ちょっとしたことを綴っておこう。モレスキンのノートとモンブランの万年筆、時々たつログ。
たつログ
えとせとら
少なくとも九州でいちばん
仕事帰り、時津町に向かった。来週末にひかえている研究発表会の応援だ。職員室も校長室もとにかく熱い。
基調提案、いいじゃないか。プレゼン、そうきたか。なつきの語り、なるほど。僕は感動した。15分間の報告でこの学校の研究のすべてが理解できる。
学力テストの結果がびっくりするほど伸びたのは事実。だけどそれだけじゃない。何よりも尊いのは校内研究により職員室が強くなり、子どもの学びの姿が高まったことだ。
やったことは必ず見える。
時津町立時津東小学校の研究発表会。
参加しないという選択肢はない。必ず学べる。もっと伸びる。教師であることに誇らしくなる。明日が待ち遠しくなる。
みなさん、時津東小で会いましょう!
神様、ありがとうございます。こんなにいい仕事にかかわらせてくださりありがとうございます。
いいことずくし
10月22日。きょうもよい一日だった。
昼ごはんに原了郭のカレーうどんをワイシャツを汚さず食べきれたときからその予感はあった。
授業中、子どもに話しかけるのは授業者に失礼だと思い込んでいた。それはそうなんだけど、そうじゃないときもあることを知った。きょうがその日だった。
授業者の発問について考えている子どもに話しかけるのは失礼だ。しかし、《私の問い》に向き合い、その解決に向けて学び浸っている子どもが、学び浸っているからこそ私たちのかかわりを空気のようなものとして扱うとき、私たちは協働の学び手として教室の声のひとつになれる。
僕もひとりの子どもと一緒に言語活動と語彙の学習に学び浸った。
目をあげると、職員室の教員がみんな膝を折って子どもの顔のそばで教室の声になっている。みんなが学んでいる。みんなで学んでいる。
「みんな学び」に「ひとりぼっち学び」は要らない。だけど、「みんな学び」に「ひとり学び」は必要だ。だから、善意の教師たちは、かかわったあと、すうっと消える。そのとき、子どものひとり学びが立ち上がる。
まさに学びどきと教えどき。
こういう学校は伸びる。間違いない。いい気分だ。本当にいい気分だ。
帰り道、いつものパン屋。お気に入りの長めのカスクートを2本。待たずにレジ。ポケットにはお釣りなしのジャスト小銭。
いいことづくしの金曜日。日帰りの新幹線さえ愛おしい。
佐賀市立校研究主任会
佐賀市立小学校、中学校の研究主任が集まる研究主任会。昨年度に続き、僕にとっては二度目の研修会だ。緊張ということではないが、責任のある仕事に胸が高鳴る。
職員室がひとつになる校内研究を、子どものフルネームで語り合う校内研究を、子どもの学びに役立つ校内研究を、誰にも恥をかかさない校内研究を、そして後味のよい校内研究を、と語り続けた。
3フレーズの学習課題を佐賀市のスタンダードにとしましょうとの課長の言葉に感激し、学習課題の自分化について熱心に聞き入ってくださったみなさんに強さを感じ、コンパクトライティングへの手応えを確信した時間だった。
この場を設定してくださった佐賀市教育委員会のスタッフの方々、ありがとうございました。
さあ、このあとはタブレットコミュニケーション研究会。これまた刺激的な研究会だ。
神様、少しばかりの手応えをありがとうございました。
ただいま,花ちゃん
月初めの一週間の研究滞在から半月。再び,上五島。
ミサの後,佐世保港から出発。本日も凪。
お決まりの三点セット。授業も深く考える時間となった。お腹も空いてきた。1時間半ほど休憩があるので,昼食後,大曽教会か丸尾教会で時間を過ごそう。
出発,珍道中。
目指す店は「このみ」。「駐車場がいっぱいだったらどうしよう」と話ながら到着。ひとあし,いや3秒遅かった。駐められない。まあ,すぐに誰かが動くだろうと,車内で待つことにした。すると,案の定,「このみ」からお客が出てきた。「ほらほら,ほらね」と僕。「あああっ,なんでここにおると?」と花ちゃん。
花ちゃんの旧友がその店から出てきたのには驚いた。二人はしばし昔話に花を咲かせていた。
その間に,「このみ」は看板。まあいい,まあいい。「このみ」のちゃんぽんは逃したけれど,旧友との再会はそれ以上だ。
しかし,ここからがたいへん。
そのあと,浦桑郷の定食屋へ。「すみません,午後から病院に行くので」と店に入れてもらえなかった。
では,有川の「Men’s はまさき」へ。定休日。
港の前の「扇寿」へ。10分前の団体客で本日終了。
「味彩」,定休日。
「うどんの里」は営業している気配さえない。
竹酔亭は臨時休業。だったら姉妹店のKamityもアウト。
いよいよHotto Mottoかあ,と最後に寄った店の名前が「一番」。しかも「このみ」の隣。
ようやく味噌ラーメン。美味い!
