ちょっとしたこと,綴っておこう。モレスキンのノートとモンブランの万年筆,時々たつログ。
たつログ
えとせとら
水曜日の駅
火曜日の新幹線
国語科教育法Ⅲの15回目の授業を終えJR佐賀駅に向かう。はずむ足取りは授業に見られた学生の充実した学ぶ姿とこれから会う一人の大きな男のせい。
きょうは3チームのカンファレンスだった。teamコーラス、teamアカンパニー、team秋刀魚。それぞれに「試験問題」というものを立体的にとらえた見事な発表だった。カンファレンスでの意見交流、意見を言う前のチーム内での問いの交流。発表チームと質問チームのやりとり。これが大学生の想像力なのか、感激と感動。
これこそが学生のアクティブラーニングだと手応えを感じている。
そんなことを思い出し、モレスキンに書き込んでいるうちに日も暮れた。
出水駅改札。壁のような大男が小さな傘を2本持って待ってくれている。この男、壮!
地元の風情にあふれる店。
久しぶりの差し向かいの酒に気合いが入りすぎたのか、昼のつまみ食いにあたったのか、僕のお箸の動きはゆっくりだったけど、やっぱりこいつと飲る(やる)のは格別だ。
「兄、やっぱり楽しい見通しを立てないといけませんね。また会ってください。」
そうだよ壮。LINEやメールじゃない。僕はいつでも出かけるよ。そのために毎日働いてるんだ。時間も旅の電車賃も宿代も、どうにでもなる。
昨夜、せっかくの大好物に手をつけなかったのはオムレツを残したルロイ修道士を真似したわけじゃない。だから別れの握手はしなかった。
また来るけん、壮。
話すという特別なあたりまえ
この祝福のとき、祝婚歌
僕のいちばん歳のはなれた友だちの結婚式と披露宴が稲佐山の美しい場所でひらかれた。
結婚式。新郎新婦が何をしてもみんなのカメラがそれを追う。ベールにふれても指輪を握ってもそっと腰を押しても微笑んでもカメラは絶妙な時をのがさない。
僕の目は白い洋服をまとった二人だけではなく、カメラを持つ色とりどりに装った人の顔にひきつけられた。だれもが本当に幸せな顔をしてそのときを見届け、見守り、ひとつの風景として残していたから。だれもが二人を愛していたから。
披露宴。僕は6人の仲間たちとお祝いのことばを届けにいった。
そして代表(?)して、二人に語りかけた。準備をしていた詩を朗読することはなかったけど、祝福の気持ちは届けたつもり。
いい日いい時、いい仲間。誰もが幸せだったねと笑顔に満ちあふれた1月27日。
……
ただいま紹介いただきました達富です。
祥平、あずささん、そして両家ご家族のみなさん、本当におめでとうございます。
祥平の友人ということなのでどんな男が出てくるのかとお思いだったでしょうが、ずいぶんと年の離れた男です。
実は、僕には明治39年6月生まれの60ほど年の離れた友人がいました。その方は、もう20年ほど前に天に召されましたが、その方の白寿のお祝いのとき、集まった仲間の前で僕のことを「いちばん年の離れた友人の達富さんです」と紹介してくださいました。若い僕には、それがたいそう嬉しく、以来、僕はいちばん年の離れた友人と呼べる友を捜しておりました。
そして、10年ほど前、長崎大学で祥平と出会ってからの僕は、急激に若返り、「いちばん年の離れた友人」である祥平と国語教師のライバルとして、また親しい酒ともだちとしてつき合ってもらっています。
そしてきょうは、新郎新婦にお祝いを告げる使者として大抜擢されたわけです。感謝に堪えません。
あずささんを紹介してくれたのはもちろん祥平ですが、僕の大好きな祥平が惚れた女性ですから、間違いありません。あずささんあっての祥平です。
あずささんは妻の話にも心と耳を傾け、楽しく話をしてくれます。僕と妻と4人、思案橋で飲んだときから、僕たち夫婦は、きょうのこの日、二人がともに歩みだす日を、まるでクリスマスを待つ子どものように楽しみにしていました。待つ時間は感謝と賛美を育てます。
あずささん、祥平のことはどんなことでも知っているでしょう。
カンペキを求めようとするのに出だしの遅い祥平、
甘えん坊のくせに心を語らないことがある祥平、
丁寧に生きていこうとするからこそ何処か抜けてしまう祥平、
だけど失敗を人のせいには絶対しない祥平。
大好きな人を包み込む愛情は世界一なのにそれを言葉にするのが苦手な祥平。
どんなことがあっても相手を守る祥平。
そう、その相手とは、あずささんのことです。
僕が結婚する前、結婚を決めた僕に、僕のいちばん年の離れた友人が一篇の詩を贈ってくれました。僕はすぐにその詩集を妻になってくれる人に贈りました。以来、この詩は僕たちにとって神さまのみことばのような存在です。きょうは、僕と妻、二人から、祥平とあずささんにこの詩を贈ります。
(訳があって「祝婚歌」朗読できず)
祥平、あずささん、どうぞ、互いを信じ、互いをゆるし、感謝のうちに歩みを進めてください。
愛されたいと願うよりも愛することを生涯の仕事とし、
弱い自分が出てしまうときがあっても、
小さな心に涙おとすときがあっても、
貧しい考えに迷うときがあっても、
互いの声を聞き、分かち合い、感謝のうちに日々を過ごしてください。
弱い自分は互いに見せ合えばいい、小さな心は二人で大きくすればいい、貧しい考えのときはじっと待てばいい。
祥平にとっての「とっておきの場所」はあずささんのために、あずささんの「とっておきの心」は祥平のために、毎日、互いを迎え入れてください。
二人のことが大好きな、きょう、ここに集う誰もが
二人のこれからに大きな安心と平安を信じています。おめでとう。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
確かな歩みは知的好奇心がつくる
《問い》、学習課題、「一枚に書く(コンパクトライティング)」ことに興味をもっている教師がここ奄美大島にはたくさんいる。
それは、「児童生徒が好きで教師になった」からこそ、どうにかして楽しい授業を行いたいという知的好奇心があるからだ。
教育現象を細切れにすることなく、教室の事実としてのまるごとを好奇心で見つめること。それが何より大事なことだ。しょうもない些細な技術などあとからついてくる。大事なことは、まるごとを楽しむことだ。その姿が奄美大島の教師には染みこんでいる。
さて帰ることにしよう。
奄美大島、知的好奇心に満ちた島。
帰路はなんとももの悲しい。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
評価、自覚化、問い、めあて(学習課題)、、
さあ、奄美だ!
夏の予定が台風の影響で1月に延期になった奄美大島での研究会。この日を指折り待っていた。僕は年休をとり、前日から奄美に向かうことにした。
いいお天気の空を飛行機は奄美へひとっ飛び。
朝ごはんから奄美大島でと決めていた僕は一目散にめあてのお店へ!
