ちょっとしたこと,綴っておこう。モレスキンのノートとモンブランの万年筆,時々たつログ。
たつログ
えとせとら
春の問い
さくばんの熱さを置いてきたかのような朝。桜島は春をたたえている。釣り船までがのんきそうに見える。
いいことありそう。
「少年の日の思い出」や春の問い
俳人 涼風(彼もまたあくゆうの悪友)の時を捉えた粋な句が迎えてくれる。
僕たちの自慢は授業で語り合うこと。ホンモノだ。
何処に行ってもそれぞれの「教室」が迎えてくれる。これをあたりまえと思っちゃいけない。
教室では中学1年生が学び回る。
はじき出されたあくゆうが廊下で語る。いい風景だ。
あくゆうの会は足掛け5年。その軌跡は間違いない。この軌跡の中に今年がある。この1年。僕たちは跳ねた。
この言葉だった。この言葉に笑いながら、だけど心に決めた日があった。
とにかくやる。つべこべ言わずにやる。
きょうの教室にそっと貼ってあったこの言葉に僕たちの足跡を見た。
やっぽり、いいことあった。いい会だ。
と、帰り際、これまたあくゆうの悪友の粗相野くんからのお土産。種子島の鉄砲鍛冶屋の匠が作った鋏。一生、大事にするよ。
神様、きょうも一日ありがとうございます。
集うということ
若い連中が好き
仕事も終わったし、さあ
比叡山からのやさしい風は明徳の学び舎へ
きょうの京都は春の日差し。比叡おろしを期待していたんだけど、やはり暖かいのはうれしい。ほっと山を見上げる。
これから友人の学校の研究発表会。期待に応えられる講演にはならないかもしれないけれど、語りかけてくる。
さあ,京都市立明徳小学校の研究発表会。こんなに多くの教室の授業を一気に公開できる学校はそんなに多くない。学級をまたいで学年で取り組む総合的な学習の時間。学年をまたいで取り組む国語や道徳の授業はどれも教師たちの熱が伝わるものだった。ひとこと,「丁寧な授業」だった。授業前にまとめられた「主体的・社会的な学びを通して,言葉の力を育成し,深く学ぶために」と題して12枚にまとめられた「授業記録(案)」は圧巻だ。研究主任の地道な取り組みはもちろんのこと,それを影で支えている教頭先生,そして,職員室の力がなければできる仕事ではない。
教室の移動に付き添ってくれる校長の背中がそれを物語っている。同級生の校長に「よかったなあ」と声をかけるのは失礼な気もするし,「よくやったなあ」はさらにえらそうだし,「いい教員と働けてうらやましい」と伝えた。適切なことばが見つからないことがかえってうれしいのはなぜだろう。陳腐なことばを贈りたくない。
昨年に続き,もちろん原稿をもたないスタイルの校長挨拶もよかった。京都の学校史を2分でまとめ,本校の沿革を1分で語り,さりげない言葉の中に職員室の力を称えているこの校長は僕の友であり,自慢の男だ。
注文をつけるとすれば,講師紹介が下手なこと。「きょうの講師の達富洋二先生は,,,,」なんて言うなよ。と思いつつ,舞台を挟んで右と左に座っている距離を不思議に思った。学生時代を知り尽くしているだけに。
僕の講演は,国語にとらわれない「言語能力」。算数科や社会科の教科書を取り扱って「ことばの力」を育てることについて語りかけた。結果はどうだったろう。
体育館を出るまで続いた拍手を僕はうれしくも,熱くも,尊くも,そして,それに慣れちゃいけないと思った。
ありがとう,雅文校長先生。
大学散歩
自分のことばで語ることが大事
50代のしごと
お正月以来の関西。きょうは北大阪の八重の会の勉強会。
昨日の九州小学校国語教育研究大会でも仲間が素晴らしい授業したと聞いた。「子どもが学ぶ」、「子どもが考える」ということを丁寧にしさえすればいい。ただそれだけのこと。
八重の会の仲間とそのことをちゃんと確かめてくる。
博多駅にななつ星。なんだかいい予感。
約4時間。たっぷりとっぷり単元学習に浸った。今回はこじんまりした人数だったからこそ、余計に深い話し合えたという実感がある。みんなもそうだったと思う。次は2月。京都の研究会と合同開催。
九州に帰る前に大学時代の友人とのひととき。帰りの新幹線の雪が心配だったけれど、(ほぼ)同い年というのは妙な安心感がある。あの時の呼び名のままで語り合うというのはいいもんだ。途中のトイレの鏡で自分の顔を見なけりゃ気分は20代のまま。
自分の身体の不具合と病院と薬と親の話はしないでおこう!と言ったにもかかわらず血液の数値とか人間ドックのお医者のみたてとか、景気の悪い話も気にはなる。あいつは元気だとか、あいつは行方知れずだとか、イギリスに居るとか、何度目の結婚だとかもう逝ったとか。これはこれで盛り上がるから仕方ない。
元気でな。お前もな。無理したらあかんよ。洋もな。徳こそ。雅文はちょっとだけ若いし安心やな。しっかりな。