午後もがんばれそう。
と,上五島珍道中。花ちゃん,ありがとう。
着いた,着いた。佐世保港。8時発,19時着。
神様,きょうも一日をありがとうございます。上五島の子どもに役立つ仕事となりますように。上五島の先生たちに役立つ仕事になりますように。
いよいよ,11月5日がやってくる。
この大きな実りを仲間と共有したい。この研究の実りの瞬間,同じ時代を生きていることに感謝したい。
まちがいなく,歴史的な一日になるにちがいない。
https://togitsu-higashi.edumap.jp/wysiwyg/file/download/1/1799
https://togitsu-higashi.edumap.jp/wysiwyg/file/download/1/1791
さて,きょうは日曜日。仕事をしない日曜日。だから,僕は,9月中旬から更新していなかった「たつログ」をぼちぼち更新中。
土曜日は思いのほかいそがしくて
10月も半ば。土曜日は思いのほかいそがしい。
4時,起床,アウトプットの仕事(表現する仕事は朝,受け入れる勉強は午後と決めている)。散歩。朝ご飯。靴磨き。
9時,教会学校。
ここまでは毎週のこと。きょうはこのあとが違った。教会学校のあとに魚市場をのぞいたのがいけなかった(うれしかった)。びっくりする値段で鯵を50尾ほど,カマスを10本,鯛を一枚連れて帰った。
まずは,鯵フライと一夜干し用に鯵を手で開く。
あぶらののったカマスには風をあてる。そして昼は鯛の出汁茶漬け。
さて,このあと,包丁を研いで,庭の草を払って,銭湯に行って夕ご飯。
鯛のお造りと鯵フライ。三岳の原酒で週の終わりの振り返り。
神様,きょうも日ごとの糧をありがとうございます。
授業のなかで指導力をみがく
きょうは天草で授業研究。昨日に続き、本当に楽しみにしていた。
このあと、18時30分から授業リフレクションがあるけれど、その前に、ちょっと振り返っておこう。
はっきりと見えたのは、たった11人なのに、学びのスピードがまったく違うということ。学びのペースも同じでないということ。学びの立ち上がりは予想できないということ。
こんなあたりまえのことをまざまざと見せつけられた。数えられないくらいの教室を訪ねてきたけれど、昨日ときょうは記念日になるほどの衝撃だ。
この「信じられないほどの〈さまざまな学びの事実〉」は、今にはじまったことではない。平成の頃にも昭和の子どもにも存在していたはず。それが見えていなかったのか、見ていなかったのか、見ようとしていなかったのか、全部わかっていたのに言葉にしてこなかったのか。
この事実を認めた限り、僕たちは止まってはいられない。やはり、一人一人の〈さまざまな学びの事実〉に向き合い、〈さまざまな案内〉をする力をつけなければならない。
僕は授業を見ながら、五島列島で教員をしていたときのこと、平成11年の奇跡(と勝手に僕が読んでいる僕のターニングポイント)のこと、小中学校の教員を辞めたときのこと、すべての節目に戻って、そのときの僕と語り合いたいと思った。
そのときの僕に「もっと求めなさい」と、声をかけてくれるのは、今の僕しかいない。でも、そんなこと、できるわけない。だから、僕はいつの時でも謙遜のうちに生きていきたい。
神様、きょうという学びをありがとうございました。天草に縁をいただき、きょうを迎え、きょうを生きられたこと、ありがとうございます。
FOREVER YOUNG
FOREVER YOUNG
♪星まで届く梯子を築き 一段一段昇っていけますように♪
きょうは大学に行く前に映画館に行った。佐賀で映画を見るのは初めてだ。
FOREVER YOUNG
「自分の都合なんかないよ」という生き方があたりまえになりますように、と僕は青すぎる天に約束した。
五日目,宿のとなりとも顔なじみ。
四日目,きょうもいい天気。
三日目,原点にかえる。
三日目の朝。
キビナゴのお茶漬けから一日がはじまる。
小学校での研究の前にお祈りを忘れない。
廃校になった運動場は苔むしている。かつてこの学校で研究授業を見たことを忘れてはいけない。僕の今は,あのときからつながっているのだから。
あのとき,お昼のお弁当を食べた海岸に降りてみた。
この景色は,きっと,何にも変わっていないはず。2000年前からも変わっていないはず。
そして,夕方。研究ではない時間、僕は懐かしい土地を楽しんでいる。ここに住んでいたことは僕の誇りだ。かつての教え子と語り合う。「せんせい」って呼んでくれるけど、僕よりずっとデカくて頼もしい人間になっている。これも僕の誇りだ。
この島は祈りに包まれている。僕も祈りに包まれている。
教師として望まれた仕事をするということの原点に案内してくれるこの島は僕にとって,まちがいなく聖地である。
二日目の休み時間
朝ご飯はヤリイカの沖漬け茶漬け。朝から元気をもらった。そして,小学校へ。
お昼の休み時間には懐かしい風景を追いかけた。
まずは津和崎。
ここからは上五島の北の島々が一望できる。きょうからこのweb siteのトップページがそれ。
右手が野崎島。学級の子どもを連れて夏休みにキャンプをした。今となっては世界遺産になった聖堂に泊まったのも信じられない思い出だ。小値賀島,宇久島にも手が届きそう。
そして,江袋教会。
2007年にほぼ全焼したこの教会を元通りにしたのは神を信じる民の業。そのときの大工の一人が野崎島の天主堂で一緒に泊まった慎太郎。確かに図画工作の力は抜きん出ていたけど,こんな大きな仕事を成すなんて,元担任の誇りだ。
午後の調査のあとは,夕飯。この1週間の宿。すでに「ただいま」「お帰りなさい」の声が馴染んでる。
神様,きょうも一日をありがとうございます。かつてこの島に暮らしていたことを大切に大切にきょうを味わいました。あのとき,何を焦っていたのか,そんな気づきをありがとうございます。
研究の旅、はじまる
さて,研究発表
きょうはかつての勤務先,大阪教育大学附属小学校の国語科の研究発表会で話題提供をする。zoomだから,ということで,懐かしさの中に学べることに感謝しながら,少し緊張している。14時開始。さあ,そろそろログインしなきゃ。
ということで,今,16時30分。研究会終了。久しぶりに大阪教育大学附属小学校勤務時代の先輩の八木さんと話ができた。調子にのって羽目を外しかける僕を厳しい眼差しで優しく誘ってくださった先輩である。今は関西の大学の教員としてご活躍。こんなつながりができるのもリモートのおかげです。スタッフのみなさん,ありがとうございます。
そうそう,きょうは,Cup Noodle の50周年。大学への移動や講演前のわずかな時間の昼食に世話になっているこのスグレモノが50周年とのこと。そう思うと,久しぶりに食べたくなってきた。
島立ち
嬉しい時には友に喜び
悲しい時には友に哀き
私はとんな酒に生りたい
こんな言葉が綴られた焼酎「島立ち」が届いた。
蓋を包んだ紙には「酒はもう十分だと言うかもしれないが,最後にもう一杯だけ飲みたまえ友よ。」とある。
飲む前からすでに言葉に酔っている。鹿児島県甑島の酒だ。芋は中学生が育てている。一緒に「六代目百合」も。
我が家の焼酎棚。四合瓶は,喜界島からはじまって,三岳,水ノ森,白波,燻枕崎に一どん,鹿児島がずらり。そして磨き大島から五島灘へと長崎の焼酎がにぎやかだ。
一升瓶は,石楠花から三岳,愛子,魔王,六代目百合に島立ち,村尾,真鶴,島娘。
酒が好きだけじゃない。酒の向こうにいる友が好きなんだ。酒に集う仲間が好きなんだ。杯を交わす言葉がたまらないんだ。
イエス様,葡萄酒もいいですが,焼酎もよかですよ。
どこまでも赤く
大学への道。彼岸花が咲き出した。まるで暦を見て確かめているように,毎年,同じ頃に咲き始める。
彼岸花といえば「ごんぎつね」と言わなきゃいけないとでも思っていたんだろうか。かつては,国語教師として彼岸花は作品研究を忘れさせないための「赤」だったかもしれない。小学校の教師をしていたときは,図画工作科の線描の材料としても彼岸花を使っていた。この赤は教室で大活躍していた。
今では,「秋になったなあ」「今夜はあたたかいものでお湯割りだなあ」を気づかせる赤。
もうあれから一年かとつぶやかせる赤。
鹿児島は霧島横川の彼岸花も咲いているだろうか。京都の美山平屋のあぜ道は赤で縁取られているんだろうな。安曇野道祖神にはコスモスと彼岸花。と,旅愁の赤。
