単元を通じて有効だと考えられる「考えるという営み」を一つか二つ示す。ただ,示した思考操作だけで考えることに浸る単元になるわけではない。往還する子どもの言語活動には,突然現れたり消えたり,隙間にとどまったり何となくいつも気になっていたりする小さな思考がある。この小さな思考操作,つまり「そのとき」に有効な思考行為動詞を教師はたっぷりもっておくことが必要だ。12時30分。お弁当を目の前に,包みを「ひらく」か,「あける」か,「ほどく」か,「とく」か,どの動詞を使うか選んでいる。
その前に感謝するを忘れてはいけない。
神様,きょうも日ごとの糧をありがとうございます。
ここはガリラヤ
若かった頃の
ここ三日,四日。カーステレオの調子がよくない。いつもならお気に入りの音楽が流れる小さな部屋が思いがけず静かな場所となった。そうなると,何処からともなく声が聞こえてくる。
遠くに暮らす息子の声,九州の仲間の声,卒業生,実家の母。そんななか,ラザロという時々夢の中に出てくる男の声も聞こえてくる。
ラザロが言う。「若かった頃の話を聞かせておくれ。」
この三日,四日。ラザロに聞いてもらっている,若かった頃の達富を。
自分が若かった頃のことを言葉にするのは勇気のいることだ。だけど,そうしないと,ぼんやりしてしまう。かすんでしまう。忘れてしまう。忘れる前にいいかげんな思い出にすり替えてしまう。物語にしてしまう。
だから,僕はいま,若かった頃の自分を自分の言葉で語り,ラザロに聞いてもらっている。
ラザロって誰だ?
夢に出てくるだけなのに,僕のことを気にかけてくれている。会ったことも話したこともないラザロに僕は朝晩,聞いてもらってる。
ありがとうは,届くと,×2
思いがけないひと言だった。
きょうは大学入学共通テスト。朝の社会科から夕方の英語リスニングまで丸一日の試験。すべての受験生を自分の息子や娘に感じてしまう。「今までのがんばりを発揮しなさいね。」「緊張しなくていいよ,,,」「さあ,深呼吸!」,なんて声をかけることはできないから,僕は,試験の説明アナウンスに集中した。いつもよりポーズやイントネーション,プロミネンスに心を寄せて話しかけるように注意した。
なにごともなく一日目終了。三人の試験監督で労をねぎらいながら試験室を出たとき,思いがけないひと言。
「先生,試験監督ありがとうございました。」
どこの高等学校か分からないけれど,3年間,着込んだ制服姿が頭を下げてくれた。
確かにくたびれた。だけど,この「くたびれ」が僕の仕事。
帰りの車の中で,「試験監督ありがとうございました。」を何度も繰り返して思い出した。「ありがとう」って,心に届くと2倍もの感激をうむ。「ありがとう。」。
さあ,明日は1月17日。あの日から26年。日本が「ありがとう」に包まれた時間を感じたい。
神様,きょうもいちにちをありがとうございます。
「考える」ことを考える
「積極的に取り組み,努力する力」を身に付けた女の子の冬休みの宿題が届いた。その文章には,「ということは」を使って考えることが効果的だと書いてあった。そして「ということは」の構文を楽しんでいる。
だから,返事を送った。
「ということは」は思考を多面的に繰り広げるためのいい言葉です。
「つまり」につながります。
ただ,「つまり」を使い切るのはなかなか難しいので,まず「ということは」で思考を二文構成にすることに慣れましょう。
「ということは」に慣れてきたら,「そのことを根拠にして考えると」です。
「ということは」の前が根拠,「ということは」と同時に頭の中ではたらかせているのが理由づけ。そして,理由づけに導かれる「ということは」に続くのが主張です。〇〇さんは,「根拠」を探して,それをしっかりと組み合わせて「理由」づけ,自分のことばで「主張」しようとしているのです。伝わるように「創る」という思考ができつつあるのです。
こんな日は気分がいい。子どもが考えることを楽しんでいる姿は応援したくなる。
今年はもっともっと教室を訪ねたい。