京都の夜に雪が降る。明日からまた真っ白の日常がはじまる。
こんな日は
教室にいたくて
熊本、三日目。熟してきた単元。見えてきた子どもの問い。届いてきた学びの声。
さあ、三日目。
2時間目から6時間目まで、5時間の授業を見せてもらった。正直、こんなにうれしいことはない。学級をもっているような気にさえなってしまう。僕の小さな手帳には教室の事実がぎっしりと綴られている。
「考えさせないとあかん」。これが今回の教室研究のキーワード。昨年は「問いを立てさせないとあかん」だった。
今年。問いを立てる子どもの姿が教室にあった。この教室に「私の問い」は日常のものになっている。2年生の教室の36人の「私の問い」。申し分ない。グループでのやりとりに「問いの解決」「そのための見通し」「解決の順序」「よく似た問い」「新しい問い」などの言葉が自然と聞こえる。
間違いなく「学びかたを学んできた2年間」だった。これだけでも十分な研究の成果なんだろうけど、3人の教師たちのひたむきな研究はさらに先を丁寧に見ている。
「問いとその解決策」が彼らの先にある。
単なるコンテンツのやりとりだけでは終わらない。コンピテンシーベースの意味を忘れない。子どもが学ぶとはどういうことか。
放課後の単元学習研究会は熱い。そして授業を丁寧に言語化していくことが尊い。
本当にいい気分だ。僕も学び浸った自信がある。さわやかな気分だ。彼らと学び通した自信がある。期待でいっぱいだ。彼らには明後日がある。
かけがえのない3日間をありがとう。明日の朝、きっと、僕はさみしいはず。
熊本、ふつかめ
窓の向こうは朝。ちゃんと夜が明けている。神さまきょうもありがとうございます。
やっぱり子どもに考えさせないとあかん。子どもに考えさせてない授業が多すぎる。考えさせることができる機会を逃しすぎてる。もったいない。やっぱり教師の都合。子どもに考えさせるのが授業。
これは昨日の研究会での話題。それを今朝からすぐにやってみるのが「明後日の会」。
僕も学んでる。彼らの教室の談話に吸い寄せられてる。
では、ふつかめのはじまり。
授業は、妙にまとめようとしない三人の単元は勢いがある。立ち止まらなければならないところは、見事に時間をかけ、子どもが動き始めたらその姿を見守り、そして子どもの声を待っている。
時々、聞こえる「たずねていいですか、達富先生、」に僕も反応する。うれしい瞬間。
お昼はやっぱりいつものところ。きょうは釜揚げ。
単元は単元として成長する。子どもが単元を大きくしていく。だからこそ、何を学ぶ単元なのかをきちんと理解させることが大事だ。
明日もこの続きにふれられることをあたりまえに思ってはいけない。教室で生きることに感謝しかない。
神様、きょうもいちにちありがとうございます。
じゃあ、熊本で
熊本で合宿。授業ざんまい。教室研究に浸る三日間。今年もはじまる、熊本合宿。
九州新幹線の少しの遅れのため10時10分過ぎに熊本着。友人に送ってもらって附小。途中、車窓の藤崎台球場。夏が待ち遠しい。
午前のミゾの授業。本当に素晴らしい。子どもの学びに反応できる教師。頼もしい。僕の若い頃とはレベルが違う。間違いなく腕を上げてる。
お昼はいつもの麺処。間違いなく日本でいちばん美味いうどん屋さん。
まんぷく。幸せ。昼からの活力。ありがとう、島村さん。
午後は好敵手、中尾の授業。
中尾もますます味を深めた。安心、そして安定感のある展開。同時に、中尾らしい突拍子もない展開。本物を突き詰めようとしているからこその本質的な指導。素晴らしい!何より、子どもの声に対応できている。
夕方からの濃い研究会を終え、食事を済ませて帰ってきたいつもの宿。
部屋の窓の向こうにお城が美しく迎えてくれている。
熊本でお城にいちばん近いホテル。
神様、きょうも一日ありがとうございます。
力、出し切る朝
夕景、きょうも
東シナ海はいつまでもやさしくて
そうそう,きょうのお昼は日本でいちばん美味しい(と僕が決めた)おそば。椎茸の出汁が抜群。お肉の脂が絶妙。麺の絡みが巧み。日本一のおそばを食べているとき,錦織君が勝った。
ごちそうさまのあとは仲間のいる時津東へ。迎えてくれる笑顔とマイスリッパとお土産。何から何まで心地いい。今年2回目,あと22回は間違いなくって感じ。
そのあとは,きょうも東シナ海。
神様,ありがとうございます。そのことばをいつまでもいつまでもにぎりしめていたい東シナ海。
夕方からは西海東。20名の仲間は四角いストーブよりも熱い。2時間なんて,短い短い。「またね。」のことばがお愛想ではないことをみんな感じている。
ありがとう,ほんださん,花ちゃん,たかおさん,さかもとっ!