きょう,僕は,嬉野の赤に今年の9月を感じている。もう100日もすれば降誕祭。一年はいつものようにはやい。
そういえば,2002年9月に学級通信に綴ったものにこんな文章がある。小学校3年生の担任をしていた頃の作品だ。
どこまでも赤く
達富 洋二
教室に彼岸花が届けられました。心あたたまる話や悲しい話、艶やかな話、種々のエピソードをもつ花ですが、突然の「赤」に戸惑いながらも、教室は一気に秋色に染まりました。◆「どこまでも 赤いぞ赤いぞ 彼岸花」これは子どもの一句。外からは運動会の練習の声が聞こえてきます。心なしか比叡山が紫色に見えます。◆素肌に触れる机もひんやりと心地よく、窓を開ける前、どんな風が入ってくるかが楽しみです。手の届きそうなところを舞う季節外れの蝶。晩夏を惜しむような名残りの青い空。◆二〇分ほどボールを追いかけて走ってもシャツの色が変わるほどにはならなくなりました。出かけに着てきた厚手の服もそんなに気にならないようです。◆放課後になっても水筒のお茶がなくならない子どもが「一杯どう?」と友だちにすすめています。「じゃあ一杯だけ。」「そんなこと言わんともう一杯。」◆少し短くなった久しぶりの長袖をちょいと腕まくりして机に向かう三年生。前屈みの頭の向こうで赤い花弁がつつつと揺れていました。
神様,きょうも一日をありがとうございます。
どこででもつながるから会いたい
最近はzoomで話をきいてもらうことが増えた。
天草国語教室の会,佐賀県教育センター,北九州市教育センター,大阪府の小学校の校内授業研究会,京都市の小学校の校内授業研究会に西海市の小学校の校内授業研究会。参加者が一人一台の端末を準備し,姿を写してくださる方法はリアリティがあって話も進む。グループに一台というのはもったいない。姿が見えないのは悲しい。参加する方の都合を第一にと考えるが,話しやすさと聞きやすさはみんなで創り上げたい。
必要なら,十全な打合せとリハーサル,機器点検が必要だ。
僕の疲れは,同じ会場で話すときの5倍。達成感は65パーセント。つまり,くたびれながらの不完全燃焼,ということになる。だけど,「ナシ」になるよりは100倍うれしい。だから,これからも「断らない」を続け,「リモート」に慣れる,ことにする。そのうち,いきいきリモート国語教室している僕ができるにチガイナイ。
と,そんな夜は,お気に入りのカップで寝酒の梅酒ロック。
小学校に入る前から使っていたカップ。
神様,きょうも一日をありがとうございます。
仕事人
今夜は横浜ベイスターズの快勝。
ゲーム後にベンチに戻る仲間たちの握手の列。田中健二朗が三浦監督と喜びをかみしめる姿。
僕はこういう仕事人になりたい。こういう生き方をしなきゃいけない。こんな仕事人でないなら、今すぐにでも辞める。
神様、ありがとうございます。
日本語習熟論研究会に学ぼう!
コミュニケーションの習熟について幅広く考え,話し合うことを目的とする日本語習熟論研究会が2022年の夏にできます。設立には達富もかかわっています。
これに先立つプレイベント(オンライン)が2021年10月23日に開催されます。みなさん,参加してみませんか。もちろん僕は参加します。
パンフレット→click
申し込みは,以下のURLまたはQRコードからどうぞ。
その際,申し込みフォームの末尾にある「コメント(任意)」の欄に「達富から参加しないと後悔するよ (^^) と言われました」と記入してください。
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設立プレイベント
2021年10月23日(土) 13時~ (オンライン)
12:50 開場
13:00 開会ご挨拶 米田猛(奈良教育大学)
13:10-14:00 基調講演 森山卓郎(早稲田大学)
14:20-16:30 シンポジウム
14:20-14:50 発表1 山田敏弘(岐阜大学)「学校文法をリフォーム!?」
14:50-15:20 発表2 小林ミナ(早稲田大学)「日本語教育と国語教育の境界線 」
15:20-15:35 発表3 橋本修(筑波大学)「習熟論研究会に期待すること」
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そして,これからの予定。
こんばんは指月会
以前、調子に乗って「おはよう指月会」を早朝5時からだったか6時からだったかに開催したことがある。今回は「こんばんは指月会」。夜の9時から11時まで。
もう二度とすることはないでしょう。こんな遅くに働くのはよしましょう。
成果があったのかどうかさえ覚えていない。
ものを書いたり話すことを考えたり、外に出す仕事は早朝にするといいですよ、とシスターに教わったことがある。「自分中心のよこしまな考え方が目覚める前に書いておくの。」とシスターはおっしゃった。よこしまが目覚めて元気に活動しはじめたら、本を読んだり野菜を作ったり祈ったりするそうだ。
昨夜のよこしまな達富に付き合ってくれた仲間にありがとうとごめんなさいを伝えます。
さて、明日はおやつの時間に天草とオンライン研究会。さしずめ「こんにちは天草松屋の会」といったところ。上品な研究会になりますように。
思いついたら読み返し,しばしば反省,ときどき感動
思いついたら読み返し,しばしば反省,ときどき感動。何のことか。それは自分の論文を思いついたら読み返しているという僕のくせ。そして,ほぼ100パーセント,下手くそな表現,稚拙な思考,なにより薄っぺらい研究に反省。しかし,しかし,ときどき,ほんとうにまれだけど,「いいこと書いているやん。」って思うことがある。気が遠くなるような確率だけど。
2020年3月発行の「国語教室研究 番」第4集。「教えることの点検-自分流のスタイルができたことで安心してはいないか-」。
文章は下手,語彙は幼稚,言いたいことの半分も書けていない。それは認める。だけど,言いたかったことの全部は今もそう考えていることばかり。
実践者は酔ってはいけない。安心してはいけない。自分の都合で生きてはいけない。実践者は謙遜のうちに自分を見なければならない。
神様,あのとき,書く機会をくださってありがとうございます。望まれる成長には足りませんが,きょうもよい一日を過ごすことができました。ありがとうございます。
日本海からの贈り物
やっぱりここがいちばん
この店がホームグランド
きょうは科研の調査
きょうは日帰りで調査研究。万全の対策をしてきょうを迎えた。
仲間と学び合えることが仕事であることを幸せに感じる。なりたかった仕事ではないけれど,望まれた仕事であるなら,それがもっとも幸せなこと。
会場の小学校への途中。見上げれば青空に飛行機雲。
いつもの仲間の笑顔が迎えてくれる。
僕たちの目の前にいる子どもの力を信じる。子どもの力を低く見積もらない。もちろん,子どもを買いかぶることなく適切に見ることはいうまでもない。目の前の子どもを信じ,愛する。
そんな仕事をしているからこそ,子どもを見る力を伸ばしたい。そんな教師がここにはいる。
3時間。もうそんなに経ったのだろうか。そろそろ切り上げなくっちゃ帰りの船に間に合わない。
港まで送ってくれた友からの写真。
このフェリーの中で僕はきょうの3時間をいつもの黒い手帖に綴っている。きょうを残すために言葉にしている。別れ際の友の姿も一緒にはさんでおくことにする。
さて,明日は教員免許状更新講習の2回目。その前には教育実習生の応援。
望まれた仕事だからこそ,創意工夫があふれてくる。
神様,きょうも一日をありがとうございます。生きているということは謙遜の中で声を聞くことのように思いました。
きょうをありがとうございます。
教師たちの夏
教師と一緒にいること
滞在時間7時間。きょうはとにかく教師であることに浸った。だからこそ,名言(迷言)に笑った。
・作品との出会いで感動させることも大事だけど,要約できるようになった自分に感動させたい。
・《私の問い》を立てられるようにするは教師の仕事の中の最大のSDGsです。
・子どもを案内できるように語る力は,どの教師もがもっている力であり,誰もが求め続ける力であり,いつになっても届かない憧れ続ける力です。
・つべこべいわずにやろう。
ほか,なんだったけ?たけちゃん,なんだったけ?
