ちょっとしたこと,綴っておこう。モレスキンのノートとモンブランの万年筆,時々たつログ。
たつログ
えとせとら
中止の残念<届いた便り =いい一日
残念なお報せ。
6月14日に予定していた,シンポジウム in 長崎。今の状況を配慮して延期になりました。理想教育財団のホームページでは「中止」となっていますが,「延期」です。秋の長崎での開催を目指して計画中です。6月に予定していた以上の内容でできるように創造的に進めます。ご期待ください!
だけど,
直後にうれしいお報せ。
・・・・・・・・・・・
先生からいただいた通信を読み、学習課題の意味について再考しました。
学習課題をどれだけ子どもの姿で具体化できるか。
つまり、あの子もこの子も動き出すことができる思考操作は何なのか。
通信を頂いてから、私も5年の説明文「言葉の意味が分かること」で学習課題を考えてみました。
A:この単元では「文章の要旨に対して自分の考えをまとめる」力をつける学習をします。
B:筆者の考えや事例に対して「納得できる、できない」ところと、自分の知識や経験を結びつけて、
C:5-1新聞「声voice」欄に『言葉と私のこれから』の投稿文を書こう。
学習材に出合わせる前に、「国語や外国語の学習で大切だと思うことは?」と問いかけたり、「知らない言葉に出会ったとき、あなたはどうしますか。」「あなたが、小さな子どもに『コップ』の意味を教えるとしたらどうしますか。」という問いの文を提示したりして話し合わせておくことで、「自分の知識や経験」を掘り起こしておこうと思います。
その上で、学習課題を提示し、学習材と出合わせます。
「みなさんはこれからも〜『言葉の意味は面である』ということについて、考えてみてほしいのです。」
という筆者の考えを受け、「言葉と私のこれから」というテーマで投稿文を書くという言語活動です。
《私》化した問いの例をこれから考えてみようと思います。
今後ともご指導よろしくお願いいたします。
・・・・・・・・・・・
みぞ,ありがとう。落ち着いたら,熊本に行くよ。HERO海で明るくなるまで語りつくそう。そして,1月には合宿をしよう。みぞのライフヒストリーに僕が居られることをうれしく思っています。
中尾とみぞの言葉が僕の背中を押してくれているのはまちがいない。
下通の電車道,その横のビル,少し歩いたお好み焼き屋,えらい高い支払いをした豚足屋,どれもが忘れられない思い出。二人に心からの感謝をささげます。
神様,きょうも一日をありがとうございます。明日の新しい朝を楽しみにしています。
zoomで研究会
そりゃあ,通信でしょ。こんな時期は
ほかにすることがなかったわけじゃない。だけど,どうしてもこの質問に答えるには「丁寧さ」が必要だと思った。だから,言葉を探しながら,だけど,話しかけるように書かなきゃ,って一生懸命に仕事をした。
まず,質問をくださった学校に,そして,次に九州の仲間に届けた。
そして,驚いた。すぐに,ほんとうに,すぐに返信が届いた。たくさんの方から。
学級通信を配ったとき,椅子に座るのも忘れて,通信を読みふける子どもたちを思い出した。まさに,そんな景色。
この通信で,僕は,新たな枠組みを提案した。
《問い》には,
①「指導事項的な問い」
②「言語活動的な問い」
そして,
③「《私》化した問い」である。
実は,この①と②の間に,「内容把握的な問い」がある。
これまで私(私たち)は,この「内容把握的な問い」を発問として教室にばらまいてきた。時に「こんなことを考えてほしい!」と熱を込め,時に「みんなの初めの感想を読むと,こういう感想が多かったんだけど・・・」とすり替え,時に「分かる人?」と限定的に内容把握の流れを作り,授業と呼んでいた。
①は教師として当たり前のレベル。②は授業研究レベル。
「内容把握的な問い」は教師の研究ノートのメモレベルだ。
「《私》化した問い」,これこそが,《私の問い》である。子どもが学ぶ教室が,③の「《私》化した問い」で溢れますように。
きょうの通信がほしいかたがいれば,連絡をください。PDFでお届けします。
さて,夕飯。
と,その前に,先ほどの通信の感想メールを紹介。真っ先に届いたのは熊本から。
・・・・・・・・・・・
達富 洋二 先生
とてもわかりやすい通信をありがとうございます。
「3フレーズでつくる学習課題」は達富先生のお考えの根幹を示すものだと思います。
私の実践も、学習課題が核になっていることを実感致しますし、言語活動とわたしの問いが学習課題を核にして、言葉の学びを生み出していきます。
そのような学習課題とわたしの問いの関係がとてもわかりやすく書かれていました。
今回の通信において、また新たな考えが私の中で生み出されたのは、Bフレーズについてです。
「B:文章からくちばしの「形のことば」と「使い方のことば」を見つけて」は、私の中でいくら考えても出てこないものでした。
どうしても「関連付ける」や「比較する」「分類する」などの思考行為動詞のようなものが、頭に浮かんでしまいます。さらには、物語文で言うと「会話文」「地の文」「言動」などの学習指導要領の指導事項にあげられるような文言が浮かんでしまいます。
しかし、今回のBフレーズでは、教材の内容に寄せながらも、思考する方法がどの子にもわかる表現になっていました。AとCについての考えは深められてきたのですが、Bについての考え方をまた深いものとすることができました。
今回のBフレーズにするならば、単元の最後にAとBを結び付けることのできる振り返り(「形のことばや使い方のことばが文章の中の重要な語なのだ」ということの確認)が有効に働きますね。
もっともっと研究の核に、この学習課題をしっかりと据え、実践を深めていきたいと思わされました。
価値ある通信を配信していただき、ありがとうございます。この通信だけでも書籍化につながりそうですね。
・・・・・・・・・・・
中尾,ありがとう。読んでほしいことを理解してくれている。立ち止まってほしいところを言葉にしてくれている。聞きたいことを言ってくれている。同志として何よりもうれしい。