バナナとサトウキビを見ながら食べる黒糖パンは本当に美味しい。
連絡船と灯台巡りが好きな僕は、島の南の端を目指すことにした。
味のある港には美味い飯屋があるのは当然。マグロたっぷりの丼がきょうの昼ごはん。ご飯をしっかりと冷ましてあるのが見事だ。
マングローブの原生林を水面から楽しみ、壮の故郷でもある宇検村を通り抜け、いくつもの小さな小学校を巡って一日目は終了。
200㎞ほど走った疲れもなんのなんの。夕飯の郷土料理ですっかり元気を取り戻した。さあ、明日は研究会。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
手を入れる
観察中心とは観察したまま、そのままの状態で単元をはじめるということではない。ちゃんと手を入れることが大事だ。
僕が「下ごしらえ」と呼んでいる教師の仕事は、「手を入れる」ことである。
以前、何かの講演で、「弱い火を大きくするには、鉋がけした材よりも、鉈で割ったささくれのある木端のほうがいい」と喩えたことがある。
腰板を貼るなら鉋をあてる。
あたりまえのことだ。ひと手間、手を入れる。そうしなければ玄人とはいえない。
折り合いをつける
こうすればこうなる。
これが頭中心の単元づくり。
こうなったのは子どもがああしたから。こうしていたらどうなっていただろう。じゃあ……
これが観察中心の単元づくり。
教室に居られる教師がうらやましい。
子どもの育ち
研発発表会。
この世界で働くまで知らなかった。この日のために研究するのか、研究したからこの日があるのか。
教師たちの成長とともに、子どもの育ちが見える「会」でありますように。
https://cms.edu.city.kyoto.jp/weblog/index.php?id=114103
観察すること
単元づくりをするとき、ああだこうだと頭の中で組み立てたり予想したりする。これを頭中心の単元づくりと呼ぼう。
教室で子どもの姿を見て、声を聞きながら、こんなことやったら楽しそうとか、へえそんなこともできるんだと思いをめぐらせる。これを観察中心の単元づくりと呼ぼう。
価値ある単元として子どもの成長に役立つ教師の仕事は間違いなく後者だ。
プロの教師だから頭中心の仕事もできなければならない。頭の中で精査することは大事なことである。
しかし、程度がある。
星空を見ない天文学者がいるらしい。それはそれでいい。しかし、子どもを見ない、教室の声を聞かない教師ってどうなんだろう。
授業の厚みは、観察の深さである。
姫、あらわる。
旅に出たい
年中、旅がらす。だったはずの僕が、ここしばらくは長崎ぐらし。もううずうずしている。早春の予定はと手帖をひらくと。
1月、奄美大島、京都。2月日本海兵庫浜坂、熊本宇土、天草。3月、北海道新冠、京都。
今年の僕はなんと、おとなしい。大人しい。音無しい。旅を忘れた寅さんは寅さんじゃない。寅さんを追いかけている僕が旅に出なければ僕じゃなくなってしまう。ああ、旅に出たい。
と、そんなとき。妹から贈り物。
七草粥の代わりに食べてくださいというメッセージ付きの温泉豆腐。これはいい。
厚揚げ、いいじゃないか。
旅に出ずとも旅気分。酒に酔うのは旅に出なくてもできる。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
たつゼミ
きょうは「たつゼミ」。このたからもののような9つの命との時間も残り3回。
卒業論文もほぼできあがりに近づき、みんなの顔にも安堵のときが流れる。
ある者は最後の追い込みの相談、ある者は見直し、さらなる追加。いち早く動き始めた二人はUSJへの話。どれもが微笑ましく、誰もが頼もしい。
たつゼミ
ほんとうに僕のところに来てくれてありがとう。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
始動
あの日もこんな日だった
成人式。佐世保の新成人はハウステンボスで新たな旅立ちを迎える。
僕の成人式はずっと前のこと。京都は平安神宮でお祝いがあるんだけれど、僕はそこには行かず、ジーンズ姿で父と母が結婚式を挙げたお宮に行った。その足で新幹線に乗り、東京原宿PennyLaneで憧れていたバーボンを飲んだ。大人になったと感じた。
社会との新しい関係性がはじまったと表参道を歩いて感じた。何処からか聞こえる山手線の音が観光や遊びのためのものではなく、生活のための音に聞こえたのを今でも覚えている。
成人たち、おめでとう。心で生きていくことを楽しんでいくといい。
さて、年末年始、4度も5度も読んだ卒業論文をもう一度読み直した。これが最後、そしてみんなにコメントを渡す。ゼミ生のこれまでの息づかいが伝わってくる。こんな仕事に就けてなんて幸せなんだろう。人が書いたものを真っ先に読めるなんて、なんて贅沢なんだろう。僕はやはり研究者よりも教育者でありたい。
頭をつかうとお腹がすく。きょうはどうしても飲みたいオレンジジュースがある。ずっととっておいたオレンジジュース。年末の大掃除で食器庫でみつけたかわいいコップに入れてホットサンドと一緒に飲むのが楽しみだ。
三ツ矢サイダーは青春の味。リボンシトロンは日曜日の朝ごはんの味。って、勝手に決めてきょうまで生きてきた。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
腕によりをかける
学生って、いいもんだ
朝は4時に起きる。しばし黙想したあと、ずっと卒業論文を読んでいる。
そうかあ、そんなところまで考えているんだ。いいぞいいぞ。
なるほど、そういう展開なんだ。わくわくするぞ。
えっ、どうしてそんなこと思いつくんだ。まいったなあ。
僕は、ぶつぶつ言いながら論文とにらめっこ。いや、むずかしい顔ではない。論文に楽しんでいる。
すばらしい。よくぞ「たつゼミ」に来てくれた!