神様,えらそうなことことばを並べてごめんなさい。きょうというよい日をありがとうございます。
「う」忌
きょうは向田邦子が天に召されて40年目の日。
花ひらき、はな香る、花こぼれ、なほ薫る
森繁久彌の言葉のとおり、いまなお薫る向田の香り。
僕が開発した向田単元は少なくない。先日、南日本新聞「文学の小径」を言語活動として設定したものが区切りの10編目。
今年の秋用に少し大きめの単元を構想中。どこかの中学校で授業させてくれませんか。5日間、泊まり込みの覚悟です。
実現したら、「ままや」はもうないけれど、「う」の引き出しに放り込まれた向田の愛した店に行こう。食べ歩こう。きっと、花こぼれるほどに向田に酔いそう。とことんごちそうしてあげる。
教室の語りは「みんなとひとり」への案内
一昨日,ある小学校で単元への案内の下ごしらえを再現した。この営みを「模擬授業」と呼ぶ人もいる。
この研修会でいちばんメモをとってほしかったのは,この「語り」のときの「案内語彙」と「ポーズ(間)」である。「同じようなこと」を語ってもうまくいかない。教師の都合を再表現しても子どもの上を通過するだけだ。
僕だって上手くない。上手くいかない。すべての子どもを案内できるなんて無理だ。だけど,数えしれない教室に参加してきた。出会った子どもの数はい5桁に達する。この指導事項ならではの学びがいを説明する言葉,この言語活動の可能性を心に染みこませる言葉,どのように考えていけばいいかをまるでやったことあるように感じさせる言葉,そして,それらの言葉と学習履歴と見通しを思考と憧れとしてつないでいくポーズ。
これを聞いてほしい。このことを記録してほしい。
僕のことを「分かってください」とはまったく思わないけど,あの時間がみなさんの次の単元をつくることに役立つものになっていくことは謙虚に期待する。
僕は模擬授業が好きではない。「教師の都合の再確認」会になることが多いから。「時間配分(ここまでで15分)」や「予想される子どものい発言(ここでこんな考えが出てきて)」など,ほんとうに情けない話だ。15分でそのことができない子どもはどうなるんだ,その子どもをどうするつもりなんだ。予想外の発言をどうするんだ。予想する発言ができない子どもをどうするんだ。そうじゃない。学びがいと可能性をできそうだと案内するために必要な事前に行う子どもとの対話なんだ。それが,単元への案内の下ごしらえなんだ。
大事なことは,一人一人の子どもの学びがちゃんと成立するために,教師はどんなことをどのように案内するか,である。
神様,きょうも一日をありがとうございます。
きょうはいい天気!
山本二三の雲の立つ空に向かって走ろう。
「社会に足並みをそろえる必要はない(もちろん穏やかな意味で)」。友の言葉に向かって語ろう。
何ももたないことの美しさに心ひらいて祈ろう。
8月20日。みなさんがよい時間を過ごせますように。僕は仲間の中に生きられてほんとうに幸せです。
だけど,残念なおしらせがひとつ。click
僕の道草の定番だったうどん屋が店をたたむことになった。さみしくなる。
学びに向かう教師たち
きょうは小学校での校内研修に行ってきた。そこには,他の学校の教師も来ていて,たいそう似熱心な会になった。
そして,夕方からは公民館で指月会。
十分な距離を保って行った研究会だけど,熱さは十分だった。僕も一生懸命だった。新たな単元づくりの話は,ただそれだけで心たかまる。
だから,この勢いで通信でも作ろう。と大学に戻った。
誰もいないキャンパス。これはこれで落ち着く。学生のにぎやかな姿を取り戻すまで,研究者が大学を守り続けなきゃ。
しかし,深夜の研究室はちょっと怖いのも確か。
そうだ,そうだ。お昼にいただいたお菓子を食べようと思い,お茶を淹れ,包みを解いた。
とたんに,もっと怖くなった。
ミルクボーイじゃないけど,最中ってなんでこんな怖いんだろう。確かに美味しさは抜群なんだけど,深夜の研究室には,,,,ちょっと似合わないかも。
神様,きょうも一日をありがとうございます。学ぶこと,教えることが僕に望まれていることでなら,謙遜のうちにその中に身を置いて生きていきます。
佐世保の町は僕の町
きょうは仕事を早めに終えて映画を観た。長崎に暮らす僕にとっては見逃すわけにはいかない。
幻に長崎を想うとき。田中千禾夫の戯曲を映画化したというこの作品、足元を流れるテーマをどのように感じ取れるか、題名が僕の心に語りかけてくる。
戦争を知らない僕には、きょう一度では分からないことも少なくなかった。平和への希求対立する二者に共通の信念だ。それに間違いはない。
先日のNHK「ボーイズタウン」での「ほうっておいてくれ」の声がずっしりと重い。
もう一度くることになると感じつつ下町を通り、行きつけのL ucca。
さっきまでの心地いい重さにすがすがしい風を吹かせてくれる店。
新鮮がしたたるサラダが抜群。
熱さと香ばしさと旨味はシェフの願いに違いないとうならされるパエリア、絶品。
そして、奥さまのあたたかさとしなやかさのデザート。
大好きな店に大満足。
二回目の映画の夜はパスタも食べようっと。
神様、きょうも一日をありがとうございます。L uccaのお二人もここに集うお客たちも安心して平和なうちにきょうの仕事を終えられます。
みなさん あのね
月曜日。昨日の晴れ間がなかったかのように、土曜日のような音に目覚めた。また、降ってきた。みなさんの町が無事でありますように。仲間の暮らしが平和でありますように。
4時30分、これからミサに与ってきます。
さて、自宅に戻り、NHK。長崎商業と熊本工業、どちらもいい試合に浸ってほしい。九州勢のたたかい。