神様,きょうも一日,ありがとうございました。
ちゃんと生きなきゃ
はやくおいでよ、
きょうはPENNY LANEで
昨日は鹿児島、明日は長崎。きょうは自宅。PENNY LANE。
神様、きょうもきれいな朝をありがとうございます。
鹿児島、行ってきた。
朝からさつまの湯をいただいた。雲の向こうにあるはずの桜島に語りかけた。「また来るし、」。
湯上りは部屋の机で葉書を書く。ひとり旅ではいつものこと。きょうはおととい届いた二枚の葉書の返信と缶詰の会をお世話してくださったホテルのMさんへのお礼の一筆と何気ない一葉と。
そのあとは南日本新聞に目を通しての単元づくり。旅先の地方紙を材料に、自宅に戻るまでに一つの単元を作る、と決めて何年になるだろう。きょうも「ええこと思いついた!」とにんまり。
昼の予定までに余裕があるので、行けるところまで鈍行で北上することにした。
こんなものだ。鹿児島の旅。全然、特別なことじゃない。ちょっと仲間に会いに来ただけって感じ。ちゃんと仲間もいたし。語ったし飲んだし騒いだし。
もちろん単元学習における教室談話の研究はしっかりしてるんだけど。
鹿児島、行ってくるわ。
ちょっと、鹿児島行ってくるわ。ほな。
すうっと、息を
缶詰ロス
まぼろし、夢、陽炎、、、
なんでもいいから1月6日をもう一回やりたい。
土佐からも
人生最高の日は缶詰にしよう
僕の好きな長崎駅。
駅前の広場。NHKイブニング長崎でなじみ深い。
「白いかもめ」で友がやってくる。長崎に友が集まってくる。長崎で迎えてくれる友がいる。仲間っていいもんだ。
こんなにいい天気。最高の日曜日になる予感。
鹿児島の浪士が街中を歩いている。肥前の仲間がたむろしている。九州の各地から長崎に集う日曜日。僕はもう最高の気持ちに包まれている。
会場はホテルの会議室「グラバー」。八角形の部屋はぐるりと窓ガラス。胸の高鳴りを互いに感じる。
手づくりのカードを手に「はじめまして」「久しぶり!」「お名前はよく存じています」「あなたが壮さんですか?」があふれる。
話題提供は各県から小学校と中学校で6本。15分間の内容とは思えない質の高さ。
それぞれの話題についてのグループ協議の深さもこれまた終えるのがもったいないくらい。途中に添える僕のコメントがなんと拙いことか。
17時。勉強会おしまい。
「九州で九州の子どもたちの声を聞きながら学ぶことを続けていきましょう。」僕はそう語るのが精一杯だった。ほんとうはもっともっと気の利いたことを感動的に話したかったんだけど、この思いを伝える語彙や表現力が僕にはなかった。
だけど、そのあとのグラバーの部屋の拍手の響きは忘れられない。40名ほどの80の掌が奏でる拍手という響きがこんなに美しいなんて。僕からはありがとうの気持ちや学び切ったという感動を表すふさわしい言葉を届けられなかったけれど、みんなはちゃんと受けとめ共有してくれていたんだ。そう思うと、そのことがさらにうれしくって、この日曜日を缶詰にしてポケットに入れておきたくなる。
ということで、がぶ飲み。「グラバー」の次は「紫陽花」。こんなことさえたまらない演出に感じてしまう。
いちばん年の離れた友人の乾杯。そのあとは、県をまたいで語る。
坂本龍馬と高杉晋作?
薩摩の志士の終電を肥前が見送る。
時を忘れて語る。
どうせ力などないんだからって思っていた頃が恥ずかしい。だってみんなといればこんなに楽しいんだから。こんなことができるんだから。
「ちょっとくらい自分にも何かできそう!」そんな気にさせてくれるみんなにありがとうを届けたいなあ。缶詰と缶切り持って、打ち上げのがぶ飲みをしよう!
今年もよい年になりますように
さて、年の瀬
いちごさん
みんなみんな
聖なる夜に祝福を
語り合うこと
佐賀の夜はゆっくり暮れて
はこべらの花が咲いたよ
時津町の時津小学校を目指して天草からフェリーとバスを乗り継ぐ。
この切符が旅情を深める。機械を通す改札にはない柔らかさにあふれている。途中,小浜で乗り継ぐ。
諫早に着くまでどれくらいの時間がかかったか覚えていないけれど,疲労感はまったくなし。はやる気持ちで長与駅下車。
さて,数分後には6年生の教室に立っていた。小学生の単元学習の中に見られるグループ談話の深まりを省察しながら,子どもたちの語彙使用の傾向をとらえる。
見栄えのいい45分の授業をまとめるのは難しくはないけれど,きょうははこべらの仲間に「単元」と「語彙」を知ってもらいたいからあえて着飾らない授業。参観してくださったかたがどのように授業を見たかは分からないけれど,自分としては会心の単元。
子どもをやすく見積もらない。子どもに恥をかかせない。子どもをできるようにする。きょうだけ教えるのではない。言葉のちからをつける。と,いろいろ,さまざま,かぞえきれないことをめぐらせながら,子どもと言葉の交換としての授業をした。
また,この教室に立ちたい。今はそれだけ。
さて,夜は駅前でがぶ飲み。みんな仲間。はこべらの花が咲きました。
あれ?花ちゃんが僕の列車に乗ってる?