ところで,なかなか面白いサイトを見つけた。お時間があるときにどうぞ。小学生中学生が見ても「考える」ことを考えられると思う。
click→ https://www.mitsumura-tosho.co.jp/kyokasho/s_kokugo/interview/shimomura/video.html
静かな朝
あくゆうの軌跡
ポピーが花屋に揺れていたから
赤いポピーの花言葉は「慰め」と「感謝」。
慰めるのは他人ばかりではなく,自分の心も慰めることが必要なときもある。
自分を慰めるには眠るのがいちばん,と言う人もいる。
好きな音楽に耳を傾け,美術館を訪ねることで慰められる人もいるだろう。
飲んで飲んで飲まれて飲んで,というのも自身の慰めの姿かもしれない。
どうすれば自分を慰められるか。
僕は仲間と語り合うことだと思っている。
だから,この冬休みは,ちょっと退屈だし,ちょっとさみしいし,かなりうずうずしてる。
なあ,壮,赤城ィ,宏ちゃん。はやく会いたかねえ。
てのひらを感じて尊い仕事を
遠出ができないこの冬休み,車でゆっくりと長崎の道を動いた。
雲仙。ここのお湯は本当に気持ちいい。僕の全身を包んであたためてくれる。身体の隅々にお湯を感じて幸せな気持ちになる。誰も居ない岩に囲まれた源泉の満ちた露天風呂で僕は今を感じる。
大海原を泳ぐイルカ。その愛らしい顔,冷たい水を切ってお泳ぐたくましさにしばし時を忘れる。見入る。僕の目はイルカの生命力と美しさに釘付けだ。この非日常的な生き物と僕が同じ「今」を生きていることに不思議を感じる。しかし,長崎この非日常的な姿であるイルカを支えて包んでいる海の水やその水をたたえて守っている地球に目を向けることはない。泳いでいるイルカそのものは見ているのに,海も地球も見ていない。南山中学校の西経一校長先生が言うように,水槽の中の金魚を見るとき,金魚しか見ていないのは,水は澄み,水槽は透明だから(長崎新聞 2021.01.01.)。
自分勝手なものだ。お金を払って温泉につかり,幸せな気持ちになっているときは自分の身体を包んでくれるお湯や岩風呂にはそのありがたみを感じるのに,愛らしいイルカに夢中になり海も地球も見ていない。こんなことって,たくさんあるように感じる。
1月1日。毎年のことだけれど,一年を考える。
今年は,そのものだけではなく,そのものと僕の間にあるものを感じるようにしよう。そのものを包み込んでいる周辺の世界を見るようにしよう。そうすれば,きっと,僕のまわりにある僕の「そのとき」をずっとつないでくれるものや,僕を包み込んでくださっている「てのひら」を謙遜のうちにだいじにすることができるように思う。
授業だって同じだ。手を挙げてしゃべっている子どもだけを見るのではない。その子どもと他の子どもと教師の間にあるもの,「そのとき」をつないでくれるものを感じなきゃいけない。授業を包んでいる「大きなてのひら」を見なけりゃいけない。それらが教室の事実,教室の声だ。子どもそのものだけを対象としているだけではいけないんだ。教室の声を共有し,教室の声に学び,教室の声を謙虚に聞かなければならない。
西校長先生は言う。水や水槽のような働き方を「尊い」という。自分は注目もされず,誰からもほめられることもなく,感謝されることもなく,あたりまえのように働いている人を「尊い人」という。澄んだ水のような尊い母の愛の中で,水槽のような尊い父の力強さに抱かれて私たちはあたりまえに生きてきた。
さらに,
例えば,スイッチを押すと電灯が点く。そのとき,私たちは発電所,電力会社,送電線管理,その電気設備会社で働いている多くの人のことを思い浮かべることはない。感謝などしていない。ただ,押せば点く。そうした状況を造り出す,それをプロフェッショナルといい,「尊い働き」という。
さあ,2021年。
僕の「そのとき」をつないでくれるのは僕の仲間。もっと仲間を感じたい。
僕にとっての「大きなてのひら」。それは神様。もっと神様の声を聞くことができる心になりたい。