ここまでは朝の「たつログ」。
夏季休暇最後の一日,長商が勝って気分のいい僕は,肥後守で鉛筆を手入れすることにした。雨は同じ降り方ではない,絶えずその大きさを雨音と肥後守が木を削ぐ音の重なりを楽しんでいると,小さくオートバイの音。
「こんな豪雨の中でも郵便屋さんは走っているんだ。」
革のエプロンについ削り片をはたいて,届いたたくさんの郵便物を仕分けるのも休みの日の醍醐味。
プラハの友のバチカンからの葉書。うらやましい。さっきまで会っていたシスターからの祈りの葉書。これは手を洗ってから。クレジットカードの明細はどうでもいい。楽しみにしている月刊誌の9月号。これは今夜の食後の楽しみ。と,かつてのゼミ生からの封筒。
4期生。苗字の中の一文字を取り出してつけたニックネームは「ぐ」。大阪に暮らすぐ。ぎっしりと思いが綴られた8枚の便箋。僕が集めていることを覚えてくれていて,気にかけてくれていたことがよく分かる手拭いが一枚。そして,小さな教師の大きな仕事がいっぱいつまった学級通信。
やられた。「みなさん あのね」。
大学4年間のうち2年間を達富ゼミで過ごしたぐ。僕のゼミは毎週1枚の文集を発行していた。誰もがいつでも書くことができるようになるため。誰もが読み手として他の表現に心を重ねることができるようになるため。生涯,書き手として,読み手として,言葉の近いところで生きていくことができるようになるため。言葉で語ることを厭わない人になるため。2年間続けてきた。
それを,今も形をかえて続けている。それが「みなさん あのね」。ぐの成長を心から賛美したい。ぐの誠実さに心から感謝したい。ぐの謙虚さに僕が学んでいる。
8枚に綴られた思いはしっかりと受けとめた。約束する。「京都指月会」の合宿をしよう。十分な感染症対策をしてやろう。涼しくなった頃,京都か九州のどこかの静かなところでやろう。24時間,学び続けよう。必ず実現しよう。だから健康でいよう。
経験年数や立場やお金なんかとはまったく違うものにふれたぐからの便り。ありがとう。ぐの「おうち 終わりの会」に僕が登場することがあればうれしいなあ。なほやなおこも元気かあ。
と,ここまでが午後からの「たつログ」。
いつもいつも,一つ先を案内してくださっている神様ありがとうございます。もう一つ先に導いて下ってありがとうございます。
善なるもの
8月15日に考えている。子どもは善なるものだと。
なんの罪ももたず生まれてきた子どもは、ただそれだけで善だ。その善なるものが汚れることなく成長することを期待し、責任をもってともに生きるのが大人の仕事だ。
僕は罪だらけの大人だけど、子どものそばで成長を案内できる大人になりたい。
ただただ、そう祈りながら8月15日を生きている。
長崎は雨
虚空蔵山と大村湾に囲まれた僕の家は大丈夫。強い雨に怖いくらいの夜だったけれど大丈夫。神様が守ってくださっているから。
そして、次から次と届けられる仲間からの声にも「大丈夫」をもらってる。大丈夫だったら返信はいりませんよ,の声に,大丈夫だから声を返したいって思ってしまう。それぞれが心配してくださっている「向き」は違うけれど,すべてが僕とつながっていてくれていることは同じ。だから,大丈夫だいじょうぶ。
正美さん,ひろ,ぐ,石井,ありがとうございます。大丈夫です。
君の町はどうだ?
来週の火曜日まで雨らしい。僕の住む長崎県大村湾沿いの小さな町も雨。JRは止まっちゃうし,道は冠水。思っている以上に僕たちの暮らしは強くない。
みなさんの町が無事でありますように。
千葉の友からメッセージ。「雨,大丈夫?」
重なるように北海道の悪友から「大丈夫と思いつつも気をつけろよ!」の声。
鹿児島や摂津の妹分からも,金沢の恩師からも,京都の弟分からも,堺の娘からも,新潟のあんちゃんからも。
みんな自分の町もたいへんなのに。
日本中から届く「大丈夫?」に「大丈夫!」と返し,「大丈夫?」に感謝して「大丈夫!」を届けられることに幸せを感じ,僕は雨音に長崎メドレーを歌っている。
赤城ィ,岩下さん,天草は大丈夫かあ?壮,ヒロシ,枕崎の浜省,てらまい,鹿児島はどうだあ?
神様,僕のともだちが安心して夜を迎えられるよう守ってくださってありがとうございます。
平和を生きる
11時2分。長崎の教員になったのは30年以上前だけど、あの日以来、11時2分の黙祷は欠かさない。小学校の階段の踊り場で立ち止まったこともある。炎天下の運動場のこともあった。夾竹桃の陰で空を見上げたこともあった。きょうは、大村湾を眺めながら平和を祈った。
平和はを祈ることは過去のことでも他人事でもない。いま、私たちが悲しい歴史を見つめることだ。家族で平和を語り合うこと。ここから世界の平和は始まる。
そんな昼下がり、僕は武雄温泉の湯船に身を沈め、「日ごとの糧をお与えください」と祈ってる。
神様、きょうも一日をありがとうございます。
がまんの夏
やっぱりこの時間
謙遜と貪欲は共存する。健気と一生懸命は一緒にはたらく。学ぼうとする姿は伝えたい情熱を高める。
東小での3時間はまさにコラボレーションの時間だった。こういう時間に流れに身を置くことを幸せと呼ぶのだろう。僕はまちがいなく,幸せだった。
帰り道,近くの郵便局に寄った。
ドライブスルーポスト。ぎりぎりまで近づけるのに緊張はしたけれど,熱いコンクリートの上を歩かなくても投函できる便利な郵便局。こんなこともきょうの幸せを盛り上げてくれる。
さて,今夕は,二日続きの絶品「白苦瓜」に愛子。そうそう,その前に夕涼みの大村湾にカヤックで出よう。マゴチの一匹でも上げることができれば白身の作りに舌鼓。
神様,極上の一日をありがとうございます。
はい,世話してます!