神様,きょうはいい仕事をしました。この働きの実りがお望みに役立つものとなりますように。ありがとうございました。
薪づくり
どこまでも,どこまでも
世界中のこどもたちに祝福を
聖なる,,,
こんな日は音楽を
ちょっと,待ってて。
「ちょっと,待ってて。」の言葉は使いたくないんだけど,今ばかりは「ちょっと」だ。やりたいことが多すぎる。やらなきゃいけない気分になりすぎている。これは自分の都合ばかりではない。なんとなく,望まれている気がする。
「ひとりでもできる単元学習」の導入パッケージづくり。
「ひとり学習」は「ひとりぼっち学習」ではない。
「ひとり学習」は「個人学習」でもない。
「ひとり学習」は「ずっとひとり学習」でもない。
「ひとり学習」は「自己満足学習」でも「自己完結学習」でもない。
「ひとり学習」は,この次,みんなと会えたときに「花ひらく,根を張り,実を結ぶ学習」なんだ。
ということを,「してみせたい!」。
だから,「ちょっと,待ってて。」
「ひとり学習」は「ひとりぼっち学習」じゃない。
「ひとり在宅勤務」も「ひとりぼっち勤務」じゃない。
僕には仲間がいる。
夕方,「うううんっ,,,」と庭に出て,身体を伸ばす。そこには,小さな鴨の脚。
「きょうもよくがんばりました,たつとみ先生。きょうのお仕事はおしまいです。」と,つぶやく木曜日。
球児とおじさん
きょうはタジン鍋
まるごと,たまねぎおでん
大地のたまねぎ
速報
何をしてもかっこいい人
この頃,僕は手の洗い方を極めた。見事だ。というより,僕は以前から手を洗うことには自信があった。理由はふたつ。
福島孝徳氏。ずいぶん前のことだ。この脳神経外科医のドキュメント番組があった。手術室に向かう前の福島氏の手の洗い方をカメラが捉えた。ナレーションは患者の様子を語っている。特に映像に目を留めるような場面ではなかったのかもしれないが,番組の中の記憶のいちばんはそのシーンだ。手を洗うことから手術は始まる。
土井善晴さん。「お料理の基本を手を洗うことですわ。わたしは,肘まで洗いまっせ。ほらこんなふうに,こうして洗うでしょ。そんできれいな手ぬぐいとかタオルで拭くんですわ。ほら,ほら,ええお料理つくったろいう気分になるし,ほんまええお料理できるんですう。手を洗わへん人のお料理,食べたないでしょ。」この言葉にやられた。
何をしてもかっこいい人はいる。福島氏,土井さん。手を洗える人。だからいい仕事をする。
僕も,仕事の前,講演の前,本気で手を洗う。
こんなふうに,何をやってもかっこいい人の真似をすることが今の僕をつくっている。
僕らは言葉に生きている
この1週間ほど,考え込んでいる。
どの新聞にするか。
今,毎朝,届けられる新聞のおじさんはいい人だ。お店も丁寧で申し分ない。だけど,届けられる新聞を飾る記事,そして,それを綴る言葉にため息が出る。言葉が僕の朝から離れていく。心が冷たくなっていく。だから,新聞を変えることを考えている。試しにいろいろ集めてみた。ジャイアンツは好きじゃないし,平和を希求しているのでそれらは辞めた。
新聞は,「おはよう」から「おやすみ」まで,僕のそばにある。
毎朝,いわばその日に初めて出会う言葉は「あたたかい言葉」でありたい。人のつながりに感謝できる言葉でありたい。生きる励みとしたい。今,ここに居ることが誇り高く感じられる言葉がほしい。
それなのに,政府を批判し,行政を揶揄し,どうにもならない昨日のことをああだこだとこねくり回す。自社のことは棚に上げて。
今は悲しいときだ。つらいときだ。面白くない春だ。そんなの誰もが分かっている。だからこそ,言葉できょうと明日と明後日を作っていこう。言葉で昨日までの美しさと健気さを残しておこう。言葉で語り継ごう。
なあ,いいか。僕たちは言葉に生きているんだ。
大学はからっぽで大喜利
在宅勤務になったというのにきょうも大学へ。研究室に居ることしばし。
窓を開けても誰もいないからBEATLESを少し大きく鳴らしてみる。
「こんな本あったっけ?」「鉛筆、削っておこう。」
普段飲まない珈琲でも。
日曜日のような木曜日。本当なら国語科教室で中等国語科教育法の授業中。でも,きょうは空っぽ。学生たちはアパートは自宅の部屋で僕の作った動画で勉強中(のはず…)。
そして,帰宅。佐賀の仲間にメールで語りかけ。こんなことでもしなきゃ,滅入ってしまう。
♪,,,「在宅勤務」とかけて,,,
●「在宅勤務」とかけて、「消防車のサイレン」ととく。
その心は…「かじ(家事・火事)」が気になります。(MATSUO)
●在宅勤務とかけましてビールとときます。
その心は、あわないと寂しいです。(Naka Eri)
●「在宅勤務」とかけまして,「悪天候で急遽、変更になった旅行先」とときます。
その心は、「どちらも残念だけど、意外な楽しみが待っている」でしょう。(E.Daisuke)
●在宅勤務とかけまして望遠鏡ととく。
ズーム(zoom) が必須。(Masashi)
ということで,今夜の一席は,平田昌志ですね。
こんな夜は
さかなクンとお天気の斉田さんと3人で飲みたいなあ。
2軒目でリリーフランキーさんと合流。
そんな夜になればいいなあ。
こんな昼下がりは森田童子
古いビルの横。風だけの通り道。都会の隙間に立ち止まった。見上げる春の日がやけに眩しい。
こんな昼下がりは,
森田童子。
「あかん」から生まれた新たな授業づくり
「たっつん,今は,旅に行ったらあかん。おれやったら来んなって言う。」
「気持ちが分かるだけになんとも言えませんでしたが,今は他の方法で,」
と,速攻で留められてしまった。もちろん,僕も県をまたいでの移動を自粛することは分かっている(じゃあ,佐賀大学への通勤はどないやねん,って気もするけど)。
ということで,zoomでもwebexでも。groupLINEでも。そしてお得意の通信でも。
さっそく,大阪とzoom。思わず,手を振ってしまう。
ありがとう,花ちゃん,ひとみさん。ここでできることを全部やります!
みなさん,zoomに招待してくださったら,参加しますよ!