感謝のうちに。
丁寧な仕事
丁寧な仕事
・書いてあることを正しく読み取ること
・伝えたいことをふさわしく表現すること
・声をきちんと聞くこと
・声をちゃんと届けること
・ゴールを決めて見通しを立てること
・立てた見通しを点検すること
・こまめに綴っておくこと
こんなこと、中学生のときに全部習った気がする。今さら確かめることでなはいけれど、小さくて弱くて貧しい僕は、何年も何年も確かめている。
今年はもうひとつ付け加えて、
・謙虚に謙遜になること
全部で8つ。
神さま、きょうもいちにちをありがとうございます。
貧しさをことばにする
毎年、1月1日の長崎新聞には、TOP Interviewという興味深い企画がある。今年は「105 Nagasaki Leader’s Voice」。
各界のリーダーたちの声が集められている。昨年にも増してカタカナ言葉が増えたという視覚的な変化はともかく、僕はこの105人の声の中に、「貧しさ」にかかわる何かを感じた。
お金のことではない。貧しさとは足りないものにどう向き合うかだ。足りないことに気づかないことは何より幸せなのかもしれない。だけど、足りないことを知っているにもかかわらず、足りないことに満ちた気持ちをもてることはもっと幸せなことかもしれない。
僕は貧しい。足りていない。だけどそのことで卑屈にはならない。そのことをありのままに受け入れ、そのことを手に握りしめようと思っている。
今朝は早くから潮騒を聞いている。水面を眺めている。潮風をかいでいる。すべて満たされているような感じる。
僕は貧しくないのかもしれない。そう、自分の外側は溢れんばかりの充実。ということは、貧しいのは僕の内側ということになる。
2024年は内側の貧しさに自覚的になり、内側が満たされる時間を作ろうと思っている。
105人の中の68人目。僕はこの方と語り合いたいと思った。そうすれば、もう少しは僕は自分の貧しさを見つめ、自分の貧しさを自覚し、自分の貧しさを言葉にできるようになるかもしれない。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
そうそう、何人もの読者からの質問が届いた。web site のトップページの写真が変わったこと。これは、苫小牧駅から新冠までの旅で乗ったバス。岬めぐりのバスではないけれど、国道をそれた集落をひとつずつ回っていくこのバスに僕は心うばわれた。こんな一年を送りたくてこの写真を選んだ。
弱いなら弱さを知ること
届いた年賀状は『ここからはじまる国語教室』を出版してくださったひつじ書房の社長から。
「結論はでないわけですが、それなりにまともなことをいってもらうということということがほとんど自動的にできてしまう時代。思考法について自覚的になることが求められているように思います。(松本2024)」
このお正月、いちばんうなずいた。
はがきの文章は「考えることは何かを問うこと(同)」と続いていたので、「考え始めているということはそこに問いがあったということ(達富2024)」と僕は返書した。
「問い」は成長する。だから僕たちは「問い」を育てなければならない。「問い」を立てる力をみがかなければならない。「問い」を立てることと「考えること(思考の手立てとしての思考操作)」についてもっと自覚的にならなければならない。
それさえできていない僕は、なんと弱いんだろうって思ってしまう。振り返りは後味のよいものにしたい。それなら、もっと「問う力」を高めるしかない。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
小さな思い
声をかけ合うこと。これが2024年のメインテーマ。「かけ合う」んだから、僕が声をかけるだけではなく、僕も声をかけてもらえるようにならなければならない。
師、大村はまの言葉。
「はっきりと言ってもらいやすい人になりなさい。」
その通り、表面的な美辞麗句などまったく不要。
とりつくろうようなほめ言葉は無用。
下手な授業は「下手」と言われるほうが勉強になる。つまらない文章は「つまらなかった」と言ってもらうからこそ次の文章がみがかれる。講演や授業のときに居眠りされるのは僕の技量が足りないだけだ。砂金を見つけるようになんとか「まし」なところを見つけてほめてもらうなんて、何よりもみじめだ。
そんなこともあり、僕は「先生」と呼ばれるよりは「兄さん」や「兄」「兄貴」と呼ばれるようになりたい。そして一緒に声をかけ合って育ちたい。上方の芸人たちが生涯ついてきたい長上を「兄さん」と呼ぶのはまさにそういう思いなんだろう。僕のゼミ生やかつて担任をした学級の教え子たちが「先生」としか呼べないのは分かるけれど、日常の仲間からの「先生」はなんとなく距離を感じてしまう。
僕は誰をも「先生」と呼ばないようにしている。それを無礼という人も少なくない。「先生」と呼ばれたい人もいるだろうから、それはそれでいいんだけれど、僕は一人の「達富洋二」として声をかけてほしいし、「達富洋二」として声をかけている。だから最大の感謝と敬意を込めて「さん」と呼んでいる。「さん」づけで声をかけ合う仲で居られることで、つながりを確かめ合える。呼び方を改めることはぎこちなさを感じるからタイミングが大事。2023年で「先生」をやめよう。
昨日、今日と、声をかけ、声をかけてもらう心地よさに感じ入っている。今年は、今年こそは、これまで知り合った方々に会いに行こうと思っている。退職まであとわずか。あと何回、語り合えるか、酌み交わせるか。声をかけ、声をかけてもらえることを日常のあたりまえと考えるのではなく、毎日、毎回を特別なもの、これが最後かもしれない、と愛おしく感じたい。
さて、きょうの午後は、2024年はじめての外食べ。お気に入りの品々を溶岩板で焼き、薩摩黒じょかで焼酎を温めて大満足。
が、残念なできごと。実は昨年の春から4本のひびが大きくなりはじめ心配していた。今夕、片付けのときにきれいに5つに割れてしまった。まるで梅の花がひらいたように。
やれやれ。さあ、気を取り直して2024年!
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
心からの感謝を
ふり返ってみるのもいいさ
今年、研究熱心な実践者と話す機会があった。
「達富先生のおっしゃる学習課題を設定しなくてもこのように子どもの力が伸びました。特に学習課題を設定したり、問いを立てたり、コンパクトに書いたりしなくてもいいんじゃないですか。」
「子どもの力が伸びたのはいいことですね。その指導法を丁寧に言語化しておくといいですね。」
「別に学習課題や問いやコンパクトライティングをしなくてもいいんですよね。」
「もちろんです。ただ、学習課題を設定し、そこから《私の問い》を立て、問いからはじまる学習をデザインし、ふさわしいタイミングで一枚に書くことを取り入れることが主体的な学習を阻むということはないですよね。やるのがいいのか、やらないほうがいいのか。教師の都合でその対決の結果を出すことが大事なのではなく、すべての子どもをできるようにすることが大事なのです。ただ、僕は効果的な学習方法であり、それを支える指導方法だと考えています。実績もあります。」
きっと、「学習課題」や《私の問い》、「一枚に書く」をパターンと考え、形式的指導方法としてとらえているんだろう。そして、これ以外の方法もあることを言いたいんだろう。