水色のひまわり
ワインをならべて
遠く,雲仙普賢岳
学び手への評価は僕への評価
背筋を伸ばして、そして、文字を追う。
正座して、文を確かめる。
もう一度、何を書きたかったのかを問う。
そして、この課題に向かう一人一人の思いに寄り添う。
こんな調子だから採点がすすまない。だけど、この時期、評価の時期だからこそ味わえる教えることの尊さを感じる。
下手くそな自分の授業に付き合ってくれてありがとう。勝手な進め方について来てくれてありがとう。
本当に大切な存在。もっともっと学生と語り合いたい。
こんなはずじゃなかったのに
僕はいま鹿児島での研究会を終え、長崎行きの新幹線の中。トンネルを走る窓に映るマスクの顔を見てる。
役立つ仕事ができなかった力不足ともっと成長しなきゃいけないのにという戒めと少なからず芽生えているおごりが情けない。
大事なものを見ていなかった気がする。それは分かっている。会場近くの球場からの歓声に心奪われたわけではない。
ふとよぎった最近聞こえて来る評価に心乱しているわけでもない。心の中心に置かなければならないものに目をつむっている自分が原因であることはわかってる。
だから。心をまっすぐにしようと朝からザビエル大聖堂に行ってきた。心の中心を確かめるため。
ホテルの豪華な朝食には見向きもせず、新幹線ホーム下でうどんを食べることにした。この店のお母さんはいつも「気をつけて行ってらっしゃい」と言ってくれるから。
トンネルを抜けた。不確かな僕の顔が消え、見えるのは7月の日差しに光る里山の緑。
ああ風を感じたい。開かない窓はつまらない。新鳥栖からは鈍行で帰ることにしよう。自然の思ったら声を聞くだけで、きっと、それだけで心満たされる気がする。
学びの夏休み
青春の讃歌を綴れ
天草からの帰り道。夏色の中を走る。目指すは県営野球場。
一塁側、35列6番。一人で来るときの定位置のひとつ。ブラバンも控え選手のアカペラ応援もない今年の予選。球音だけでなく、ミットにとまる革の音、振り放ったバットが転がる芝の音、スライディングの砂煙の向こうの土擦れの音まで聞こえる。
そして、センター池田君とライト乙内君のあいだを行き来する短い言葉にどきどきしている僕がいる。マウンドに集まる汗まみれの顔からこぼれる言葉が聞こえてきそうなくちびるの動きをじっと見つめている僕がいる。
美しい賞賛や力強い応援、励ましや慰め、他者への感謝の言葉はもちろんだけど、信じ切っている仲間の間にある短い声こそが青春の讃歌かもしれない。
試合後、スタンドを後にする僕の横を控えの選手が応援を片づけている。こんな姿に僕は熱くなる。
いいもんだ。こんなところにも青春の讃歌があふれている。
さてと、第二試合までのあいだに腹ごしらえ。きょうは大波止の馴染みの店は定休日だから、もうひとつの店にしよう。
天草に友あり
口之津港まで、島原半島軽トラの旅。
30分ほどの島鉄フェリー、そして鬼池港から海辺を東へ。松屋旅館を目指す。
何度目だろう、天草。何人の友ができただろう、天草。きょうの研究会を心待ちにしていた。
熱を測り、手指を消毒し、アクリル板を立て、マスクを外さず、万全の対策の上に研究会ができる。面倒だなんて言ってられない。天草の学びを止めるわけにはいかない。
ということで、本当に充実の時間だった。話題提供の二人に感謝。言語活動の属性、教科書作品の読み方、説明文は感動的に、物語は科学的に。こんなキーワードでまとめられるきょうの研究会。
みんなで飲んで騒いでというわけにはいかないけれど、「また来月、」の言葉に元気が出る。
ところで、最近の天草のトレンドといえば、
僕はこの店に心うばわれている。
もっと丁寧に言えば、この店の駐車場を忘れることができない。
ということで、今年は天草の友の学校をたずねます。迷子にならないように、大きな道まで迎えに来てくれるなら、二つ返事で行きます!
天草には僕の友がいる。
なんて素敵な響きなんだろう。
校内研修のあとはなぜか僕も謙遜
きょう,三週間前にも話しに行った学校を再訪した。みなさんとの距離も小さくなり,心地いい。
「子どもの《私の問い》を立てさせることができる教員になりたい」という年齢を超えた一生懸命な姿はそれだけで謙遜にうちにある。僕はそういう時間が大好きだ。
満足しました。心が穏やかになりました。教師としての力が伸びたように感じます。などの声を聞くと来てよかったとしみじみする。
交通事故でもあったのか,大渋滞の帰り道。迂回に迂回を重ねて,道を探し,結局,高速道路を使うことにした。
気がつけば,先ほどまでいた小学校の近くに戻ってきている。苦笑。
だけど,この運転しながらの時間に謙遜についてとらえ直すことができた。
謙遜のうちに生きるということは,貧しく生きることと重なる。貧しさとは求めるのに足りないことではない。自分を見ないであれもこれもと欲張ることでもない。何もないことを知ることだ。自分には何もないことを知るからこそ貧しさを受け容れることができる。
神様,きょうも一日をありがとうございます。謙遜と清貧,そんなことに少しだけでも心を向けられたきょうは僕にとって美しい一日です。さて,明日は久しぶりの天草。みんなに会いに行くよ。
明後日の会、ふたたび
夏、何も聞こえないから
夏本番
「今日7月13日(火)11時、気象台は九州北部地方と中国地方が梅雨明けしたとみられると発表しました。」とテレビが言ってた。
といことで、夏本番。サザンを聞きながら海辺を走る。
おもてなし
ていねいな授業は全部がていねい
段落ってよかですね。
きょうは看護学校で論理学。この学校の学生たちが好きだ。なぜって、学ぶことにストレートだから。分からんもんは分からんし、って顔して寄ってくる。分かりつつあると、表情が和らいでくる。自信のときは世間話に盛り上がる。
そんな学生のきょうの帰り際のことば。
達富先生、段落ってよかですね。
僕はスキップして帰りたいくらいだった。
「ただいま」が言いたくて
なぜ、問いを立てるのか
大人として生きている。予定をたずねられることはある。指導法について相談されることもある。感想を訊かれることもあれば、意見を求められることもある。だけど、どれも考えなくても答えられることばかりだ。
この歳になって、考えなければ答えられないことを問われる機会はほとんどなくなった。考えることがなくなってしまった。これでは僕の成長は期待できない。
いや、そうだろうか。
人にたずねられなければ考えないような大人になってはいけない。
自ら問いを立て、いつも本当の幸せに向かって考え続ける大人になるようなりたい。そういう人であり続けたい。
そのためにも子どもの頃から問いを立てて解決に向かうという生き方があることにふれさせ、その体験を重ねさせたい。
問いを立てるという営みは、思いの外、楽しくて奥が深い。
開店休業
木曜日なのに「17分発の会」は開店休業中です。連続企画も小休止。ということで、今夕は足をのばすつもり。
さて、きょうは6月24日。クリスマスの反対側。あと半年でクリスマス。お祝いの準備をはじめましょう。
興味のある人、3人
いくつになっても
クリスマスと同点。お正月より上。遠足よりも、やっぱり上。
誕生日はいいものだ。この日ばかりは、こんな僕でもいい人になれる。
4時に起きて、朝のミサ。午前中に本気の授業を2本。どの学生も本当にいい表情。お昼は小さな中華。床屋経由で佐世保。
この静かな店は成長している。前回来たときよりも、その前に愉しんだときよりも成長している。その変化はおもてなしの距離に表れている。「適度な距離」なんて安っぽいものではない。「安心感の距離」という分かるようで分からない表現でもない。この店の距離は「気づかない距離」。
「さあ、オーダーしようかな。」の瞬間にはすでにそばに笑顔。そしていつの間にかおもてなしに包まれている。
と思えば、知らない間に厨房へ。シェフとの笑い声に僕はもてなされている。