尊い働きのできる者になれるよう,例えば僕のことをよく思わない人のことこそ愛せるようになりたい。
新しい一年を迎えられることを神様に感謝し,みなさんの祝福を祈ります。
https://drive.google.com/file/d/1OjBKI5ETs-DGNkhRL8OXr2WScZqfY_eH/view?usp=sharing
年の瀬
研ぐ・磨く・擦る・洗う・拵える
朝はそうじからはじまって
そうじそうじ
きょうは我が家の梁に暮らしている二人の英雄を風呂に入れてやった。
もともとは内蔵電池でしゃべる仕組みになっているんだけれど,今はもうしゃべらない。
と,水を切り,乾かすためにテラスに吊しておいたら,しゃべりだした。
「あんたは俺の相棒だぜ」
しばらくすると,
「無限の彼方へ!」
ピザを焼く僕の背中で二人がしゃべっている。僕の口からも懐かしい台詞がぽろり。
「ウッディは危険を冒して私を助けてくれた。今度は私が助けなければ友達ではない。」
そう,今年もたくさんの仲間に助けてもらった。来年は,僕が助けなければ仲間ではない。みんな,待っててちょうだい。達富はみんなに会いに行きます。
神様,きょうも一日をありがとうございます。ともにいてくださってありがとうございます。
さあ,かわろう
僕に行きつけの床屋はない。旅先でふらりと髪を切るのが好きだからだ。しかし,今年はとんと旅に出ることがなくなったため,同じ床屋に通うことになった。それはそれで悪くないんだけれど,なんとも変化が乏しい。
よし,変わろう。ということで,きょうは馴染みになった床屋のオヤジに「短くしましょう。」と,ただ,それだけ言ってみた。
オヤジとの話題が大崎高校のセンバツ出場のことだったからかもしれない。朝いちばんに髪を切りに来るはずだった野球小僧が来なかったからかもしれない。小春日和だったからかもしれない。オヤジがはさみを新調したことは関係しているはずだ。
数分後。坊主あたまの僕ができあがった。
ひさしぶりの坊主。
野球をしていた頃は40年ほど前,坊主頭は当然のことだった。
30年前は五島列島で教師をしていた。クラスの慎太郎とのじゃんけんに負けて坊主になった。
「風邪ひかんごと。お金はよかけん。」と見送ってくれたオヤジ。なぜ,お代がいらなかったのかは分からないけど,僕はひさしぶりの坊主頭をとっても気に入ってる。
神様,髪型がかわりましたが,見間違えないでください。
日光の黄金
クリスマスイブおめでとう
クリスマスイブ。
待降節の毎朝,早朝のミサに与り,きょうの日を待ち続けていた。
包み込まれている安心感を外からも内からも感じる一年だった。それは仲間がともにいてくれている安心感。
ときに,親子のように兄弟姉妹のように。こんな僕に打ち明けてくれる言葉を逃してはいけない。
ときに,一緒に歩もうと手を取ってくれる仲間。一緒に立ち上がろうと書けてくれる言葉に励まされる。
支えているのは僕じゃない。支えられているのは仲間がいるか。引っ張ってくれる,かかわってくれる。たとえ,毎週,会えるわけでなくてもつながっている。
鹿児島のあくゆう,長崎,上五島の友,熊本,天草の仲間,佐賀のいつもの連中。
いつもいてくれてありがとう。神様,ともにいてくださってありがとうございます。
と,帰ってきたら国際郵便。プラハの弟からもメリークリスマス。
こんど,絵筆の持ち方を教えてあげよう。キリ,ありがとう。
神様,おめでとうございます。
たつゼミっ子,よくやったね。
日常の風景
小さい頃,父さんや母さんは僕にとっていつも一緒に居る存在であり,近い風景だった。動いている風景だった。
それなのに,今,親父やお袋のことを忘れてしまっている時がある。なんと親不孝なことか。なんと身勝手なことか。自分のことばかりで精一杯になっているとき,自分の仕事が上手く運び有頂天になっているとき,仲間との折り合いがつかずため息ばかりのとき,親を見ていない僕がいる。