そりゃそうだ。学び方だって教え方だって、数え切れないほどある。
僕は決して、ひとつの出来事として「型」を提案しているわけではない。
僕は「あなたが教師として成長する」ことだけではなく、「すべての子どもをできるようにしようとする教師たち」を応援したいだけだ。
「戦うなかみをまちがっているよ」とは言わなかったけれど、とても残念でつらい思い出だ。
来る2024年。僕が望まれている仕事は、「迷っている教師、自信をもてない教師、ひとりぼっちの教師」に声をかけること。分かち合うこと。こんな僕でも一緒にいていいなら、いつでもどこへでも行くつもり。
多くの教師たち、教師の子どもたち、今年も一年、ありがとうございました。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。素晴らしい一年でした。
あれから30年か
「考えががらっと変わる」ということなんかないと考えていた僕がの考えががらっと変わったことが3度ある。
1度目は1979年、2度目は1990年、3度目は1994年。僕はこの3度のことをよく覚えているし、何度も何度も繰り返しそのことを黙想する。きょうの午後も一人で水辺に座り黙想していた。
僕にとって黙想とは、瞳をとじて静かにすることではなく、できごとを具体的に思い浮かべ、そのできごとの向こう側のことを考えることだ。だから、毎回が新鮮で、毎回が驚きで、毎回が愛おしい。そのことをモレスキンの手帳に綴ることがこの上なく大事なことだと思っている。
3度目の回心。それは大村はま先生に捕らえられたことだ。捕らえられるといってもおにごっこではない。考えと行いと思いをすべて見直し、再創造するということだ。それまでの「授業観」ががらっと変わった瞬間だ。
「おしえるということは伝えることではなく、一人でもできるようにすること。」僕のこの考えは、既に1994年のモレスキンの手帳に書いてある。
来年はそれから30年。今、お風呂上がり、そんなことを2023年12月30日の手帳に綴った。
さあ、これからは至福の時間。今夜は、野村さんからいただいたとびっきりの焼酎をあくゆうから薩摩の黒じょかでいただく。
肴は厚岸の生牡蠣と五島のかっとっぽ。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
車を洗う
運転免許を取って初めて乗った車はフェアレディ240z。兄貴からもらったのはミラージュ。自分で買った1代目は初代前期のパジェロ。
以来、車は大事にしてきた。だからこそ、車を洗うことは熱心。
きょうは年の瀬、我が家の3台を徹底的に美しくした。まだ暗い6時から開始。先ほど18時に終了。合計12時間。1台平均4時間ほど。自分の4WDは念入りにしたから6時間ほどかけたかもしれない。
年中、この車があるおかげでいろんなところで仕事ができているんだから、もっといつも手を掛けてやらなきゃいけないんだけど。ごめんの気持ちで、きょうはとことんみがいた。
大満足。
洗車の途中のお昼ご飯は、湯島のダイコンを入れたダイコンカレー。
途中、届いた贈り物は日本酒とかに。
今夜も夕飯が楽しみ。
洗車の話を肴に酔っ払っちまおう。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
学び合いましょう
「天草 国語教室の会」のみなさんの協力のもと、2月に天草で勉強会をすることになりました。
最新の施設「ここらず」の会議室で行います。ぜひ、ご参加ください。定員は24名です。天草 国語教室の会のメンバーのお二人の実践報告と達富が提案を行います。詳細は追ってお知らせします。
達富は、「2024年度、こうして授業をつくる」をテーマにこれまでの授業を振り返ることを提案します。学習課題+《私の問い》+「一枚に書く」がパターンや形式になっているなら、それは残念なことです。
すべての子どもの育ちのために、すべての教師の確かな授業力のためにと考えていたことを今いちど、確かめ合いましょう。
かなり本気で準備を調えます!これが僕からみなさんへのクリスマスプレゼントになりますように。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
ことし最後のまんまるお月さま
ひさしぶりに金沢してる
友と笑う
たつとみ流、クリスマスメニュー
主の降誕
風はびゅうびゅう
12月23日、仕事、ほぼ終了。あと、25日の午後の会議に出るだけ。
明日からは、年の瀬の冬ごもりのための薪仕事、途中で放りだしたままになっている石積み、そして、綴ったままアップロードしていない「たつログ」の編集。
楽しみばかりが待っている。
とりわけ、「たつログ」。
「達富さん、大丈夫?」って、たびたびLINEをもらっているんだけど、とにかく、アップロードする時間がない。朝から晩まで。頭の中を「やりたい」ことがかけめぐっている。
後期、大学の授業に365パーセントの力をそそいだ。
学生との「試験問題づくり」、「書写動画づくり」、学生による「単元づくり」。
とにかく充実した時間だった。
そんなことも、ぼちぼち「たつログ」で。
おそらく、新冠町立朝日小学校の研究発表会の頃から更新が滞りがちになっているはず。
モレスキンの手帳の万年筆の文字がたまっている。
きょうも、長崎は風がびゅうびゅう。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
始業式も終業式も西海北
2学期の始業式は西海北小学校。
2学期の終業式も西海北小学校。
子どもたちの声が去っていった校舎は、誇らしげだけどちょっとくたびれたようなたたずまい。
そんな中、僕たちは年内最後の研修会に汗をかいた。
・コンパクトライティング(一枚に書く)の理論と実際
・第4学年の学習指導案検討(算数科)
・第5学年の学習指導案検討(算数科)
・研究発表会までの見通し
・コンパクトライティング(一枚に書く)と学習課題と問い
みなさんの熱心な姿が僕を饒舌にさせる。
「しゃべりすぎた」
確か、前も同じこと言った気がする。
土産にもらったウツボは湯引きにしてから炙り。
帰りのスーパーで見つけた紅ズワイは茹でて身をほぐす。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
今年さいごの中等国語科教育法Ⅲ
ことばが創る会
洋上の台形の島が湯島。赤城ィが暮らしている。そこから彼もやってくる。
天草苓北から直美さんもやってくる。
そして、宇土の仲間が迎えてくれる。そう、きょうは「ことばが創る会」の例会。
久保さんの実践報告が分厚い。やっているからこそ語れることばだ。子どもの姿がそのまま浮かぶ。教室のリアリティを適確な言葉で語ることにまさる授業研究はない。
だからこそ、それを真摯に聞く姿勢をもちたい。子どもの言葉を疑わず、子どもの声を聞くことができているかどうかに謙虚になり、それ以上の予想も期待ももたず、それ以下の誤解も無理解もなく、その通りをちゃんと聞きたい。
満足の宇土。
土産にもらった湯島ダイコン、焼酎「湯島」、そして天草苓北、金子果樹園のみかん。
年の瀬の楽しみが増えた。ほんとうにありがとうございます。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
被造物の声を聞く
長崎のひつじかい
12月8日は長崎
大樹、やるぞ!