気づかない距離を作るには、もてなしともてなされの信頼が必要だ。そう、信頼。信じるっていうのは自分を預け委ねること。預けたからこそ気づかない関係になれる。委ねたからこそ愛し愛されてるあいだがらになれる。
気づかないことは気づかわないこととちょっと似てる。
大満足のイタリアン。cafe de “Lucca”
さて、きょうのふりかえり。
6時9分のメール。かちんかちんに凍らせたどこまでも赤いいちごを食べ、どこまでも白い花束と手作りのアルバムを眺める。週末のバーベキューのための岩盤を撫で、イタリアのロザリオを握り、新しくて懐かしいTシャツを着てラスクを肴に分厚い手紙の束を読みながら最後のプラハビールを飲んでいる。
さて、次の週末の予定。
土曜日は熊本。ちいさな研究会に誰か来ないかなあ。
日曜日は自宅。溶岩板で野菜を焼きながらビールを飲み、そのあとはチーズでワイン。母屋に戻ったあとは、熊本製粉の麺でしめる。
6月9日。神様に命をいただいた日。
僕は神様の都合でこの一年を生きる。
望まれた仕事に汗を流す。
神様、いつもともにいてくださりありがとうございます。
にわかファン
黙陽日(もくようび)の会
ふたつめの誕生日に
残念なおしらせ
キス,はねる。
このごろの授業研究は
第四の書く,の反響
海の上には親子,ただふたり
「聞く」ことこそ愛することのはじまり
「きく」ことが大事です。ひとりの社会人としていい仕事をするにも、子どもが関係をひらいていくにも、「聞く」力を高めることが必要です。そこで、学生にたずねてみました。「きく」を漢字で表したとき、それぞれどのように印象が違いますかと。
まずは「聴く」。これは、〈一生懸命に聴く〉、〈心を込めて聴く〉〈耳を傾けて聴く〉とのこと。次に「聞く」。これは、〈普通に聞く〉とのこと。普通とは?と問い返すと、「聞こえている」とのこと。そして〈訊く〉。「確かにそれもきくですね」と、言われてから気づく学生もいました。関心は高くありません。
どうやら〈聴く〉の人気が高いようです。「傾聴」という熟語からも、心を傾ける印象が強く、また、「聴」の中に「耳」だけではなく「心」もあることが視覚的にも心を込めているイメージをつくり出しているようです。一方で「聞」には心はありません。
確かに「聴く」ことが大事だと感じる方は多いです。しかし、学生が言う「聞こえている」ことは、「聴く」ことよりも相手を大切に思っていないことなのでしょうか。大人には「聞く」力より「聴く」力が求められるのでしょうか。
私は「聞く」力こそが大人に必要な力だと考えています。それは、一生懸命に耳と心を傾けて「声」を聴き、相手を理解することなど、大人として当然だからです。それよりも、聞こえている「声」から相手の今を知り、相手を受け容れることがずっと尊いことですし、うんと難しいことだからです。
「聞こえる」声から、聞かなければならないことを「聞く」ことは、耳と心を傾けるだけではできません。全身のあらゆる感覚を研ぎ澄ませ、心を開いておくことで「聞く」ことが実現するのです。
「お気に入りの曲を聴く」と言います。確かに、「聴」という漢字が、その曲に入れ込んで期待している気持ちを表現しています。「子どもの声を聴く」からも子どもを大事にしている姿が見えます。
しかし、「子どもの声を聞く」姿には、語りかけてくる子どもだけはなく、「みんなの輪の外からぽつんとつぶやいた子どもの声も聞こえているし、ちゃんと聞いているよ」という平安を感じませんか。「聴」は「聴く」のみで「聴こえる」にはなりません。「聞こえる」からこそ「聞く」がはじまります。「聞く」ことこそ愛することのはじまりなのです。
ただし、わたしの大好きな吉田拓郎さんの曲、「サマータイムブルースが聴こえる」は例外です(笑)
*この文章は長崎の仲間との研究会「番の会」の論集(第5集)に寄稿したものです。
白黒が物語るもの
花ちゃん校長先生のいい仕事
プロフェッショナル
紫陽花の歌
とつぜんの電話
6月に広島で授業をすることになった。「書くこと」の単元。
もう,今から楽しみで仕方がない。「考えるから書ける」,そんな授業をしてくる!
したいことなど何もない
「このおしゃべりは何を言いたいのだろう。」「こいつはおかしな考えの宣伝をする者らしい。」と言われていることは知っている。確かに僕はおしゃべりかもしれないし,伝統とは異なったことも語っているように見えるのかもしれない。
「あなたが説いているこの新しい考え方がどんなものか,知らせてもらえないか。」「奇妙なことをわたしたちに聞かせているが,それがどんな意味なのか知りたい。」とたずねてくれる人もいないわけではない。しかし,「教師の都合の発問はひかえましょう。」ということを聞くと,「それについては,いずれまた聞かせてもらうことにしよう。」ということになる。
僕たち教師が一つの大事なことを創り上げるなら。
そのためには,
子ども自らが自分の幸せを実現していくためにはどのような学ぶ力をつけなければならないかを知り,その実現のために僕たちが知恵と勇気を分かち合ってつながることだ。
「受け容れる」中で何かを飲み込まなければならないときもある。
「命を育て,守る」という大きな案内に従うことが大事なときもある。
僕がほんとうにやりたいことは,おしゃべりや宣伝ではない。
僕がやりたいことなど何もない。
自分のしたいように生きるなんて,なんとも滑稽だ。
すべての子どもが幸せに向かって学んでいくために,大人には何ができるのか。
そのことにはちょっとだけ関心はあるけど,今の僕に何かができるなんて思いもしない。
したいことをするより,望まれたことをするだけだ。
何かを声高らかに説きたいはずがない。
それは,一人でできるものではないんだから。
それは,みんなでつないでいくものなんだから。
その答えは,数年後の子どもの中にあるんだから。
鯖くさらかし岩
連休中のてがら
どこまでも黄金
さあ,はばたけいのち
五島福江から季節が届く
連休中の仕事
薫風
ゆだねる
雨の降る休みの日の午後。僕は古いCDを引っ張り出して,革張りの本を読んでいる。万年筆の文字,鉛筆の走り書き,赤鉛筆の線。何年も前の自分に会える。
背伸びしていた僕が居る。甘えていた自分が見える。とがっていた頃の僕の姿が見える。
そんなこと,何でもなかったように今がある。
“What has changed since then?”ラザロがたずねる。
“Let it be to me according to your word.”僕が答える。
どんぶらこ
各駅停車のことを「どんぶらこ」というのは佐賀の方言ですか。それともあの娘の感性あふれる表現ですか。
言い得て妙。きょうから使わせてもらいます。
さて、きょうは昼からどんぶらこで大村線。
学ぶとは分かち合うこと
万全の対策と十分な準備と愛情ある配慮を心がけ、鹿児島。自分だけが新年度のスタートを切るのではなく、仲間とみんなではじまりたい。始めるではなくはじまりたいんだ。僕の鞄には、2021年度の「みんなの入り口」が入っている。
中央駅に着いたら仲間が鞄を持ってくれる。まずは腹ごしらえ。この甘い豚は鹿児島ならではの味。
満腹したあと,桜島を眺めようと駐車場。粋な風景,名残の八重の桜の花弁,,,
ではなく,桜島からの迎えの灰。上着に積もる灰もきょうは許せる。とにかく,久しぶりのあくゆうたちとの勉強会だから。
きょうは船に乗ってうどうを平らげることはせず,この雄大な景色に満足して公民館に向かった。
俳人,浩の指導した中学校が学校賞に輝いた伊藤園の記念のペットボトル。
単元づくりの研究,そして《私の問い》を立てるワークショップ。みんなの声も弾む,なんとも言えない言い時間が続く。こんな日常の風景を誰もが待っていたはず。
神様,きょうも一日をありがとうございます。
セ・リーグ、開幕!