そして,学校再開したら,みなさんの教室の授業とzoomしよう。きょうは「たっちゃん先生が参加しますよ!」なんて,素敵すぎる。問いの立て方の特別授業も任せてちょうだい。
ぱうろ,動きます
結局,そういうことだ。
この春。日常ではないことは分かっている。だから,みんな一生懸命だし,そんな姿に応援したくなっている自分がいる。
学校に行けない間,子どもは家庭で自学自習。それも分かる,分かる。分かるからこその点検だ。
体育のチームゲームや音楽の合奏,特別活動の学校行事の自学自習は現実的でない。しかし,どの教科でも自学自習できることはたくさんあるはずだ。
だけど,自学自習プリントは国語と数学(算数)と英語。なぜ。しかもその内容は,ドリル的、繰り返し練習、単純な調べものに限られている。
平穏な日々が戻ってきたとき,どうなるんだろう。
学校は年35週。その中の5週間を使ってしまったわけだ。若干の余剰週はあるが,残った30週を全教科で仲良く割り算するのだろうか。国語と数学は既に5週間にプリント学習をしていたということで,当然,週あたりの配当は,1,2時間少なく計画されるだろう。そうしなければ,全教科漏れなく内容未消化,つまり未履修となってしまう。
じゃあ,国語の5週間分のプリント自習の成果はどうなんだろう。思考力・判断力・表現力のプリントはあったんだろうか。言語活動の自学自習を成立させることはできていたんだろうか。
5月6日から学校再開。
そうなったとき,残りの30週間で新学習指導要領の趣旨を全うできる教育課程をこの2週間で完成させなければならない。
結局,そういうことだ。教師がいなければできない国語をやってきていたわけだ。教師が発問して,指名して,「なるほど」,「ほかに」と言わなければ進まない授業をしてきたわけだ。
やってこなかったことは問題ではない。そういう時代だったんだから仕方がない。
だからこそ,だ。
だからこそ,これまでの続きに甘んじるのではなく,今からつくっていけばいい。今から動き出せばいい。
さあ,やろう。今こそ,課題解決学習を自学自習で。言語活動をプリントで。単元学習を一人でもすすめる学び方を。すべての子どもの学ぶ力を守るんだ。
僕には仲間がいる。九州にいる。関西にいる。全国にいる。大阪の連中は,4月から5月6日までずっと自学自習スタイルに悔しい思いをしている。谷本,梶田,石川。こいつらの本気に応えるのも僕の仕事だ。
九州の教室の声に学んでいる仲間たち,動いているか。立ち止まってはいないか。
ぱうろ,動きます。
たぶん,まぼろしのシンポジウム
進むしかない
さっそくの反応!
負けないで〜
どんなに離れてても 心はそばにいるわ
追いかけて 遥かな夢を
(・´`U ←スヌーピー
元気が出ました!
ありがとうございます。
(‧⃘︠˾ͨ̅‧⃘︡˒᷅̈́)ナカエリ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
スヌーピーには見えへんけど、おおきに。うれしかったでえ。
負けへんでえ
こなす課題ではなく、解決に向かう学びの提供を!
「こんな春、はじめてです。」という挨拶がめずらしくなくなってしまったこの春。わたしたちは新しい語彙にふれました。
「濃厚接触」や「感染爆発」。そして、「社会的距離」。それらを普通につかっている自分がいます。
すべての命を守るために社会的距離が必要なことはわかりますが、社会的な距離を広げることが心の距離を広げることになってはいないでしょうか。むしろ、一定(2㍍以上だそうですが)の社会的距離を保つからこそ、「ここにいます」「そこにいるんだよね」という互いの存在の近さを感じ続けることが必要です。心の距離と心の態度はこれまで以上に親密であり、配慮を尽くした愛に包まれるべきです。わたしの心は渇きをおぼえつつあります。悲しいことです。
さて、わたしの勤務する佐賀大学は前期の15コマが遠隔授業となりました(社会がよほどの改善に向かわない限り対面授業はないということです)。つまり、動画や無観客授業(無聴衆授業)のライブ配信、大量のワークシートをダウンロードする環境を整えるということです。ICT的授業と言ってもいいかもしれません。
従来、単元学習(もちろん大学生との授業でも)をあたりまえとしてきた私は戸惑っています。記憶再生を目的とせず問題解決のための動画、講義型ではなくアクティブ・ラーニングのためのビデオコンテンツ、たった一人でクリエイティブに書き続けられるワークシート、これらを創るための一週間でした。
今、ほんとうなら、新学習指導要領デビューの春です。こんなにかわいそうな学習指導要領は初めてです。おあずけ状態の学習指導要領なのですから。日本中が、新しい学習指導要領に心弾ませ、アクティブ・ラーニングにトライ&エラーの毎日だったはずです。これまでの、「一斉授業」や「教師主導講義型授業」が見直され、「子ども主体の学び」で時間割が魅力的に動き出すはずだったのです。そんな春をみんなが待ち続け、そんな春のために準備し続けてきたのです。待望の令和2年度だったのです。
だからこそ、ここで逆行したくないです。「講義形式」に戻るなんてもってのほかです。私たちは、COVID-19に立ち向かっている現在、教育を後回しにするのではなく、こんな状況であっても新しい単元学習の道を切り開いていきましょう。予定していた単元学習からさらに高まった単元学習ができるんだ、という希望に満ちた春にしていきましょう。
これ以上の困難な状況はもう起こらないと誰が言えるでしょう。もっとやっかいな規制の中で暮らさなければならない時代がくるかもしれません。そのたびに、教育を一旦停止し、逆戻りし、教えることを後回しにすることはできません。
この状況において、社会的規範に背くことはしません。ですから私の愛用しているあの鞄にもうっすらとほこりがかぶっています。もうずいぶんと列車にも乗っていません。今は自宅で、子どもの研究、単元学習の研究、評価の研究に一生懸命です。
ですが、疲れた頭を切り替えようと伸びをしたとき、わたしには、いつも九州の仲間の顔が見えます。そう、わたしたちはつながっています。わたしたちの教室もつながっています。日本中の子どもがつながっているのです。
主人公登場
大学は遠隔授業。学生は大学キャンパスには来ない。自宅であってもアパートであっても、一人きりでコンピュータやスマートフォンを通して授業を受ける。
だから、教員は遠隔授業づくりに一生懸命だ。
どうやって教えるか、どんなコンテンツをつくるか。どんなアプリを使うか。パワーポイントで動画を作るには、、、教師たちも全力だ。
だけど、教師主語、自分主語、になりがち。
僕は、学生主語にしたい。相手主語にしたい。その気持ちをもち続けたい。
合格後、一度も大学を訪れることなく、キャンパスに足を踏み入れることなく、教室に座ることもなく、ただただ、アパートで前期を過ごすことになるかもしれない。そして、そのまま前期が終わってしまうかもしれない。
学生は何を学びたいか。
学生はどんなふうに学びたいか。
学生は何をしたいのか。
学生は、、、、、、
先生になりたい!って夢を抱いて大学に来た学生!