あまくさ 国語教室の会
研修室は畳敷き。本気という言葉しか見あたらない。足のしびれも少しばかりの窮屈さも感じない。子どもが学ぶ教室を見つめる本気の教師の姿はそれだけで力強い。
天草で学びはじめて5回。あまくさ国語教室の会も落ち着いてきたようだ。誰もが名前で呼び合えるようになった。今夜は新しく若い先生が2名。そのあとの年忘れの会も和やかだった。
とその時、赤城ィがくれたお土産。
天草銘菓と言えば「赤巻き」。これは牛深高校発案の「青春巻き」。「あおまき」と読む。牛深産のあおさがお餅に練り込まれていて、口に入れたとたん海の香りがする。美味しい。
お酒のあと、寅さんが隣にいそうな感じの部屋に戻ってから熱いお茶で二つめをいただいた。
やっぱり美味い。あまくさ。人がこの味を育てている。
なんどめかの忘年会
子どもの学ぶ姿、教師の教える力
朝から虹。なんだかいい予感。
二人の教師の授業を見た。単元をつくることに本気で立ち向かったことが分かる教室だった。
キャラクターで子どもの心をつかむのはいかがなものかという考えもあるかもしれない。確かにそれだけでは単元は成り立たない。しかしジョリーの単元はそんなもんじゃない。キャラクターに助けられたのように見えるかもしれないが、実際にキャラクターが登場するのは授業の前後のほんの数分、子どものたちの学ぶ姿にキャラクターなど不要だ。ジョリーが演じる課題提示を子どもたちはまともに受け止め、自らの活動を進めている。
そうだ、その通りだ。僕はこのジョリーの教える力にただただ引き込まれている。
5年生の子どものみなぎる力に流れを与えたのはチハル。「おれたち、できたもん」という少しばかりの自慢と、「私たちできそうな気がする」という芽生え始めた自信を作ったのはこれまでの単元のつながり。許さない厳しさは子どもへの否定ではない。曲げない一貫性は頑固だからじゃない。できないことをできるように、やりたいことが叶うように、チハルさんの信念は分かりやすい。
そうだ、その通りだ。僕はこのチハルの教える力にいよいよ魅了されている。
この年齢だった頃の僕を遥かに越している二人。
さあ、もっとやろう。
ということで、恒例の「がぶ飲み」の会。一足先に店を出る僕も一緒に記念撮影。僕がJRに乗ってから届いた写真は2枚。タイトルは「間違い探し」。
こんな子ども心が魅力的な単元を創るセンスにつながっているのは間違いない。
神様、きょうも一日をありがとうございました。
朝が来る
365日、朝の来ない日はないんだから朝が来たからといってときめいてばかりいられないけど、やっぱり、朝は神様ありがとうございます、からはじめたい。
神様、きょうも一日をありがとうございます。
きょうはJRで東へ。朝の特急の中に届いた壮からの便り。年明けの予定。すでにJRの切符も手にしたとのこと。何気ない便りから元気をもらう。壮のように人にあたたかさとやわらかさを授けられる人になりたい。
博多乗り換え。いつもののぞみ20号の9号車のいつもの窓際。そろそろ海の底のトンネルを走る。
この窓からの黒い景色を見るのがいつもの僕のやり方。何が見えるわけではない。窓に映るのは自分の顔や通路向こうに座るスーツ姿。
見えるはずのない馬関を泳ぐ魚の群れを思いながら、トンネルを出た時に真っ先に見える右手の低い山を待つ。アポロチョコのような形をしたこの低山はその周りの山々にある鉄塔をもたない。周辺の小山が見事に電線でつながれている中、アポロだけはその中央でやけにのんきそうにしている。それがいい。
さて、きょうもアポロを見届けたことだし、鞄に入れてきた全集の第7巻の続きでも読もうかな。
ということで京都に到着。
さあ,こんな日は
神様,きょうも朝を迎えました。ありがとうございます。
僕は朝の運転中,お祈りの言葉を口にする。それほど長いものではないが静かな気持ちになれる。右手に大村湾が見え出すと「与えることで与えられ」のフレーズになり,やがてそれは終わる。
今朝は心が曇っていたせいか言葉が湿っぽかった。そんなときは,もう一度と息を吸ってからはじめる。
こんな日は自分の唇からこぼれる言葉にさえ悲しくなる。そんなとき,僕は遠い空を眺めることにしている。光る海を見ることにしている。
帰り道。目を細めたような,笑った口のようなお月さん。神様,きょうも一日をありがとうございます。
こんな夜は,フーテンの寅さんのメロディで替え歌を歌いながら寄り道。この自作の替え歌。我ながら自分の人生を上手く綴れたもんだと気に入ってる。
♪
曲がったことを許せぬために
無礼な奴だとたたかれる
何処吹く風と旅に出るけれど
話しかけますお月様
道草食うのがおれの道
飲んで語って
飲んで語って友を待つ
友を待つ
♪
教育実習というかけがけのない時間
教師たち
きょうは佐賀大学での教員免許状更新講習。毎年のことだけど,僕はこの講習が嫌いではない,というより好きだ。
お金を払って,日曜日の朝から夕方までを大学キャンパスで過ごす教師達の顔はどれも学生時代に戻っている。僕よりも年上はほとんどいなくなったけれど,だれもがうんと若返る一日だ。
きょうもそんなヤングたちと熱い一日を過ごした。集めた答案はどれもみごとなできばえで,一日の充実がそこに溢れている。
講習が終わってからも談話が続く。最後のヤングと話し終えたのは講習が終わってから小一時間後だ。
さあ,来週。こんどは中学校に勤めるヤングたちと会える。
そんな日曜日。前大学のゼミ生からの写真付きの便り。まだまだ正真正銘のヤングだけど,そのヤングが大きく伸びようとしているのが目に浮かぶ。そうなんだ。僕たちは教室の中で育つんだ。その教室と佐賀大学とがつながっていればいいな。きょうの教員免許状更新講習のように。そして,僕が続けている「7時間目の国語教室」のように。
その便り。僕にもまったく同じような経験がある。こうして教師は大きくなっていくんだ。
・・・・・
今年は音楽会で1年生が歌う曲のピアノを弾かないといけなくて,,,
当日までは弾
弾いて止まって,弾いて止まってを何度も繰り返して
その後の合奏の指揮もたぶん顔が引きつっていたでしょう。
全体の舞台係だったのでその日は子どもたちに会えず,謝れなかった
落ち込んで放課後教室に行ったら、黒板にメッセージがありました
6年目にして少しずつ余裕が生まれ,この仕事が楽しくなってきま
・・・・・
よかったな,みき先生!