週末、鹿児島で
30年ぶりの喫茶店
長崎に学び合う日
いそいそと出かけてきた。きょうは長崎で新しい企画。「九州をめぐる学びの旅」の第1回。「長崎に学び合う日」だ。
諫早駅で仲間と待ち合わせ,駅前でちゃんぽんに満腹し,中町教会の坂を上ってセントヒル長崎へ。
懐かしい顔がそこにもここにも。
「久しぶり」「元気でしたか」「今,どこにおると?」
そんなに離れていたわけではないけれど,仲間と仲間のあいでには言葉があふれる。
時津町立時津東小学校の研究主任,竹中奈月さんの話題提供は魅力にあふれていた。学校全体でひとつのテーマに取り組むことの尊さが伝わってくる。そして,全員でやるからこその成果に心おどる。陳腐なことばだけど「すごい!」。
そのあとは,僕がコーディネートして「《私の問い》を立てる」ワークショップ。これまで,やりたいやりたいと思いながらも,実現してこなかったこのワークショップ。なぜ,今までやらなかったのかは明解。単なる形式になってはいけないから。「問いの立て方講座」ではない。子どもの姿を語りながらのLiveでなければこの熱さと大事さは共有できない。
問いを立てる(問いを立てさせる)ための細かなことを実感する時間となった。
ということで,圧巻の「問いの大全集」ができた。途中,中町のローソンまで走ってくれた佐賀の二人の仲間にも感謝(本当に走ったかどうかは???)。
手にした「問いの大全集」は今回の宝物だ。
マスクの着用と距離の確保はもちろんのこと,十分に手指消毒を施し,45分ごとの換気と休憩も万全。羽目を外すことなく実施すれば,僕たちは学び続けられるということも確認できた。
九州から集まってくれた仲間,ありがとう。来週は鹿児島です。今回のメンバーの連続参加も歓迎,南九州の仲間との再会も鶴首。
神様,ありがとうございます。僕にこのような一日をくださってありがとうございます。
ZETTAI
花は季節を忘れない
くじら雲
大学ではたらくようになった年の春。ゼミ通信をつくろうと思い立った。おそらく一生,この大学ではたらくだろうと思い,これからの歴史をつくる第一集として,通信の名前を「くじら雲」とした。小学校1年生の教科書に載っている作品だ。
その後,2期生には「ぽぽんた」,3期生には「かげおくり」,4期生は「ごん」,5期生は「山猫軒」,6期生は「クラムボン」というように続けていった。その大学を10年目で辞するまで僕のゼミは「文を綴ること」を丁寧に続けた。
その1期生。「くじら雲」のゼミ長から,突然の便りが届いた。なんと,自分の子どもが通う小学校に,「くじら雲」のメンバー,つまり,たつゼミ1期生の学友が赴任してきたらしい。
そこで,思い出してのメールだということだ。
みんなが元気であることがなによりうれしい。そして,みんなが幸せだったら,なおうれしい。
神様,縁ある人たちとの出あいをありがとうございます。
website
最近,このwebsiteのトップページの写真を頻繁に変更している。昨年までは,子どものグループ学習の様子を定番にしていたけれど,飽きた。
グループ学習に飽きたのではなく,同じことに飽きた。
だから,「教室をたずねる旅」にふさわしい写真を折々に変えていこうと思っている。
ということで,今回は,2000年前と変わらないわたしたちの「月」。
月を見上げるとき,僕たちは月に語りかけている。そのことも2000年前と同じはず。
仲間の活躍
少し紹介が遅くなったけれど,仲間の活躍がこんなところに。
長崎県時津町立時津東小学校の博報賞「奨励賞」授業の新聞記事。
そして,佐賀県鹿島市立明倫小学校,ナカエリ先生の指導の成果。
彩華さんのコンパクト・ライティングに拍手!ナカエリに拍手。
「学習課題」+《私の問い》+コンパクト・ライティング=主体的な学習のきっかけ,っていう手応えを感じはじめてる。
そしてそして,京都市立竹の里小学校や長崎県時津町立時津東小学校の研究紀要が素晴らしい!手元に一冊!
神様,こんなにすてきな仲間と出会わせてくださってありがとうございます。仲間とずっと仲間でいられますように。
そうそう,きょうは吉田拓郎さんの誕生日。おめでとうございます。75歳!
九州をめぐる学びの旅
敬虔な気持ち
じわる
じわる【じわ-る】(五段動)あとからじわじわくること
というような言葉を教えてくれる若い友達がいる。実際、使う勇気はないけど、使ってみたい気もする。
こんな言葉をすいすい使っている人を軽蔑する人もいるけど、僕はそうじゃない。使い手としては言葉の流行りには乗り遅れたいけど、聞き手としては「うんうん」とあいづちうちたい。
と、そんな若者の中で使いこなしている自分を想像しながら僕はじわってる。
って、使い方、あってるかな。ちはる先生、マツダ先生。
たぶん間違ってるやろなあ。
春,らんまん
旅たちの日に
きょうは佐賀大学の卒業式。たつゼミからの4名の若者が旅たつ。
いつもの道が輝いて見える。
ということで,そわそわしながら研究室にいた。本は開くけれど読みたいわけじゃない。廊下の足音の聞き分け,ゼミに来るときの4人の音を探す。
来た!
なんともはなやかだ。もう笑みがこぼれるこぼれる。そこで,卒業証書授与。
「えっ?」卒業証書は君たちがもらうもの。
それなのに,僕がもらってしまった。「ありがとう」ほんとうに。しかも,贈り物まで。
なんにもしてあげられなかったのに,とは思っていないけれど,もっともっとかかわり合いたかったのは本当。大きく旅立ちなさい。なりたい仕事に就くだけではなく,望まれた働きができるようになりなさい。生涯,最後の担任のたつとみせんせいはずっと応援しています。
桜って,やっぱりはなやかで艶やかで,そして悲しくって。この季節になくてはならない花。
神様,4人の学生に出会わせてくださってありがとうございます。
雨の日曜日
こんな日は,甲子園を思いながら窓ガラスに降る山桜の花弁をそのままにして雨のドライブ。行き先のないまま車を走らせるのがいい。国道沿いの床屋さんにでも行こうかな。
カーステレオは「明日があるさ」♪