その夢を1ミリメートルでも縮めることなく、1グラムでも減らすことなく、夏に会おう。
僕は、自分の教える都合ではなく、学生の学ぶ都合で前期を創ることに力を尽くしたい。
世界中の学び手のみなさん、夢を叶えよう。
あなたたちが主人公なのだから。
やれやれ
慎太郎からの荷物
僕の五島時代の教え子、慎太郎。
とてつもなくいい男になっている慎太郎。慎太郎から荷物が届いた。
きのう、潜って70ほど捕ってきたとのこと。いちばんいいのを送ってくれた。
アワビ。もちろん、刺身とバター焼き。ではない。慎太郎の荷物にはこんなものが入っている。
ペットボトルの中は五島の海の水。この水でゆっくりゆっくりと煮る。アワビは蒸す。まるごと五島。
先日、桐谷祥平が下げてきた焼酎「五島灘」を氷で、お湯で、生で。
まるごと五島。どこまでも五島。とにかく五島。
「五島」。僕は五島で働いていたわずかな時間を忘れない。この時間がなかったら、今の僕があるはずはない。
そう、五島はあのときも、あの時からも、そして今も僕を見ていてくれている。僕が「五島に行った」のではなく、はじめから「五島が導いて」くれていたんだ。だから、「五島」に抱かれている、いつも。
こんな生き方をしてこられたことが奇跡だけど、いまは現実。だから謙遜のなかに生きていきたい。
照らしてくれるものが月であっても
空の色がちがっても
一日のはじまりが花
自然の中で
春が届けてくれたもの
春。ちょっと早めに仕事を終えて道草。
桜、遠望。
知っている色の名前が全部ある。赤に橙、黄色に緑、青に紫、すみれ色。
そして、足もとはれんげ草。
子どもの頃の遊び場所の主人公。春。春。春。
みなさんに長崎の春を届けます。
と、家に帰ると、、、、
長崎県時津町立時津東小学校の研究紀要が届いていた。
64ページの研究紀要。学習計画、適用題、問いの一覧、そして、研究部からの通信。圧巻。とにかく何度も何度も見たくなる。これは紀要というより「教師のてびき」。
僕の家にはいただいたものが数冊あります!学校にも少しは余裕があるかも。どんな参考書よりも、どんな研究本よりも、この「時津東小の研究紀要」が春を元気にしてくれることは間違いなし!
今夜はこれを眺めながら「磨き大島」をロックで!
昼は花、夜は研究(と、焼酎)。達富、幸せです!
春はあたりまえに
桜、咲く
「桜は来年も帰ってきます。人の命は帰ってきません」
3月26日に発信された「山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信」だ。ここ数日のことを誰が予想できただろうか。
僕にはまったくわからないことだらけだ。せっせと手を洗うこと。ちゃんとご飯を食べ、よく眠ること。学生がいない大学なんだから、人混みをさけ、早朝や深夜に研究室で論文を書くこと。こんなことしかできない。
だけど、桜は咲いている。憂えているのか、誇っているのか、それでも桜は咲いている。今を一生懸命に。
東京から届いた桜。そうっと抱きしめるように、そして何度も何度も眺め、世界がどんなに慌てていようと、桜は咲いていることに安心もした。
みんながそれぞれに平安でありますように。
僕にできること。
せっせと手を洗うこと。ちゃんとご飯を食べ、よく眠ること。早朝や深夜に研究に浸ること。そう、もうひとつ。
祈ること。
神様、本年度もありがとうございました。遣わされたものとして、きちんと生きていきます。
お出かけ前のアップデート
今朝のNHK「おはよう日本」の桑子アナウンサーの言葉。
さあ、月曜日。アップデートして平和な1週間に行きましょう。
先生、ありがとう。の声に心高くする春
弟分から届いた写真。クラスの子どもとの別れのときにもらったそうだ。宝物のメッセージ。
僕たちの仕事は、子どもに教えることだ。「力を付けること」「人として大きくすること」「人と交わって創造できること」「一人でも生きていけるようにすること」など、いろんな言い方で「教えること」を言い表すことができる。
そのためにも、僕たちには仲間が必要だ。研究会に身を置くことが大事だ。そして、研究会では受け身であってはいけない。
一人一人が、ひとつずつ「自分が遣わされている意味を確かめつつのりしろの仕事を引き受ける」からこそ、みんなが伸びていくことができる。九州の仲間とはそのようにして学んでいきたい。こうした謙遜を実現できる集団でいたい。
そんなことを感じさせてくれたこのメッセージ。
「先生の授業をうけていって」の言葉がうれしい。だけど、この「先生」は一人じゃない。「先生」はたくさんの「先生」の中で学んでいる。そう、「先生」が「先生たち」と伸びているから、みんなにも教えられる。
「教えられる教師」は「先生たちの中で学び続けている教師」なんだ。
そんな「学び続けている教師」のエピソードをもう一つ。きょうの午後3時に届いたメールがひとつ。
…‥……
先生のブログをいつも読ませていただいていますので、その先生のお言葉を読んで、「ちゃんと終わろう」と決めていました。(略)
最後の最後、5時間目は、子どもたちが不安な気持ちで明日からを過ごさないように、話をたくさん聞く時間をとっていたのですが、そこでも「私の問い」についての話になったので、本当の気持ちを私からも話し、子どもたちは子どもたちなりに受け止めてくれているようでした。31の問いを解決するところを見たかったなと思います。あの日は、いつも以上に子どもたちは、私の言葉、友達の言葉、校内放送の校長先生の言葉、すべてに真剣に耳を傾けていた一日でした。最後まで、この1年、ずっと言い続けてきた、「今、何ができるか。」を子どもたちが自分に問うていたと思います。(略)
ちゃんと終わらせようと休校中も毎日、ばたばたとしている中で、達富先生が「6歳から問いを立てる」をしていこうというお話をしていたことが忘れられないでいました。わが子も6歳です。このたった6年しかいきていない子に、力をつけさせることに向き合ってみたいと、来年度は、1年生担任を希望しています。
今年は、ぜひ九州にも学びに行きたいと思っています。「この指とまれ!」は、九州に住んでないとだめかあ。
阪急電車では九州は行けないけれど、コロナなんかには、負けないで「問いを立てられる6歳」を育てたいと思っています。
…‥……
阪急電車とは、関西を走るかっこいい電車。僕もいつも乗っていたおしゃれな電車。その阪急沿線に働く「なかつる先生」からの便り。
僕が新幹線のぞみ号で、「問いの練習単元」を持って行きますよ。
ずっと担任なんだから。
beer with peer
早く日常が戻ってきてほしい。そして、笑って仲間とビール。が、待ち遠しい。
いそいそ、お出かけ
旅立ちの日に
きょうは、佐賀大学の卒業式。今年は主役不在。
だから、達富研究室で卒業式。11時から。
「5人のゼミ生、卒業おめでとう。あなたたちのこれからに祝福がありますように。」
午前11時。研究室に足音。ノックの音。そして、とびっきりの笑顔。ゼミ生たちがやってきた。「たつゼミっ子」。これが僕のゼミの通称。
式が行われなくてもきょうは卒業の日だ。この晴れ舞台の主役は君たちなんだ。式ができないことも分かる。だけど、一生で一度の「きょう」。僕はいつものシャツにいつもの上着、だけど、とびっきりの気持ちでゼミ生を迎えた。
おめでとう。旅たちの日だね。
ゼミっ子からの贈り物は、、、、
「洋二の酒」。鹿児島県霧島市の佐藤酒造の「黒 佐藤」が特別な瓶に詰められている。そういえば、このゼミで焼き鳥に行くたびに僕が飲んでいたのは「黒 佐藤」。覚えていてくれたんだ。ありがとう。
あやか、なな、なつみ、まなみ、さき。5人のたつゼミっ子は、僕のたからものだ。ゼミでは語り、聞き、笑い、そして綴ってきた。僕たちのゼミ文集「葡萄の木」はたつゼミの軌跡だ。
click → 2020 03 24 葡萄の木 08
さあ、春の空に舞い上がれ、夏の空を包み込め、秋の高い空に飛び上がれ、冬の空を彩ってやれ。たつとみゼミは洋々と果てしなく広がっていくよ。
学び舎に別れを告げて青空に羽ばたく5人。きっときっと、大きな祝福が待っている。
いつでも帰っておいで。
静かな春、まっただ中。
桜、見上げる向こうは、青
山桜、咲く
春なのに、春だから
きょう、スーパーからの帰りの車のラジオから聞こえてきたのは、中島みゆきさんの「春なのに」。
流れる季節たちを微笑みで送りたいけれど。
佐賀の小学校では卒業式に涙した教師も多かったに違いない。突然の休校が続いた異例の春。別れる準備も十分できないままの3月。子どもも教師も、どこまで本当の気持ちを言葉にできただろうか。
自分が卒業生を送り出したときのことを思い出しながらウイスキーを飲んでいると届いたメール。
「今日の子どもたちからのサプライズ。手紙には、国語の力がついた、国語が好きになったと書いた佳乃さん、健伍君。苦手な国語が好きになった遼君。最後のスピーチでは、語彙力をのばすことができたと語った達義君。」「子どもたちが自ら身についた力を実感し、自信に満ち溢れた表情が印象的でした。」
春なのにお別れ、でも、春だから自分の成長に気づく。春だから新しい自分に挑む。
明日は、大阪でも卒業式、上五島でも卒業式。
全国の子どもたちに祝福を。
元気予報 〜本日も晴天なり〜 はっぴい!FM
今、午前3時30分。
この時間の挨拶は、「おはよう」なのか、「こんばんは」なのか。と、朝から言葉の謎を楽しんでいる。
そんなことをおしゃべりしようかな。きょうは10時からFMラジオ、はっぴい!FM(FM佐世保)です!