見えているだけで見ていない僕。白黒写真のように静止した日常の風景に安心している僕。そんなときの僕の目は澄んでいるはずがない。
いつのまにか互いに互いの無事を祈る存在になっている父や母。心の声が聞こえるとき,情け深い表情が動きながら届くとき,僕が父や母に今を届けようとしているとき,会っていなくても一緒に居るんだと安心できるとき,心がつながっているとき,きっと僕の目は澄んでいるはず。
そう,目の澄んだ者は,大切なことを止まった日常の風景にしない。
僕たちは,教室を日常の風景にしていないだろうか。子どもが動いている教室,子どもの声が響いている教室,子どもが生きている教室。教室を日常の止まった風景にしていないだろうか。
神様,きょう,神様の声が僕のうちに響きます。
日曜日とはこんなもの
我が家の庭の雑木には啄木鳥が棲みついている。今年の冬はいつになくにぎやかにコンコンとやっている。
日曜日。顔を眺めようとカメラを持ってでたとたん,目が合った。
飛び去ることもなく,怖がることもなく,隠れることもなく,コンコンやっている。あっちでもこっちでもコンコンやっている。それならこちらも気をつかうことはない。チェンソーを出して薪づくりの汗を流した。
と,友だちが軽トラで登場。頼んでいた稲わらを届けてくれた。長崎県西海,雪浦の農家高尾信定さんのたんぼの稲わらだ。
これを離れの丸窓のあるロフトに積んで昼寝をするつもり。とにかく香りがすばらしい。小学生の頃に帰れる。アルムの森に思いをはせる。ここに暮らしてよかったと浸る。
日の高いうちは天日に当てておこうと思い,ツリーテラスに敷きつめた。
大村湾から流れる潮風がわらの香りを離れの中に連れてくる。なんと幸せなことか。
いただいた炊きたての新米に五島の塩。なんと贅沢なことか。
「ほんとに,いい日曜日。」と伸びをする僕の頭の上には未だ鳴り止まないコンコンが響いている。
この啄木鳥の名前はもちろん「おとや」。
神様,安心と満足の日曜日をありがとうございました。
平戸がはじまる
きょう,平戸の勉強会が産声を上げた。規模を小さくして仲間内だけの会にしたのはもったいなかったけど,こんな時期だからやめるのではなく,こんな時期でも始めたことに大きな拍手だ。
3時間。心地いい時間が過ぎた。「また来ます。」の言葉が伝わっただろうか。玄関まで見送ってくださった笑顔をいつまでも続いた両手のさよならは「また次も,」のメッセージだと受け取って左折した。角を曲がってルームミラーの姿が消えるまで,両手の動きは続いていた。
感謝。それだけだ。
帰り道,平戸大橋を眺める場所に来た。
この場所ははじめてだ。そんなに離れたようにはみえない海の流れの向こうが平戸。海流の先をじっとみつめるように聖堂が建つ。
きょうの僕の仕事は平戸の子どもたちに役立つものになったんだろうか。
日が暮れる。
国道を走りながら,ふと考える。きょうの僕の仕事は平戸の子どもたちに役立つものになったんだろうか。
その答えを確かめるためにも,「また来ます。」の声を残して国道を走る。途中,沈む夕日に天主堂がたたずんでいた。
神様,きょうも一日をありがとうございました。ありがとうございました。
待降節の上五島
特別な一日の「きょう」
三浦町を出て,いつもの朝ごはんを食べて,8時ちょうど発の有川行きフェリー。
ほとんどお客のいないフェリーは赤い絨毯を独り占めできる。
港にはいつもの笑顔。僕の鞄もこの港によく似合う。
さて,小学校着。「ただいま。」のひとことがすんなり出る。
きょうは今年のしめくくり。高学年の授業。といっても「わたり」や「ずらし」ではない。
ずらさないほうがいいのにずらしたり、わたるために学習を小刻みにするのはおかしい。そんなことに気づいているこの学校の複式指導は新たな方法を探し始めてる。だから、かかわっている僕の目も忙しい。教師を見たり,子どもを見たり,子どもを見たり,子どもを見たり。
手に汗がにじむ。