福岡県小学校国語教育研究会行橋大会。
研究成果がぎゅっとつまった素晴らしい研究冊子。そして、授業。
なんと、授業予定者が体調をくずされたため、研究会仲間が当日の授業を引き受けられた。
休まなければならなくなった授業者は涙。授業することになった教師は責任感とみなぎるやる気。そして、見事な子どもの学びとそれを支える指導。
研究発表はそれだけではない。3年生と4年生の単元実践は15分程度の動画に編集されている。単元びらきから問いを立てる学び、問いを修正して更新する過程、そして問いの解決。これらが見事に編集されている。事前にDVDを届けてもらっていた僕は、当日までの数週間、通勤の行き帰りに視聴。もう教師の指導のことばさえ覚えてしまった。
とにかくすごい研究会だった。「すごい」なんて言葉、使いたくないんだけど、今回ばかりはすごかった。
打ち上げも幸せだった。みんながいい顔してる。丁寧に仕事をやりとげた大きな達成感。大きな仕事をつくりあげた誠実な満足感。その中の一人になれていたのならこんなにうれしいことはない。
二軒目は3人で駅前の昭和の店。こんどは一軒目から来たいと願ういいお店。
ここでの語らいにまた感動。この若者、4年生の実践者。「ごんぎつね」を扱った単元学習。僕はこの若者の言葉を全部おぼえてしまうくらい見続けた。動画の中の「彼」がここで僕と一緒に酒を飲んでいることが不思議。
この男、大樹。これから一緒にやろう!と誓った。
大樹、やろう。僕でよければ応援も邪魔も酒の相手もずっとつきあうぞ。
何から何まで、本当に素晴らしい行橋、素晴らしい一日、素晴らしい研究発表会だった。南小の川島校長先生、本当にありがとうございました。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
試験はさいごの学び
点灯式
ホームグランド
指月会の読書会
はじめての小学校、はじめての教室。だけど、ここは指月会の仲間が担任している教室。だから、どこに何があるかが、ぜんぶ分かりそう。はじめてなのになぜだろう、この落ち着き。
zoomもつないで、2ヶ月連続の指月会。
なんだか、ずっとやってきけそうな予感。
場所を移して読書会。これまた20年前が一瞬でここにやってきた感じ。僕は飛行機の時間があるため、ひとり早引き。残念。
大阪の町。またすぐ来よう、指月会がいるから。
「そうそう、お昼をとる時間がないでしょうから、買っちゃいました。」って、おむすび。
こういうことしてくれるんだよね、ひろ。
ありがとう、だけど、ひろ。僕、帆立はちょっと苦手、なんだ。ちょっとだけ。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
「なにげない」ではない教室
飲むことすなわち
ビールはサッポロ黒ラベル。日本酒は京都伏見の松竹梅。
プレミアムモルツでもなければ銀嶺立山でもない。
旅先ではクラフトビールを楽しんだり地酒に酔うのが好きだ。だけど自宅では、安定したいつもの酒に酔いたい。
なにより、誘いがいい、
「男は黙ってサッポロビール」
「飲むことすなわち喜びさ、喜びの酒 松竹梅」
それに景色がいい。
三船敏郎、石原裕次郎に宇野重吉。
ああ、昭和の男たちに昭和の酒。今夜も僕は昭和に酔っている。
さあ、中等国語科教育法Ⅲ
教えるということはできるようにすること
評価とは応援なんだ
『ここからはじまる国語教室』、通称、ひつじ本。
ありがたい書評。
実践的な授業研究(レッスンスタディ)にスポットライト:書評『ここからはじまる国語教室』(達富洋二編著 ひつじ書房 2023年4月)
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
子どもの作品
きょうは「第7回 きゅうでん はがき新聞コンクール」の審査会でした。何千という応募。第一次審査、第二次審査を経て、いよいよ最終審査です。何度も何度も作品を読み込み、まるで自分が指導したかのような気持ちになるまで作品に惚れてきょうを迎えました。
審査席前方のボードに貼り出された作品は表舞台に立つ子どものように、少しの緊張と大いなる誇りに縁取られているようです。
丁寧な事前の読み込みに支えられ、大きな問題もなく審査は進みました。
子どもの作品とともに楽しみにしているのが、各専門の立場からのコメントです。九州電力のかたの電気資源、環境保護、生活責任のコメントはどれも切り取り方が新鮮で的確で見事です。西日本新聞社のかたの文化としての新聞、民主主義のための新聞、これからを生きる者へのメ発信元としての新聞、この矜持にはしなやかさと強さがあります。
また来年。
年に一度、七夕のように集まる文化人の集まりの中に来年もいられますように。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。僕がのぞまれることならどんなことでもよろこんで。
いいものにはわけがある
なんとたくさんの人と話したんだろう。全国で活躍の人物がここにもそこにもあそこにも。僕はきょろきょろしながらとにかく聞いて聞いて、ときどき言葉を届けた。
やってきた人の言うことは違う。やってきた人の考えは違う。やってきた人は、やっぱり違う。
いいものにはわけがある。
一人のファンとして、きょうの会議を楽しんできた。
帰り道、「一杯、いきませんか?」と声をかけてもらった。
もう出会って30年くらいになるけれど、未だに学びながらの乾杯を楽しんでいる。
また行きましょう。また来ましょう。親愛なるさんたさん、きょうもありがとうございます。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。いい仕事ができるよう、健康でいさせてください。
教育長室に
限りない可能性
さあ、九州場所
道草くうのもいいさ
成長する教師たち
授業。ほんとうに尊いもの。教師たちのすべて。
僕はいつものスタイルで子どもと教師の声を聞いている。子どもと教師の思考を感じ取っている。
授業者だけが授業を語れるのではない。この学校の教師たちは、先ほどまで教室で繰り広げられていた授業を自分のこととして語っている。
授業後の分科会。家庭科室や理科室の大きな机をうまく活用し、数名が向き合って授業についての交流をする。各テーブルに本校の教員が一人ずついる。この教員がぶれふことなく、この1年半の校内研究を共通のことばと自分の言い回しを織り交ぜて熱く語っている。
もう、僕のいる場所なんて不要。誰もが授業を自分のものにしている。この尊い時間。この穏やかな時間。いつまでも終わってほしくないこの時間。
こんなときにいちばん役立つことばはなんだろう。とにかく、僕はこの2年間の教師たちの本物の仕事を言葉にすることに努めた。
ありがとう。
これからも仲間でいよう。ずっと友だちでいよう。
そして、やっぱり、ありがとう。この時間をありがとう。そして、アイヌ彫りの贈り物もありがとう。ずっと使い続けます。それは、閉校してしまう朝日小学校とこの仲間との熱い時間を忘れないこと。
神さま、きょうもきょうまでもいつくしみをありがとうございます。小さな僕の小さなはたらきをいつも応援してくだってありがとうございます。
旅の重さに
重さはマイナスではない。いい加減で無自覚に通り過ごすわけではないということ。
僕が待っているのも本当、僕を待ってくれているのも本当(であってほしい)。
いつもの鞄に着替えと土産と手帳と水彩絵の具を入れていた昨夜。そうそう、マフラーと手袋をって、追加。北の大地はどのくらい寒いんだろう。
手帳にどんな言葉を綴って帰路を楽しむか。下手な水彩のはがきをどこに向けてポストに入れるか。
そんなこんな思いを巡らしながら旅の重さの楽しみがはじまる。
飛行機から見える日本は冬のはじめの装い。
日本アルプスを過ぎてしばし。ひときわ目立つ美しい山を見つけた。「あれはなんていう山ですか。」
「鳥海山です。」CAさんには見なくても分かるんだろう。すぐに教えてくれた。こんな風景の上を毎日飛んでいたら、ものの見方も違ってくるんだろう。僕にとっての日常の風景って、どんなものなんだろう。
そんなこと考えながら新千歳。きょうはバスで新冠まで行くつもり。3時間ほどのバスの旅に心がおどる。昼ごはんは駅弁と決めている。南千歳駅の「北海道 汐彩弁当」と決めている。それをバスのいちばん後ろの席に座って食べるって決めている。
計画通り、お弁当を手に入れた。
苫小牧駅で7分間の連絡でバスが出る。その間、サッポロクラシックを買わなきゃ。
おっと、バスが来ているぞ。お客さんも乗り込んでいる。急げ、急げ。
見事、いちばん後ろの席に腰を下ろして鞄を食卓がわりにして「いただきます。」
北寄貝もつぶ貝も鮭もいくらも何もかも美味しい。
車窓の景色はデザートだ。
バス停の数82。ようやく到着。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
かすみを食う
最近は終わりかたを考えている。
それは、かすみの食い方に思いを巡らせることに似ているのかもしれない。
佐賀大学 中等国語科教育法Ⅲ
学生の力って
紫野指月会、復活
子どもの頃、夏休み明けの始業式は少し恥ずかしかった。40日も会っていなかったクラスが集まるとき、どんなふうに交わればいいのか6年生になっても迷っていた。中学生になってからは部活で毎日会っていたからそんなことはなかったけれど、小学生にとって空白みたいな40日間はぎこちなさがどっしりと教室の真ん中に居座っていた。
きょうポッキーの日。比叡山の見える研究室でポッキーパーティしたのは15年ほど前だっけ。
「よし、会おう」って、急に決まったからか、10年にぎこちなさはなかった。よく笑ったし、よくしゃべった。時間って、それぞれを育てるだけでははく、集まりも育てるんだって、実感。
みんな大人になっていた。
ぜんぜん、変わっていない。年をとったのは僕だけ。
声もテンポも息づかいもあのときのまんま。
今年いちばんのできごとにエントリー!