といことで、「心も会話も 晴れ晴れ講座♪」に行ってきました。出演してきましたというより、語ってきましたというより、楽しんできました。アナウンサーの NOKKOさんが、どんどん語りかけてくださるのがとっても心地よくって、もうついつい、あっという間の1時間でした。
前回のオープニング曲は、アンパンマンの「勇気りんりん」、今回は「手のひらを太陽に」。たつログでも紹介した僕の大好きな名曲。「僕らは」という主語ではじまるこの歌は、僕たちへの「いのちの賛歌」だ。
ちょっとくらい緊張しなさいよ、いうくらい普段着。いつものMONTBLANCの万年筆とMOLESKINEの手帳を手にして、いつものたつとみスタイル。目の前でにこにこしてる NOKKOさんも普段通り。
途中、ヒロからのメッセージ。これがたまらなくうれしい♪
「暖かくなったら、家族で長崎に遊びに行っていいですかあ!」の便りに、「ええよおー!」って答える。もちろん、スカーレットの喜美子ふうに。
さて、この番組は「心も会話も 晴れ晴れ講座」。きょうは「おはようとこんにちは」をどのように区別するかということからはじまった。10時か11時か、午後2時ならどうか。という時刻での切り替えから、家族には使えるかどうか、という対象での切り替え。家を出てから実家に戻ったときはどうか、という時間距離での切り替えまで、ああだこうだと NOKKOさんとすったもんだしてきた。
途中、「若いと若々しいはどう違うんですか?」とか「最近の言葉の進化(?)をどう思いますか」など、ラジオを聞いてくださっている方からの質問も届いた。遠いところでは甲府からのメッセージも。ありがとうございました。(下の写真は番組本番中!白魚のような指はNOKKOさん!)
ところで、
聞き手が聞きたいことを話す。これは話し手としては、ごくごく当たり前のこと。いや、当たり前のことというより、話し手の責任や義務かもしれない。さほど珍しいことではないこと、当たり前すぎること、予想通りのこと、さらに、聞かなくてもいいこと、聞きたくないこと、を話してもこれは自己満足。「そんなん、あかんやろ。」って、自分でつっこみを入れるしかない。僕の漫才の相方の中尾だったら、「もう少し詳しく話してみ、聞いたるさかい。」とミルクボーイふうに相手してくれるところだ。
聞き手の聞きたいことを話しているだろうか。僕は当たり前すぎること、聞き手の期待を考えずに、ただただ話しているだけで自己満足してはいないか。これは、きょうのラジオ番組だけのことではない。人として、家族として、近所のおじさんとして、僕の周りに集ってくれる仲間の一人として、そして、教室に生きる教師として。そんなことを考えた1時間でもあった。
NOKKOさん、こんな機会をありがとうございました。次は、5月ですね。楽しみにしています。準レギュラーの気分と、はっぴい!リスナーの立場を楽しみながら、明日からも応援しています♪
ということで、声を届けたラジオ出演のあとは、しばし心を落ち着かせ、今度は神様の声に耳を傾けに行ってきた。
神様、振り返ることを教えてくださってありがとうございます。
さあ、長崎。楽しくなりそう。
長崎新聞社の玄関は、福山雅治が一面を飾った長崎新聞がずらりと並ぶ。彼の曲はひとつも知らないけれど、長崎に暮らす者として、なんだか誇らしい。
そして、3階。
6月14日。ここでシンポジウムをする。
趣旨はこんな感じ。
新学習指導要領における国語科の授業では言語活動を通して指導を行うことが示されています。ただ、「言語活動を位置づけた単元で本当に学力が伸びるのかどうか分からない」「子どもは楽しそうに活動しているが、それだけで教えたことになるのだろうか」という声もあるようです。「主体的・対話的で深い学び」を実現するためには、学びがいのある言語活動に《コンパクトに書くこと》を取り入れることがたいへん有効です。
本シンポジウムでは、はがき新聞用紙を使ったコンパクトライティングの取り組みの効果とその実践方法を語り合い、具体的な指導法を共有したいと考えています。
第一部では、「全学年で取り組んだ小学校において、学年ごとの取り組み方によって学力の伸びが異なる事例」と「学年で同じように取り組むことで大きな伸びを実現した事例」を紹介します。
第二部では、小学校と中学校の具体的な実践例をもとに、学習のどのような場面でコンパクトライティングを取り入れると効果的であるかを語り合います。
第三部では、これまでの話題提供を総括し、「主体的・対話的で深い学び」を効果的に実現させるためのコンパクトライティングの指導方法について具体的に紹介します。
4時間ほどの熱いシンポジウムにしたい。それまでに社会が平穏を取り戻していることを願ってる。
ということで、下見のあとは、
僕のいちばん年下の友だちが教えてくれたおでん屋さん。
きっといいシンポジウムができそう。その前祝いだ。東京から来てくれた友も大満足。満足し過ぎて、2軒で撃沈。きっとスーツのまま朝を迎えたはず。
一人の僕は、少し早めの長崎駅。もうすぐ新しい駅舎になる。この景色もあとわずかかなと、駅まわりを撮りながら懐かしんだ。初めての日本一周の旅のときは三角の屋根だったような気がする。そのときも陸橋広場はあった。ここにPanasonicの青いと白の自転車をとめて写真をとった。その後、坂を上ってユースホステルに行って、次の日は西彼杵半島を北に向かい、オランダ村に驚いて、早岐駅のベンチで眠ってしまった、、、、と、思い出は尽きない。そんなことつゆ知らず、友は深い眠りに落ちているはず。
神様、きょうも人の中で自分を見つめさせてくださりありがとうございました。
いっておいで、いつでも会えるから。
この指とまれ!