仕事
このままじゃいかんぜよ!
赤いタオル
いいお天気の日は遠回りをして
風は誰にも吹いている
はこべらの会。間違いなく僕たちの距離は近く、目指すところも明瞭になってきている。その求心力は一人一人の熱い思いだ。
だってこんな迎えられかたはじめてだもん。
僕は、20歳の頃、校内研修が好きではなかった。それは研究テーマを理解できなかったことや、教育委員会や大学教授の指導助言が僕の頭には分からなかったことも原因だと思うけど、それ以上に、「校内研修がみんなの楽しみな時間」に思えなかったからだと思う。
今夜、「校内研修を楽しみな時間にしたいです」という竹ちゃんの言葉と、「本気の話をしたい」という時ちゃんの声を聞いた。
ほんとその通りだよなあ、と僕はこの25年を振り返ってる。だから、やろう。そんな気持ちに溢れる長崎の夜だった。花ちゃん、本気でやるぞ!
途中、駆けつけてくれたキリにもありがとう。
そして、この縁をつないでくださった校長先生に何よりもありがとうございます!です。いい夜。いい時間。かけがえのない友。この尊い月曜日。
大村線のお見送りも最高!少し恥ずかしかったけれど。
神様、きょうも一日をありがとうございました^ ^。
第95回 指月会 はゆっくりとはじまりました
同窓会という気分だけではないんだけれど、歴代の達富ゼミが集まった第95回の指月会。2期生は淡路島から、3期生は神戸から、4期生は甲賀から。もちろん、ホームグランド京都からも。
単元学習を丁寧に謙虚に学ぼうとするこの会は着実に力をつけてきている。きょうの瀧川実践はこの5年間の集大成ともいえる厚みのある単元だった。もちろん課題もある。まずは、語彙。そして、深める対話、自己の考えの形成。
ただ、他の初見作品を使って行った適用題は素晴らしかった。彼は「学びの自覚化」と称し、適用題に取り組んでいる。市販テストに頼らない評価観は「僕が作った単元ですから、僕の評価でやります。」と言い切った言葉に表れている。
もちろん日が落ちたあとは京野菜でがぶ飲み。杯を重ねる。語り合いに興じる。夜が深くなる。
さあ、明日の月曜日、子どもに見せる顔。やっぱり教師は背を伸ばして悠然としているほうがいい。大きいほうがいい。そしてなりより、誠実で謙虚でなければならない。
お月さまを指差す指はひとつ。教師の仕事もひとつ。ただひとつ。子どもを一人で生きていけるようにすること。そのために、国語教室ではことばの力をつけること。
神様、きょうも一日をありがとうございます。
賢治の学校
きょうは久しぶりの指月会。達富ゼミ3期生の瀧川賢治が仕事をしている小学校で開催。達富の名札がここにも。しかも児童の靴箱に。
賢治の教室は10年以上経っても変わらない彩りをもっている。信念に支えられた学級経営が連続しているということだ。
辛い時期があったことも知ってる。いつもいつも順調でなかったことも分かってる。しかし信念がそれらを今につなげている。
彼は僕のことを師匠と呼んでくれる。僕は決して匠ではないけれど、この愚直な男を見守っているということについては間違いなく近い距離にいる。
酒の店に行く途中。僕の鞄を代わりに持ってくれる姿を見ると、あの時と変わらんなあ、と思いつつ、少しばかりは地に足がついてきたようにも思う。なあ、賢治。誇り高く生きていかなあかんよ。
師走の日差しは暖かくて
旅の宿
今夜は何処に笈をおろして
竜飛崎からの帰りのバス。朝いちばんに発つ。
遠望。かなたは室蘭か函館か。
バスは岬を走る。左に下北を眺め、右に紫陽花の道をゆく。この下をトンネルが走り海峡を渡っているのかと思うと、勇敢な男たちの偉業を誇らしく思うとともに、青函連絡船への旅情に沁みた思いに寂しさも重なる。
午前の仕事のことはもちろん気にしてかかるんだけど、この先の旅の空にも心が躍る。
今夜は何処に笈をおろそうかとバスの運転手さんにたずねてみたりするのも旅の醍醐味。
さて、仕事。
仕事を終えてから、絞り込んだ行き先をひとつに決める。いくつか行きたいところはいくつもあったんだけど、やはりたどり着いたのはここ。
憧れの地に来た僕はそれだけで大満足。夜半の雪にさらに満足。