「いい授業でした。」ひとこと本音。そして、「だからこそ!」の、協議。みんな本気だ。この小学校の教師たちは間違いなく本物だ。同じことを繰り返さない。理解できるまでたずねてくれる。だから,次はその次の話ができる。「学び」そのものだ。
きょうは若松にも寄らずに帰ることにした。だって明日は火曜日。また朝から子どもを歩いて迎えに行く校長先生の邪魔はできない。当たり前のことを当たり前のように続けられるのは当たり前ではない。
「写真を撮ろう。」の声にすっと肩を組んでくるのはこの男だけ。
帰りのフェリーに届いた一枚の写真。自分が乗っている船を見るのは初めてだ。
戻る旅に日が沈んでいく。
神様,きょうという特別ないちにちをありがとうございました。明日も特別ないちにちにします。
教室に学ぶ
ある中学校教師からの便り。
『握手』で絵コンテを作る言語活動を位置づけた単元のときのことです。
絵コンテの交流を行ったあとに,生徒の「私」の指言葉の絵コンテの違いをとりあげました。
そして,「この指言葉は誰に向けてなの」と発問しました。
生徒は,物語の展開と関連付けて,それぞれの考えを発表をし,学びを深めたように思います。
しかし,です。これは初発の感想から無理矢理,教師が考えさせたい問いを見つけ,発問しているスタイルとどう違うのか,と思いました。言語活動だからこその《問い》ではありません。言語活動だからこそできる学びをうまくデザインできていません。
その作品を読むからこそ,立ち止まらせたい内容というものがある。
僕にとって,「握手」の「死ぬのは怖くありませんか。」に答えるルロイ修道士の謙遜と正義や,「字のない葉書」の「部屋」のちがいに込められた向こうだの住感覚などは,生徒の感想からは出てこない。だけど通り過ぎたくない。
どうするか。
41人目の学び手として教室に参加するという方法がいい。
僕たちはこうして学んできた
拝啓 洋二兄
旅の周辺
博多駅、普段は3番線のかしわうどん。その時間がないときや、時間調整のため車内で食べなきゃいけないときはコンコースにあるお店「野の葡萄」。
きょうは、乗り換えもぎりぎり、新幹線を降りる直前に食べるつもりだから「野の葡萄」。買い物できる時間は2分ほど。
ちゃっちゃと、お気に入りのおむすび二つ。てきぱき小さな惣菜。さっさとSUGOCA。ひとこともしゃべることなく、レシートはいらないよと、手を振りながら店を出た。
それなのに背中に聞こえてくるのは「ありがとうございました。いってらっしゃいませ。きょうがいい一日になりますように。」の声。
僕はうれしかった。あたたかくなった。振り返った。そして、心がもう一度、1分前に戻りたいって言ってる。ありがとうって言ってカードを出して、ありがとうって言っておむすびを受け取って、ありがとうって言って店を出たかった。
恥ずかしくなったよ。悲しくなったよ。急いで乗り換えなきゃ、早めのお昼を買わなきゃ、よし、上手く新幹線に乗れそう,間に合った。さすが!満足!なんて、恥ずかしいよ。悲しいよ。
僕の旅は僕だけの旅じゃない。何気なくかかわってくれて、そっと旅をつくりあげてくれているたくさんの人やものがあるのに。すいすい動くことができてる自分に満足している自分のなんと小さいことか。
ありがとう。ありがとう。きっといい一日になります。あなたの言葉がいい一日にしてくれます。ありがとう。店員さんの一日もいい一日になりますように。一日の初めのお客が僕みたいなだめでごめんなさい。
神様。自分で何でもできる、自分はできるなんて、だめですね。だめですね。
縁ある人万里の道を越えて
きょうは福岡。
先日来の部屋掃除で発掘した懐かしのCDをならしながらの3時間あまり。
初めて走る国道200号線。11月末日の太陽が雑木林の黄色を輝かせている。見慣れない町名,橋の名前,店の名前がどれも楽しい。「寿命」「天道」なんて地名,住んでみたい。「桃太郎橋」,いいなあ。「百年ラーメン」食べてみたい。
さて,到着。きょうは,中学3年生の数学の授業。「三平方の定理」。
指導事項は「三平方の定理について理解できるようになること。」