ぴんきり
ぼくらはみんな生きている
夕暮れがさみしいとき、友だちに上手く言えなかったとき、学校が少しだけ遠くに行ってしまった気がするとき、お父さんに叱られたとき、兄ちゃんばかりがほめられているとき、そんなときこの歌。ぼくらはみんな生きている♪ いつもいつも歌ってた、ぼくらはみんな生きている♪
子どもの頃からそうだ。
小学校からの帰り道も、高橋公園からの夕暮れも、銭湯帰りの路地裏だって、いつもいつも口ずさんでいた。
こんな歳になっても?って思うけど、今でもふと気がつくと歌ってる。みんなみんな生きているんだ♪ 友だちなんだ♪
昨日もきょうも、新型ウイルスの気がかりなニュースばかり。そんなときもやっぱり、ぼくらはみんな生きている♪
だって、子どもだって生きているんだ、友だちが恋しいんだ、先生に会いたいんだ。もちろん、先生だってみんなに会いたいんだ。だから、みんなで歌おう。ぼくらはみんな生きている♪
http://www4.cncm.ne.jp/~togitsuhigashi-e/
こんな素敵な学校がある。ぼくらはみんな生きているってことを伝えているホームページ。一体感がある。語りかけられた子どもたちはきっとつぶやいているはず。「はい、先生!」って。
「1年生のみなさん、げん気にすごしていますか?」→「げん気とざんねんがはんぶんずつ。はやくがっこうに行きたいです。」
「先生たちは、みなさんに会えなくてさびしいです。」→「ぼくだってさびしいよお。」
「がんばったあとは、すきなテレビをみたり、おいしいごはんを食べたりしてゆっくりすごしましょう。」→「ごはん食べたよ。ブロッコリーが美味しかった。先生は何食べた?」
「先生たちは、午前中は学校で仕事をして、午後から校区内を見てまわりました。」→「えええっ。先生、来てたんだ。会いたかったなあ。」
「全部終わっていなくてもいいですよ。」→「ううん。全部やるよ。先生をびっくりさせたいから。先生にほめられたい!」
「先生たちも寂しく学校で過ごしました。」→「いつもの日曜日と全然ちがう。やっぱり学校に行きたいよお!」
明日はきょうよりみんな元気になっていますように。日本中が元気でありますように。
みんなみんな生きているんだ、友だちなんだから。
神様、限りないはからいをありがとうございます。
ジョー、ナイスバッティング!
大丈夫だいじょうぶ
きょう,ひなまつり。そんな穏やかな気分だけではなく,きょうで3学期が終わってしまうかもしれない学校がたくさんあるはず。
そんな中,友だちの校長先生からのメール。
「今日、子どもたちに伝えた言葉です。家の人と先生たちがついているから『だいじょうぶ』!だから、ゆっくり休みなさい…と話しました。その時のカードです。」
「帰りも校門で、このカードをもって、みんなを見送りました。みんな笑顔で帰っていきました。」
「大丈夫だいじょうぶ」って,本当にいい言葉。安心に包まれた言葉。平安につながる言葉。一人じゃないって確かめられる言葉。
校長先生からの《だいじょうぶ》を背中に海辺の道を歩いて帰る子どもの姿が見えるようだ。
神様,子どもの大丈夫のための大人の仕事をします。
きみの町に行くよ
きょうは来春,入学してくる高校生とゆっくりと話をした。夢を抱いている美しさに惚れ惚れした。だからこそ,その夢を叶えるように導いていくのが僕の仕事。
よしっ,やるよ!っていう気持ちでいっぱい。
そんな帰り道,いいこと思いついた。「きみの町に行くよ」企画。わくわくしてきた。
これまた,よしっ,やりたいよ!っていう気持ちでいっぱい。
ひまひま星人
講演など、すべてキャンセル。
3月の泊まり、ゼロ。
プロ野球、無観客試合。
暖冬のため、薪割りの必要なし。
ミサ、自宅で祈りを捧げる。
達富、ひまひま星人に変身!