またすぐにでも会おう。
指月会。僕の原点。指月会、僕の身体。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。やってきてよかった、って本当にそう思っています。
感謝のうちに。
京都のお昼
ひとつの終わり
長崎にて
新聞という文化に学ぶ
森山卓郎さん(早稲田大学)と尾高泉さん(新聞博物館館長)と鼎談をした。
尾高さんの主張は一貫している。民主主義は新聞によってつくられる、と。
確かにそうだ。僕はうなずくばかりだった。
家に新聞が届かない生活など想像できない。新聞をざあっとでも広げるときの快感。たった15分でいい。インクの香りとガサっという音。そして組まれた文字の流れの美しさ。
対角線1メートルの世界で「現在」と対話する。時間をかけた取材に圧倒される。読み返さずにはいられない。変わらない枠の中に繰り広げられる連載に心つかまれる。同じように書いてみたいと何度も真似したことがある。
15分間に僕の中に生まれ出ずる問い。この問いがきょうを色づける。新聞という文化は僕にとっては砂場のようなものだ。あってあたりまえ、ふれてあたりまえ、いつまでもここにいられる、だからこそ何かしはじめたくなる。
鼎談も終盤、僕はこう言った。
僕は担任している40人の子どものすべてを芸術家やアスリート、作家や新聞記者にしようとは思ってはいない。もちろんそういう道に進む者がいたらそれはそれで素晴らしいこと。どんな選択も尊重される。ただ限定したジャンルの力を押し付けることはしない。ふれてみることが大事だ。
ただ、すべての子どもは豊かな新聞の読み手になってほしい。新聞を読む力。これは人として外せない。自分に合っていると判断されて送られてくる情報だけで「今」を知った気になるのではなく、ニュースを選んで「今」を知ることが大事。
では、どつやって新聞の読み手として成長するのか。
それには作り手としての体験が必要だ。誰もが新聞を読むことができるようになるために、少々手強くても、面倒でも、難しいと感じても新聞をつくる学習が必要だ。効果的だ。
尾高さんのの言う民主主義に生きるためにも、新聞を読むことができるようになるためにも、新聞を書くことは有効だ。
新聞を賢く創造的に消費するために、あえて生産者としての新聞づくりの経験が必要なのだ。
将吾が来た!
達富先生と学ぶ会
学生の力は365点!
長崎のひつじかい
九州 教室の声に学ぶ会 天草の集い
2024年2月17日(土)、天草に集いましょう。
授業、やります!
言葉がつくる
金曜日の夕方6時、10人以上の仲間が集まってくる。
昨年の10月にはじまったこの小さな勉強会。隔月開催できょうで7回目、ちょうど1年だ。
着飾らないのがいい。本音がいい。子どものような美しい心がいい。分からないときは分からない顔をするのがいい。分かったふりをしないのがいい。
今夜の話題提供はそんな仲間の宝物になった。それは、分からないがつくった授業でみんなが分かりつつあるから。「できるはずがない」ではなく、「できそう」を共有できる話題提供ってなにより貴重、何より役に立つ、何より元気をくれる。
さあ、みんなみんな話題提供しよう!
来月は、年忘れの会。もう今から心待ち!
言葉が思いや考えをつくり、
言葉が人をつくり、
言葉が仲間をつくる。
そして、言葉が教室をつくり、
言葉がきょうをつくり、
言葉が明日をつくる。
言葉が僕をつくりあなたをつくる。
言葉がつくったものがみんなの幸せをつくる。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
さあ、帰るけん
北の大地にきれいなお月さま
授業
子どもが学び浸っている姿がここにある。
まずは、この一枚。この一枚の写真にこの教室の充実が凝縮されている。
学び合いとはこういう姿が連続することだ。誰もが誰をも侮っていない。誰もがみんなを大事にしている。国語教室はここからはじまる。そんな授業がこの学校にはある。
では、45分間、ずっと動き回り、話し合っているのか。
それは違う。
授業びらきは楽しさのなかに静けさがあった。
先生が何をおっしゃるか待つ子どもがいた。
それは受け身ではない。
先生が何をおっしゃるか、子どもは知っている。分かっている。期待している。
先生がおっしゃることを確かめながら、子どもは自分の45分の見通しを立てている。
45分のはじめは、こんな姿からはじまった。凜とした空気。しぜんと両手が膝の上でそろう。
この姿は、やらされているのはない。
学びを待っているのだ。
次の学びを心待ちにしている。
もちろん聞く姿勢にはいろいろある。
子どもによってそれぞれだ。
だけど、この教室は誰もが自分を小さく見ていない。
そして、板書の音読に移る。
指斉読。
久々だ。
さらに凜とした空気がただよう。
凜とした空気が次の学びを熟成させようとしている。
さあ、言語活動。
もちろん、動き出すには時間が必要だ。
その時間は子どもによって違う。
それを、「はい、どうぞ」で片付けない教師がここにいる。
動き出すまでの時間は優劣ではない。
そこに寄り添うことは、手のかかる指導でもない。
子どもを待つ。
子どもの学びの立ち上がりを待つ。
ただそれだけのことだ。
そのことがとても大事なことを知っている教師だけが待てる。びきすることができる。
言語活動だけではない。
学び合いにもてびきは必要だ。
さっと入って、きちんとてびきし、そうっと離れる。
教師とはそういうもんだ。
だから、
子どもが動く。
子どもが学ぶ。
再び、この一枚。
この姿はこの教室の日常だ。
この教室には本物がある。
この教室は学びに満ちている。
いや。この学級だけではない。
この学校はそれが当たり前になっている。
当たり前の日常の風景になっている。
とにかくしゃがんで声を聞く教師。とにかく子どもを「主語」に語る教師。とにかく、いい顔している教師。
研究協議はみんな語る。担任だけじゃない。研修部だけじゃない。専科も養護教諭もみんなみんな語る。その語りが、熱くて深くて胸の奥の方まで染みこむ。ずっと語っていたくなる。ずっと聞いていたくなる。
きょうの二人の教師の教室。
僕はうんうんとうなずくことしかなかったし、それがとてもうれしかった。もう一度、朝に戻ればいいのに、もう一回、はじめから体験したいって、本気で思ってしまう授業研究。僕がいちばん好きな時間だ。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。美しくも力強い時間を共有できました。
来たゾ!北海道
行くぜ、北海道
わたしたち、かもめ!