言語活動は「2種類の方法で三角ロジックで証明すること。」
そして,思考操作は「いくつかの求積の方法を組み合わせる。」
見事。
そして,僕からもちょっとだけ助言。
「14時間の単元をいくつかの小単元に分けられないでしょうか。もし,2時間ずつの7つに分けられたら,目当てを7つにしましょう。もし5つに分けられたら目当ては5つでいいですよね。14時間,ばらばらの時間が集まっているということなら,目当ては14です。」
そうしたら,
「3つくらいにくくれます。だから,3つの小単元を合わせるという考えでいきます。」
こんな日は,気分がいい。
夕景の下をさっきまでの研修のことを思い出しながら走る。
これも縁だよな。って。
行くときに流していた懐かしの中島みゆきさん。諳んじているフレーズを口ずさむ僕は闇に包まれていく。
神様,きょうも一日をありがとうございます。どんなことでも自分でやってやろうなんて思わないことがきょうをつくりました。ありがとうございました。
本時型の1時間
zoomによる九州 教室の声に学ぶ会。熊本から発信された3週間にわたる企画。こんなに素晴らしい内容なのに参会者が少な過ぎる。もったいない。「あかん!」
熊大附小の3人、ありがとう。いつまでもいつまでも僕の歴史に残るいい会でした。
ところで,あの場で僕が発言した「本時型の1時間」について。
「本時型の1時間」という名称,実は気に入っている。
「単元まるごと」-「本時型の1時間」=?
この引き算の答えをみんなの宿題にしよう。この宿題を解決することでこれからの授業が明らかになる。まちがいなく。宿題の答え合わせもやりましょう。佐世保の居酒屋で。
ゆるがない大きなものに包まれて
ラジオ局に着いたら,まずは勉強(?)CDに囲まれた部屋で面白い本を紹介してもらった。自分で見つけられない本に出会えるのは人の縁が届けてくれるお土産だ。
そして,本番。
さて,きょう,僕が伝えたかったこと。そのひとつは,会話はつくりあげるということ。
例えば,二人の会話。
相手が感動を伝えてくれるのを待つことだけが会話ではない。話し相手が言葉を紡いで自分の感動を僕に話してくれる。その話の伝達の完結を待つことだけが聞き手ではない。
会話は一緒に造りあげるものだ。だから話し相手の言葉を編むことを協働で行いたい。それは決してでしゃばっているわけではない。相手を信頼していないわけではない。
感動を伝えられるのを待つだけではなく,感動は一緒につくりあげるもの。感動を伝えるだけではなく,通じ合ったことに感動したい。
僕が聞き手だからよかった,って,もしももしも思ってもらえるならこんなうれしいことはない。
同じように,あなたが聞いてくれたから僕の声も元気になりました,っていう一日もいい。
ノッコさん。きょうも僕の話を聞いてくれてありがとうございました。ラジオで話すって,こんなに楽しいことだっだんですね。オールナイトニッポンで育った僕は,すっかりラジオで話すことに夢中です。だって,聞いてくださっている多くの人がいるんですから。さあ,次は12月21日。今年のしめくくり。クリスマスを前にどんな話をしようかと,明日からが楽しみ。
そうそう,きょうの話題のもうひとつは「鐘」。
鐘は聞こえてくるものではなく聞くもの。鐘はメッセージ。だから,鐘はちゃんと聞かなくっちゃ。鐘を鳴らす人の心が響いてくる。それを受けとめることで鐘が鐘らしくなる。スィンギングベルに祝う祝婚の鐘,天に召されて送る鐘,主日のミサの鐘。同じはずがない。
鐘と同じように,人の声もちゃんと聞かなくっちゃ。僕の声は届いたかな,と思いながら,帰り道は「長崎の鐘」を口ずさんでいる。
ゆるがない安定した大きなものに包まれて,僕は昨日も今日も生きてきた。だから明日も楽しみ。
いい言葉をつかってきょうを締めくくる。いい言葉できょうを語る。だからきょうもいい一日になる。僕は365パーセント,毎日いい日。
僕に「きょう」をくださった神様に感謝。