我が事
ちゃんと終わろう。
大村湾を右手に見ながらのJR。そう,つまり,きょうは時津東小学校をたずねる日。
この青い列車が大好きだ。
そして,この小学校の玄関,靴箱,職員室と校長室。
きょうもたくさん語り合った。
のに,語り足りなかったのは,夕方の報道のため。
残念。残念。ざんねーん。と叫びたいくらいの帰り道。
2月28日が最後のいちにちになることに整理がつかないのは子どもばかりではない。教師たちのやりきれなさは推し量れない。報道を耳にした担任たちは涙を流した。
4月の学級びらきにはじまり,3月まで。わたしたち教師は,「どう終わるか」を考えながら日々教えている。
「終わる」というのは,次の学年に子どもを渡すということ。
子どもにとっては,「ぼくたちこの一年間,学びきったよ。」と子どもが胸を張って次の学年に進むということ。教師にとっては,一人一人の一年を一人一人に言語化して贈ることだ。
3月はその時間。そのいちにちが突然やってきた。しかも,明日。
分かる。全部,分かる。だからこそ,やりきれない。
わたしたちの教室が,未来に開かれる教室であるために,明日をちゃんと終わりたい。
ほんとうに残念
たつゼミ,教室のゼミ
松屋,ここはみんなの中に「ある」
(多分)全国どこでもやっている「地域の定例の国語部会」を、天草では「地域で創り出す本気の国語部会」にしている、ということです。これまで見たことがありませんでした。小学校も中学校も本気。一緒にやるからなお本気。
懇親会での「今までのやり方で授業をやっていこうと思えばできるんですけどね。本当にそれでいいのか、って思うんですよね」の言葉が忘れられません。
また、新規採用の先生がベテラン先生に単元の作り方を丁寧に教えてもらっている。そして「この天草を」という言葉も何度も聞きました。
たつログから立ち上ってくるのは「熱さ」だと思っていましたが、ちょっと違いました。お一人お一人の「天草の子どもたちを思う熱さ」が、先生方のお人柄で「温かく」つながっている研究会でした。
天草国語の会のみなさま、ありがとうございました。私にとって伝説の「松屋旅館」は、やはり聖地でした。
きりのくせに
独り身
解決策で解決できるか
《問い》を立て,その《問い》の解決策を練り,試行し,解決を図る学習。
今やあたりまえになった学びの姿だが,《問い》の解決策の練り方を教えているかを見つめ直さなければならない。学習課題では「思考操作」を具体的に提案しているにもかかわらず,「解決策」は単純に考えさせている,としたら,それはもったいない話である。
では,どうするか。
「解決策」を知り,解決のみちのり実感するためには,「(ほぼ)共通の問い」あるいは「教師からの(有効な)問い」をもとに「解決策」をイメージさせ,「解決」を体験させることが有効であろう。
そんなことずっと前からやっていたとおっしゃるだろう。そう,「価値ある発問」とはそういうものだ。「初発の感想から導いたように見せかけた(みんなの)めあて」もそうだ。大切なのは,そこに学び手の切実感をどう重ねるか。
それこそが本物の教師のできる不思議なわざ。
そんなことを考えさせられたきょう。
ふたつの教室。
仲間が仕事をする姿は,こちらまで清々しくなる。
唐津産のいちごさん
関西弁は熱い
日曜日はビアホールで
京都に住んでいたから
ゼミっ子たちの読書会
佐賀指月会
仲間が輝く姿
2月7日。この日を大切に包んでおきたい。そしていつまでも語り継ぎたい日。にがつなのか。
仲間が輝くのは我がごとのようにうれしい。
8時30分。佐賀市立本庄小学校 平田昌志の授業。この学級の子どもの「話す姿」に不自然さはない。話したいから話す。聞いてほしいから話す。話さなければならないから話す。このような本気の「話す」は,思考を自分のほうに手繰り寄せてくる。表現を解き放つ。電子辞書を操りながら,ノートにメモを残しながら,そして,教師の声には素早く的確に反応しながら。教師だけが動かしているのではない授業だからこそ,子どもが自在に思考を深めていく。子ども。その大きな可能性が見える。
9時30分。江里口大輔の授業。「うなずく」と「首をたてにふる」の違いを手持ちの言葉で語る。辞書を使いながら違いを言語化する。そのことがこれからはじまる「ごんぎつね」の読解を作っていくことを知っているのか知らないのか,だけど子どもは言葉を通して自分の考えを形作っていく。そして「ごんぎつね」の6の場面に出会ったとき,「ああ」と教師の導きに目を丸くする。子どもの思考を安く見積もらない教師だからこその45分だ。
14時35分。熊本大学教育学部附属小学校 中尾聡志の授業。前日まで,いや,今朝まで,ちがう,さっきまで練りに練った単元。もしかしたら,まだ考えたりないのかもしれない。単元研究に終わりはない。これまで教えてきた教師の確信とこれまで学び続けてきた子どもの自信。それらが今,ひとつの布になる。「ちがう」「ちがう」「まだあまい」。教師がこんな厳しい声が発するなんて,参会者は思ってもいなかっただろう。だけど,こどもは鮮やかに「だから」「じゃあ」「わかった」と正面から受けている。そう,この教室には厳しさと熱さと柔らかさがある。だからこそ,みんなが心から安心して教師の単元に全身をあすけている。あともう15分あったなら,そう感じたのは,参会者。教師。いや,子どもだ。子どもがもっともっとこの時間が続けばいいと願っていた。中尾は幸せだ。
翌8日。
9時00分。田邊友哉の授業。完全に緊張している。昨日までの彼ではない。この学校に赴任してはじめての研究発表会に飲まれるのはしかたがない。だけど,それが決してマイナスではない。彼は完全に包まれていたから。包んでいるのは彼の学級の子ども。これまでの単元で学んできた実績を,子どもが言葉にして語っている。1年生の語りだとは思えない。学習者としての見事な語りだ。その語りに彼の緊張もとけていく。授業終盤。いつもの学級に戻った。そのあたたかさを見て安堵したのは,小さな教室を埋めた参会者だ。この学校の研究発表会に集まる参会者は,明日からの授業に期待している。だから,こういう授業は授業者もうれしくなる。
10時00分。溝上剛道の授業。授業前の廊下で「ゆうべは眠れたか」と問いかけると「ねてしまいました」の爽やかな笑顔。間違いなくいい授業になる。間違いなく。思えば2年前。彼の附小デビュー。「あんた,聞いとくれ。」という単元から始まった溝上の単元学習。この2年間は並大抵の時間ではなかった。彼の内側から湯水のように湧き出てくる「問い」の量は半端なものではない。源泉掛け流し。その「問い」を一つずつ,確実に解決してきた道のりがきょうの授業だ。見事,圧巻。彼が何歳かは知らないが,僕の教師人生にこのような充実の授業はなかった。彼が先輩中尾の背中を追い続けてきたからこその授業力。見事な師弟関係。花はかならず開く。
仲間が輝く姿は美しい。
授業リフレクション研究会。必ずやります。
もっと素敵な背景で写真を撮ればいいのに、と思われるかもしれないけど、これはわざとのチョイス。
ここは我々の一日の終わりの場所。何度、ここで握手をしたことだろう。
今夜の別れは次回への約束。
授業ライブ
校長は学友
授業するなんて、もう言わない
日々、授業をしている先生はそれだけで尊い。どんな言葉もいらない。授業に身を置く先生に僕は憧れる。
子どもはこんなに素敵なのに、散々な姿でした。きょうの授業。
子どもは学びに向かっているのに、声を共有できなかった。きょうの指導。
この子どものがんばりに大きな拍手を贈りたいのに、当の本人は、あかん、あかん。これでは。
かつての同僚がそばにいたらきっと言うだろう。「たつとみ、もうやめとけ。」って。
西村隆志さんがいたらあきれるだろう。「なにしてんのん?」って。
天王寺附小のヤングたちは「たつとみさん、もう抜きました。」っていたずらな目をするだろう。
清原先生が「錆びつきましたな。」と、大村先生が「指月の指は、」と、おっしゃるに違いない。
単元で教えるときと、45分を教えるときと、そんなことも分からなくなっていた僕を恥ずかしく思うし、情けなく思う。
あかんあかん。錆びついちゃいました。
授業するなんて、もう言わない、きっと。
神様、きょうもいちにちをありがとうございます。
話すことは語彙と言語活動
京都タワーと京都駅
ここにも仲間が
たつゼミっ子
きょうはゼミ。12月23日にいちど書き上げた卒業論文を見直す時間。そして、きょうが最後のゼミ。
ちょっと、しんみり。は気のせいかな。
ゼミで続けてきたゼミ文集「葡萄の木」。これは宝物。ゼミ生の学生生活がつまってる。
卒業おめでとう!はもう少し先だけど、「よくやりました!」な言葉はきょう贈ります。
ありがとう、たつゼミっ子。
京都市が好きだ!