ごらんあれが竜飛崎
午前中は本当に大きな仕事。考えながら話しながら、また考える。ふうっとひと息ついたら、午前が終わっていた。
青森での仕事を終え、少し足を伸ばして津軽線。
蟹田を通って、
三厩で降りる。30年ほど前に親友の雅文と来た地。
町営バスはもちろん貸し切り。
転がり落ちるような断崖に秋の紫陽花が咲いているのは今も変わらない。
上野駅からの急行八甲田、そしてホームを走って青函連絡船。懐かしい記憶が鮮明によみがえる。あの頃、間違いなく僕は若かったし、歪に輝いていた。信じることと疑うこと、許すことと諦めること、さまざまな葛藤の中を美しく生きていたはずだ。
僻地ばかりを選んで受験した教員採用試験。青森も合格し、勤務地も決まっていた。縁を結ぶことはなかったけれど、僕の未完成な青春の1ページは「青森の章」に綴られている。
その頃にはなかった歌謡碑をたずねた。
誰が押しても、何度押しても、いつ押しても、赤いボタンを押すと津軽海峡冬景色が流れる。しかも2番から。「こんなに荒れた天候の中歌い続ける石川さんもたいへんだろう。」と思いつつ、「さ〜よなら〜あなた〜♪わたしは〜か〜え〜ります〜♪」と口ずさみながら、僕はカバンを下げて歩いてる。大切な竜飛崎をゆっくりと確かめている。ゆっくりゆっくり確かめている。あの頃の仲間の顔を一人一人思い浮かべながら、名前をフルネームで呼びながら。
京都、紅葉のひかりの下で
仲間からの便り
高弟、壮からの便りを読んでいた。そりゃあそうだ。
「冬は語らう。」だ。だから、壮。早く語らおう!
花ちゃんから届いた便り。
冬は、温めるです。旧交を温める、
さすが花ちゃん。さっそく温めんば!来週,駅前で待っとるけん,早よ来んばよ。
秋を楽しむには
かけたることも
秋はどこまでも色づいて
男たちの夜
ひとやすみ,ひとやすみ
第34回 長崎県小学校国語教育研究大会 西海・西彼大会 力のかぎり
「みんなで勝つのが好きなんや」という僕のモットーを改める気はないけれど,しみじみ感じ入ったのは「みんなでやりきることが美しい」ということ,そして,「いい仕事をしたことの誇らしさはみんなのもの」ということ。仲間を強く感じたこの「第34回 長崎県小学校国語教育研究大会 西海・西彼大会」だった。ひとりきりより、仲間がいい。
ほとばしるこの思いは,そんな簡単には思い出なんかにはならないぞ。
教室の中に,教師たちの本気の仕事が見える。これまでの軌跡が見える。こんな教室で学べる子どもをうらやましくも思うが,こんな教師たちと仲間でいられることが心地よく,それは僕の大きな誇りでもある。
授業後の子どもたちは,期待を遙かに超える力を発揮し,優劣のかなたに学んでいた。笑顔がそれを物語っている。
そして,
教師たちもまた,誇り高く生きてきた自分たちのこれまでに学び浸っていた。
コラソンホテルでの打ち上げは,お疲れさま会なんかじゃない。西海・西彼の明日への打ち上げだ。はじまりのはじまりだ。
仲間たち,ありがとう。ありがとうございました。まだまだ,これから。さあ,これからがはじまりはじまり。
神様きょうも見つめてくださってありがとうございます。
明日はきょうの続き
酒の友
日曜日は思いっきり遊ぶ!
ぐりとぐらの秋
若いという美しさ
生徒の力,生徒への力
長崎銅座
五島列島で働いていたとき、長崎市内への出張の夜は銅座か思案橋だった。30年前とはずいぶん変わったけれど、今でもこの夜の帳が下りるころの細い道が好きだ。きょうは「飲み友」と細い道で待ち合わせ。
それぞれが、それぞれの職場での仕事を片付け、それぞれに集まってくる。もうそれだけで顔が緩んでしまう。
「バスで向かいます。」のメールを受け取ったのは左手に有明が見え出した頃。日が落ち、普賢岳も見えないけれど、僕はこの長崎線に身を任せるのが好きだ。
花ちゃん、きょうはごめんね。壮、元気にしよるとかあ?中尾、丁寧に授業しとるか?宏ちゃん、侍ジャパン楽しんでるか?赤城ィ、あの焼き鳥屋に連れてってちょうだい!
みんな飲み友であり、同志であり、ライバル。仲間うちって、いい!