昨年の9月23日。僕にとって生涯、最高のいちにちだった。あれから1年。
かもめたちは元気かな。
感慨深い今朝。
妹かもめから届いた贈り物。「撮り鉄じゃないですけど」の言葉を添えた写真。昨年の9月にはまだ産声をあげていなかった『ここからはじまる国語教室』と1歳になったかもめとのコラボレーション。
ありがとう。最高にうれしいゾ!
この幸せの9月23日に何かをしたくって、僕はこんなものをつくった。
前回の「天草松屋の集い」からつくりはじめた小さなパンフレット。きょうが第2号。
「今日的問題とされている時事的なことがら」をとりあげ
「大村はま先生のことば」に導かれ
そして「ここからはじまる国語教室」に綴ったことを少しだけ。
それに、僕の折々の思いを脚注に。
さあ、ここからはじまる。
神さま、きょうもわたしたちにいつくしみをありがとうございます。
松屋の集い、ありがとう
やっぱり京都
いつもどおりの「集い」
研究するということは、伸びるということ。
だれが伸びるか。
まず、自分、そして子ども、当然、学校。
つまり、みんな。
ひとりよがりの研究ではなく、みんなに役立つ研究をしてきたつもり。
何度か意識してきたこと。
・もう少し長い表現で《問い》化してもいいのではないか。
・ひとつの問題意識に対して複数の《問い》
・Aフレーズをどれだけ自分の言葉で歳表現できるようにするか。
・Aフリーズは子どもにとって基本的には理解語彙、あるいは無理解語彙。それを表現準備語彙に置き換えるのは誰か。
・置き換えるのは、言葉の言葉による置き換えなのか、そこに言語活動的実感を伴うものを取り入れるのか。
・それは「行為」から「意味づけ」を生むことと同じなのか。
こんなことまで話し合えたら、きっと松屋は不夜城になってしまうだろう。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
やっと100冊
反省ばかり
旅の重さに
夏の終わり。子どもの頃から夏の終わりが悲しかった。
だけど、この悲しさが秋を連れてくる。
書生気分でちょっと寄り道
思えば長く学んできた
授業にかかわるすべてのものは子どもから出て、子どもによって保たれ、子どもに向かっている。
授業にかかわるすべてのことは子どもから出て、子どもによって保たれ、子どもに向かっている。
だから大事なことは子どもの息づかいを尊び、愛し、ていねいに観察すること。
一段落のあと、「これからはもっと子どもの側に立ってがんばります」。こんなことは言わない。幼稚な言い訳にすぎない。
誰かに問われたら、即答。そんなことしない。たずねてくださっている方に失礼だ。理解には時間が必要だ。そのことを表現するにはもっと時間が必要だ。
教えてくださった方のことばをコピーして、繰り返すなんてあり得ない。言葉を真似したって勉強にもなっていない。自分の言葉に置き換えられない限り、理解したことにはならない。
自分の言葉で子どもを語れるようになりなさい。
自分の表象の切り取り方で子どもを見るようになりなさい。
だから、子どもを尊びなさい。
そして、子どもと同じ大地を一緒に歩きなさい。
学んでいるただ中の子どもの「本当」は見えない。だから、学んでいる子どもと心で対話しながら子どもの声を聞くしかない。
見えている姿と、心で対話しているからこそ見える姿と、どちらが尊いか。
聞こえている声と、心で対話しているからこそ聞こえる声と、どちらが尊いか。
子どもと心で対話するということは、謙虚に子どもと対峙するということ。
子どもと心で対話するということは、子どもを愛するということ。
若い頃、授業の記録の取り方が分からなかった。
だからいいこと思いついた。
授業を見るときはいつも倉澤栄吉先生の斜め真後ろに立つことにした。そして、授業を聞きながら、倉澤先生がメモする真似をした。配られた学習指導案の同じ場所に同じ言葉を書くことにした。書く言葉も、下線をひく部分も、丸く囲むところも一緒。授業後、倉澤先生のとまったく同じ学習指導案をもった僕は、倉澤先生と一緒に授業を見たような気分に充実を感じていた。その後の倉澤先生の講演は、いくつもの「なるほど」があった。こうして授業を言語化することを鍛えた。もちろんあくまでも「贋作・倉澤流」。
若い頃、授業の見方も分からなかった。
だから、またいいことを思いついた。
授業を見るときにはいつも大村はま先生の真後ろに立つことにした。そして、少し腰をかがめて目の高さをそろえるようにして、大村先生の見方を真似した。右に向けば右を向くことにした。板書を見るときにはそうした。授業者を追いかけるときもそのようにした。歩くことも、立ち止まることも、生徒のノートをのぞき込むことも一緒。大村先生の授業観察の方法をまねした僕は、大村先生と一緒に同じ授業の事実を見たにもかかわらず、観察の文脈を調えることはできていなかった。だけど、こうして、授業を映像化することを鍛えた。もちろんあくまでも「贋作・大村流」。
お二人が天に召されてからは、そんなこともできず、真似もできず、話も聞けず、自分で学ぶしかない。そこからはじまった僕の談話研究。子ども研究。とにかくはじめた。
授業の事実を見る。授業の物語を作る。もしかすると、今の僕のもっとも得意なことなこと。心ある後進に伝えておかなければならないことかもしれない。
そんなおこがましいことを言うのも思うのもよそう。誰も伝えてほしいなんて思っていないし、僕も伝えたいわけではない。
さあ、あたらしい一週間がはじまる。明日から、3年生の教育実習だ。明後日からは旅がはじまる。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。九州に来て12年。後期は研究室の模様がえをがんばります。カーテンは何色にしようかな。教育書はとりあえず段ボールに入れた。
残暑お見舞い申し上げるつもりです
僕に「おはようございません」のスタンプを送ってくる妹分がいる。僕は「おはようございました」の言葉を届ける。間違った言い回しなのか、これも一興なのか。ただ、言葉を楽しんでいること、言葉の近くにいること、言葉に無関心ではないこと、はまちがいない。間違っても上司や保護者に「おはようございません」や「おはようございました」と話しかけることはないんだから、僕は、朝のこの短いふざけあいが大好きだ。
さあ、今から佐世保にでかける。きょうは終日、三浦町、相浦町、三浦町。馴染みのお店が改装のためしばらく休業だから、置いている「大島」を空けにいかなくっちゃ。
店長には、暑中お見舞い申し上げなかったので、残暑お見舞い申し上げるつもりです。さてと、残暑お見舞い申し上げに行ってきます。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