武雄、夕景
九州、東の果て
できてきたぞ、うれしいぞ、
天草の友
さいごのかばん
幼稚園に通っていたときのたすきにかける紺と緑のチェックのかばん。
年長のときに兄貴が作ってくれた箱のかばん。
ランドセルには母さんが名前を書いてくれた。
野球部の黒くて大きなかばんは底の革のところに父がきりで「洋」と彫ってくれた。
高校の時は WALK ABOUT のデイパック。
学生時代は風呂敷。
教師として働き始めてからは30年で9つ。一澤帆布店のトートバッグ。芹沢銈介の丈夫な風呂敷。KENZOの黒鞄(これは賢治に譲った)。吉田カバンの茶色の手提げ。COACHの茶色の肩から下げられるものが大小2つとファスナー付きのトートバッグはまだ現役。COACHの黒は息子が使ってる。兄貴のスペイン土産の一点物は土日用。
そして、10月31日。おそらく人生最後になる革の鞄の完成。久留米の革職人にお願いしたオリジナル。一点物。モデルは寅さんのかばん。
11月からはこれを下げて労働の旅に出るつもり。
語彙の授業
きょうは熊本大学教育学部附属小学校6年生の教室で少しだけ授業をさせてもらった。普段の担任の先生のご指導の積み重ねがあるからこそなのだが、本当に気持ちのいい時間だった。
子どもってこんなに食いついてくるんだ。子どもの目ってこんなに透き通ってるんだ。子どもの声ってこんなに柔らかいんだ。
僕はもっと長くこの教室に居たいと思った。
げたんは
みんなで勝つのが好きなんや
一人二人の授業名人がいるより、とにかくみんなが丁寧に単元を進める学校のほうがずっと強い。研究会もおんなじ。数名のがんばり屋さんが引っ張って行くんじゃなくて、みんなが同じように続けるほうが美しい。
「ぼくはみんなで勝つのが好きなんや。」そんなことをしみじみ感じたきょうの八重の会。
強くなりつつあるともだちとの年忘れの会は12月14日。
この日までお互いに美しくあり続けよう。誇り高く生きていよう。
帰り道
語ることより耳を傾けること
南国土佐をゆく
日本晴れ,友とおやつ
朝から高い空。日本晴れ。散歩もついつい遠回り。
お昼前に友が来た。庭でハンバーガーでも作って食べたいところだけど,きょうは勉強。何枚ものプリントを手繰りながら,話す内容も熱を帯びてきた。中学校の単元づくりは本当に楽しい。語りたいことばかりだ。
ということで,休憩。我が家の庭のレモングラスのフレッシュハーブティーにお土産にもらったチーズタルト。本当に美味しい。
絶妙の味に,頭もリフレッシュ。二人の年齢を足したら僕と同じくらいになるのかな,と思いながらの真剣勝負。たずねられる内容に感心。本当に教室のことを考えているんだなあとこれまた感心。というより,あこがれ。
熱さもおやつも,ありがと。またおいで。
佐賀大の森,寒露
台風一過
やぐらしかあ!花ちゃん
長崎。まずは万年筆病院へ。
あいにくのお休み。ちょっと修理してほしいモンブランのペン先があったんだけど,次にしよう。おくんち前の長崎の空気にふれられただけでももうけものだ。
待ち合わせの時間よりも早くに駅前に着いた。いつもはニュースの背景に見える山もきょうは近い。風雲前夜のせいか,すこし荒々しい空に叱られているよう。飲むにはまだ早すぎるかも。
と,思ったのもつかのま。向こうで手を振る我が友。その笑顔に会えなかった乾いた1ヶ月間を忘れさせるやわらかな笑顔。
そのあとは怒濤の時間。言葉が途切れることはない。笑いが重なるからなおのこと。
気がつけば終電なんかとうの昔。どがんして帰るっか,と思いつつ「また来っけん。」の言葉しか出てこない。
この駅前広場。夕方のニュースで写るところ。僕の大好きな場所でこうしてみんなでセルフィー。なんて気持ちいいんだろう。
で,もう一枚!
あれ,僕が写ってないやん!
花ちゃん!やぐらしかって!
教室の事実
津軽海峡から
あくゆう,健在
出迎えてくれたボードに心弾む。
その横で授業を待つ友の姿に心和む。決して「廊下に立ってなさい!」と僕が指示したわけではない。
小さな学級の大きな学びをつくる丁寧な授業に,心洗われる。
やっぱり授業。やっぱり生徒。そしてやっぱり仲間。この連中との学びはたからものだ。
年休をとって集まるあくゆう。授業と協議が終わったら部活に戻るあくゆう。こんなあくゆうの考え方と行動力に心打たれない者はいないだろう。
僕はあくゆうが部活から戻るまで,少し贅沢に温泉に身を預け,心落ち着ける。
遅めの夕飯。あくゆうの言葉に昼間の生徒の名前が混じる。いや,よくそこまで記憶しているもんだと感心するくらい生徒の名前と姿と思考が再現される。見事だ。あくゆうたちは教室を見て,教室を語り,教室に生きている証拠だ。
いい連中だ。いい笑顔だ。いい時間だ。
あくなき優劣のかなたを!という意味のあくゆうの会。その名前の意味を覚えている奴はきっと一人もいない。間違いなく「あくゆう」であり「悪友」である。
同じように生きてきた、はず
自分が特別な生き方をしてきたとは思わないけれど、自分とよく似た生き方をしてきた奴と出会ったことはない。なかった,そう,この人に会うまでは。
ここにきて「なんでや?」と思うほど「楽しんで生きていく考え方」というか,人生観というか,センスが重なる男が現れた。「男」という言い方は失礼だ。年上だから。だけど、なんとも言えない空気の共有がある。ここまで重なるか?という感じだ。
安心感、安堵感、安定感。
僕は鳥栖のこの男とこの焼き鳥屋で焼酎を飲むと安らかな気持ちに包まれる。
よく似た生き方をしてくると串を手にする仕草や、焼酎が空になるタイミングまで似てくるようだ。
さあ,明日は天草。明後日は鹿児島。壮,元気にしてるかあ!
いいもの届いた
きょうからかぼす,あしたもかぼす
新しい《これから》は,同じじゃないことから
9月22日,福岡教育大学での九州国語教育学会。僕は毎年この学会での発表を自分に課している。ここで発表することは,この1年間に訪ねた教室への恩返しでもある。子どもたちの学び,先生たちの工夫から「教室の事実」を考えることが僕の仕事。「教室の事実」を言語化することが生涯の仕事だと決めている。だから続ける。
さて,今年。きょうも多くの学問にふれ,多くの指摘に学び,多くの展望と反省に包まれた。今日までの日本の国語教育を支えてきた研究のスタイルがこの学会を形作り,その流れがこれからを導いていくに違いない。この安定感が教育を揺るぎないものにしているのは事実である。
しかし,これまでのスタイルだけが研究の方法ではないような気がする。
《これから》を記述するとき,「これまでと同じスタイル」とともに,「ちょっとだけ同じでないスタイル」でもやってみたら,《これから》がぐんと多様なものに見えたり,魅力的なものになったり,違和感を覚えるようなことも受け入れられるようになったり,自分が変われたりするような気がする。はじめは少しの不安定感があるかもしれないけれど,みんなのことや自分のことを尊重し,多様性を愛おしく思えるようになるに違いない。
ちょっとだけ同じでないことがたくさんあつまれば,これまで遠くだと思っていたことが、思いのほか近くにあったことに気づくんじゃないかなあ。
新しい《これから》は,「同じじゃないこと」がたくさんあることに気づくことで見つかるように思う。僕の研究もそんなんだったらいいなあ。
そうそう,僕のライバルの《これから》へのスタイルも素敵だった。とっても。
同じ時刻,松坂世代の引退試合があった。ゴメス選手を見送る松坂大輔。中日ベンチに一人残る松坂。ゴメスと松坂,小池の視線の中に入れるのは何だろう。同じではないことを求め続ける松坂世代。僕は憧れる。僕はそうありたい。僕はちょっとだけでも同じじゃない明日を創り続けたい。
やっと,夏休み
ちゃんと、秋
台風一過、秋来たり
何度でも、何度でも、ほら乾杯!
午前3時、目が覚めた。遠足前夜の気分はこんな感じだったっけ、と思いつつ、夜が明けないことには庭の準備もできない。しばらくは勉強でもして朝を待つことにした。
芝払い、草集め、椅子、机、ランタン、薪、炭、燻製、一夜干し、、、
昼前、準備はととのった。
あとは仲間を待つだけ。
第三陣は佐賀から。第四陣も佐賀から。その度に乾杯!
カヤックで大村湾に遊ぶ家族あり、長崎和牛を石板で焼く者あり、庭のカニと戯れる親子あり、ランタン に興じる中尾あり、ただひたすらにがぶ飲みする男あり。ヤングとのキャッチボールに悲鳴をあげる我あり。五十肩が辛い。
語る言葉がとぎれることはない。子どもの声が重なる。寄せる波よりこちらの笑顔のリズムの方が調子いい。
仲間が集う我が家に日が暮れていく。
またおいで。
神様、きょうも一日をありがとうございます。
ほら,うずうずしてる。
外海の鳥
隠遁
研修という雲隠れ
あたりまえの朝に
新しか橋ば作らんば
午前中の雨も上がり、計画通りに天草に着いた。勉強会の会場までの橋を渡るときの渋滞にひやひやしたけれどみなさんは笑顔で迎えてくださった。
ひとつしかない橋だから混むのは仕方ない。だけど、誰もがここを通らなければ対岸に行けないという事実を僕は嫌いじゃない。
誰もが同じ道を通って行きたいところに行く。ここだけは誰もが同じ。だから少し遅れても「しかたんなかですもんね」って、共有できている。そう、しかたんなかなんだ。
だけど、次、来るときに同じことをしでかすわけにはいかない。
これは授業も同じ。誰もが通るしかたんなか時期がある。ゆっくりになったり、いらだたしく感じたり、時には止まってしまうこともある。誰もが通らなければならないこの橋みたいなものだ。
いつまでたっても渋滞に巻き込まれる奴もいる。渋滞するもんだと決めつけてる奴もいる。渋滞をあきらめてる奴もいる。そんなもんだと開き直る奴もいる。
しかし今夜は違った。もうひとつ新しか橋ば作らんばね、あと三つか四つ欲しかね、の声が共有する。
天草の友たちは、今のままでとどまろうとはしていない。だからこそ、仕事が終わってからもこうして多くが集うんだ。今はひとつしかない橋だけど、そのたったひとつの橋を渡って集まってくることが美しい。みんな同じ気持ちというのがいい。
天草の小学校の教師も中学校の教師も自分たちの教室にかける新しい橋を自分たちで作ろうとしている。
夜は友と語らいの時間。