パンの会
たぶん僕は最高に楽しんでいたと思う。心待ちにしていたパンの会。
はじまる前も、終わったあとも、参加仲間からのLINE。そこからもみんなの感動が伝わってくる。やってよかった。ほんとう、よかった。
さっそく、きょうの記録と表紙とちょっとしたコメントを書いて参加者に配信。どんな顔して開いてくれるのか、それが楽しみ。あの2時間半がよみがえること、まちがいなし。
もう、あんまり動くことはしないけど、パンの会だけは続けたいと思っている。メンバーは12名。固定されてもいいし、毎回、募集してもいい。そんなことはあまり大きなことではない。とにかく、楽しませてもらおうと思っている。
と、パンの仲間から写真が届いた。なんと、パンの写真。僕もパン屋に急ごう。
もちろん、明日の朝はチョココルネ。先っちょから食べるつもり。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
現代美術
実家の兄貴に小包を送ることにした。佐世保玉屋の紙袋に詰めて送ることにした。いつもは宅急便に持っていくところだけど、なんだかんだと余ってしまい、使い損ねたままの少額切手が沢山あるので、郵便局に行って、それで支払いをすることにした。
おびただしい数の切手を快く受け取ってくれた郵便屋さんに感謝だ。貼るのがたいへんだろうな、と思いつつ、「任せてください、貼っておきますから。」の言葉に甘えた。
後日、兄貴から「現代美術が届いたよ」とLINE。
玉屋の薔薇の柄はどこにも見えないけれど、あの郵便屋さんのセンスというか、おしゃれな子ども心というか、夏休みの宿題的仕事というか。みんなをあたたかくできる仕事は、それだけで尊い。この写真をいちはやく送ってくれた兄貴もきっと笑顔のはず。もちろん、僕はこうして綴っているくらいい気分。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
行橋市
行橋市国語班。きっと福岡県の中心的な研究会になるでしょう。
2023年12月7日の研究発表大会。子どもが《問い》を立てる、まさにその時間を公開できるかも。乞うご期待!ぜひ、参加しましょう。
さあ、きょうから日常
夏の終わりはとつぜんに
ぽかんと心に隙間ができた三日目の午後。「お昼ごはんは武雄の餃子が美味しいゾ!」なんて、情報をLINEすることで隙間をごまかしているのは自分がいちばんよく知っている。
あっという間、っていうあたりまえの言葉しか出てこない。
そんなとき、「達富さん、ビールが届きましたよ!」って、いつものトラックの運転手さんの声。
うれしいじゃん。それは★のマークだからということだけではなく、J-45に合わせて歌ってくれた天使からの贈り物だったから。天使のビールに灯りをともそう。って、いうことで、お気に入りのランタンをふたつならべてテラスで写真。
いいじゃないか。3日前のあの感謝がよみがえってくる。ありがとう。ありがとう。平和をありがとう。
と、LINEに写真。
ファミリーが別府港から九州にさよならしている頃、
僕は、長崎で三日月を見ていた。
あのにぎやかなちびっ子が帰ったあとのPENNY LANE は、急に夏の終わりを連れてきた。
またおいで。きっとおいで。いつでも「お帰り」って言うから。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。ちびっ子3人にお恵みを、ファミリーの新しい一日に祝福を!
24時間、一緒だゾ!
フリーマーケット
J-45、久しぶり、ハイジの水辺にて♪
長崎新聞の楽しみ方
僕の第4楽章
さて、第4楽章。
そういえば、このweb site の、初期のトップページは「第3楽章」だった。
まずは研究室のもようがえをしよう。使わなくなった教育書はどこかに置いてこよう。子どもの作文は本人に送り返そう。驚くだろう。手書きの卒業論文も届けよう。といっても京都市内の下宿に送っても届くはずはない。実家に送ることにしよう。100台近くあるボイスレコーダー、30枚以上あるiPad、これはどうすればいいか。
手を伸ばせば文学にさわれる部屋にしよう。大学の授業研究が充実するように書籍の順番をかえよう。学生が腰掛けやすいように僕の指定席を窓際にしよう。大きなソファーが邪魔だ。
さて、第4楽章。
きょうはとってもいいことがあった。第4楽章のはじまりにふさわしい出来事。
テレビ中継のほんの一瞬の一コマ。背番号137。まぎれもなく、ジョー!ブルペンキャッチャーとしてしっかりと仕事をしている姿に感激。いつもの笑顔に感動。
与えられたところ、置かれたところで花を咲かせているジョー。しかも最高の笑顔で。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
月は雲間に
「達富さん、お月さまはどこに?」の言葉からはじまった僕の国語科研究も雲隠れ。
京都五山の送り火を遠く感じながら雲隠れ。風の吹くまま気の向くまま。
どうかみなさん、熊本と鹿児島、佐賀も宮崎も大分も福岡も長崎も地域関係なく、教科校種関係なく、永遠の親睦を!
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。なんだか妙にすっきりして79冊目に向かいます。
マリアさま、ありがとうございます。
夏も終わりに近づいて
先日の台風で我が家の海岸べりはたいへんなことになった。流木が大量に漂着した。
取っておきたくなるものもあるんだけれど、ゴミ焼却所まで運ぶのに軽トラで何度往復しなければならないのか、とため息が出そうになる。
でも前向き。僕はいつも前向きだ。
だから、
大きな丸太の椅子を作った。チェーンソーを操って、丸太の原木の形をそのままいかして椅子のできあがり。これに腰掛けて夕方の水面を見ることを日課にしよう。
火照った身体には冷たいものがいちばん!
そうそう、この椅子の上でまず考えたことは天草のこと。
参加者が少なく、中止にしようかと逡巡していた「天草の集い」のこと。ちょっと弱気になった僕にとびっきりの言葉を贈ってくれたのは高弟、赤城ィ。
「延期でも、規模縮小でもなく、いつもの天草での会ですよ。」なんてこと、言ってくれるようになったこいつに僕は大感激。この椅子の上で考えてよかったゾ!
9月9日、天草の集い。やるよ!やろう!楽しもう。「九州 教室の声に学ぶ会 第一楽章 Final」にふさわしい勉強会になることまちがいなし。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。自然の声を聞きます。