サタセンファイナル
九州小学校国語教育研究大会
授業という仕事
達富です。
緊張,なし。気負い,なし。不安,もちろんなし。妙な考え,まったくなし。心地よさ,満点。
佐賀大学附属小学校の教員のはからいで授業をさせてもらえることになった。僕にとっては何よりもの贈り物である。車は大学において,歩いて附小に向かう。お堀ばたの日だまりを歩きながら,何ができるようになるのか,どんなことをするのか,そしてどのように考え浸る時間にするか。何度もなんども頭の中の黒板を塗り消しながら,歩いた。
子どもの声を聞くと,優しくなれる気がする。子どもの前に立つと,厳しくなれる気がする。子どもと重なるとうれしくなる。
きょうのこの時間の実りが,金曜日のこの子たちの学びに役に立ちますように。
この僕の姿を撮ってくれたのは,かけがえのない仲間である松尾さん。僕と子どもの「瞬間」を見事に残してくれている。ありがとう。
さあ、佐賀の子どもをみんなで育てよう。九州の子どもをみんなで育てよう。九州のみんなで九州をつくろう。
僕に望まれているものはなんだろう。僕はそのことに自分を勘定に入れず浸りたい。
神様,きょうも一日をありがとうございます。
はっぴぃデビュー
「こんにちは,たつとみです。」
で始まったFMデビュー。
1時間の生放送。なんだか,とっても楽しかった。
アナウンサーのノッコさん。僕をラジオの世界に連れてってくださってありがとうございました。さすがプロ。話したいことをどんどん引き出してくださる。調子にのった僕は,ついつい話しすぎてしまう。それが楽しい。はじめての生放送なのに,笑ったり,視聴者さんのメールに相づち入れたり,コメントはさんだり。
ヒロ,メールありがとう。大阪とつながっていることが不思議。
次回は3月。くせになりそう。
そして,時津東小学校。この学校の力は底なしだ。学校が力を付けるということをこんな間近で感じられるなんて,そうそうない。何よりも素晴らしいのは「みんな」ということ。
校内研修で前に立って話を聞いてもらうときのあのなんともいえない気恥ずかしい気持ちがまったくない。「聞かせてください」というのでもなく,「教えてくださいでもなく」。「聞いてください」でもなく,「お分かりでしょうか」でもない。
「一緒にやりましょう」「さあ,今からです」だ。
僕はこの学校の仕事をそばから支えるのでもなく,導くのでもなく,仲間として一緒にやりたいって,本気でそう決めている。勝手に決めちゃっている。
さりげなく研究する環境
鶴,舞い降りる出水。
きょうは,出水。しかも研究会は午後7時から。午前中は勤務し,午後に鹿児島入りした。
友だちのオーかわ君の案内で,念願の長島をたずねた。
東シナ海。そして,島めぐり。
まずは,島娘とツーショット。
続いて,鰤カツバーガー。
仕事前だから,ここは我慢してコカコーラ。
そして,研究会。熱い。出水,熱い。2時間の研究のあとは3時間のがぶ飲み。
勤務を終えて集まる教師。研究後も語り続ける教師。その中に身を置くことが心地いい。
そして,翌日。朝一番の新幹線。出水駅に向かう。
と,目を疑った。えっ!
「1月6日にお見送りできなかったので。お見送りするまでがおもてなしです。」
こんないい男に出会った朝は,なんだか得した気分。帰りぎわ,壮がくれた知覧のお茶。
飲みたいような。このままおいておきたいような。
貸し切りのような新幹線もうれしい。
また,ひとつ。2020年の思い出。
合宿
今年もやってきた。熊本 3 Days 企画。学び浸り,語り通し,問い続ける3日間だ。
一人一人がとにかく単元づくりに夢中になる。自分ができることは何かを問い続ける。この尊い3日間に,僕たちは伸びていることを実感する。振り返っていることに心地よさを感じる。そして,やっぱり,伸びていることをありがたく感じる。
語り合った時間は僕たちを育てる。
熱さ,時々,静けさ。
僕は何を望まれているのだろう。僕ができることは感謝を包んで届けること。
3年の授業は子どもが自分を追い込んでいる。自分たちができることを知っている。自分たちがしなければできないことも分かっている。自分たちができそうなことを楽しんでいる。
1年の授業は好奇心に満ちている。先生のひとことに憧れをもっている。「わたしはここにいます!」って,みんなが先生に声を届けている。
6年の授業は自分を許そうとしていない。もっとできることを知っている。もっとやりたいということを隠さない。だから,みんなが高め合っている。
そんなとき,言葉にすることって,とっても大事なことなんだよ,っていうメッセージを届けた。担任がすぐに「きょうの自分にプラス1」という掲示板に残した。僕は,いたずらのように,その紙に手書きを添えた。
そして,少しだけ,みんなの学びに言葉を添えた。
学びを支えることは難しい。だけど,このことを仕事として選んだ自分は間違っていないと思っている。僕は子どもの幸せのそばにいたい。
この仲間も同じ気持ちだ。
さあ,大きな声で笑おう。大きな声で誓おう。大きな子で子どもの名前を呼ぼう。
この三日間にありがとうを贈ります。
そして,この三日間の僕を元気にしてくれたいつものうどん屋さんに感謝です。
神様,三日間,ありがとうございました。
お帰り
薪づくりで自然と対話
宛先
宛先。それは手紙やメールを届ける先。届けたい相手やその場所。
社会言語学でも、宛先性(アドレス性)という用語はよく使う。発話の先のことだ。
手紙ではなく発話のアドレスはひとつに限定できない。話し手もアドレスをひとつに定めず発話することがある。
聞こえてしまった限りは、自分へのアドレスでなくても反応することがある。聞こえていても、アドレスが自分ではなければ受け止めるだけでも構わない。
翻って、自分へのアドレスの発話に反応できているか。的確な内容をふさわしい話し方で返せているか。
そもそも、自分へのアドレスと気がついているか。
アドレスとして僕を選んでくれる人がいるなら、僕が「あなた」に聞いてもらいたいように、僕は選ばれたアドレスとして、ちゃんとその声を大事にしたい。
アドレスとして選んでもらえること。教師はこのことをあたりまえに感じてはいけない。
神さま、きょうも僕に与えられた仕事をきちんとします。
下駄を履かせたからこそ見せられる憧れの風景がある
学習に夢中になっている子どもは,それまで使ったことのない新たな言葉を使いたがる。そんな事実について,昨日,ある原稿にこんなことを書いた。
作品を一読して「温かい気持ちになる」という感想をもった子どもがいる。その子どもに「温かさ」ということばだけで立ち止まらせるのではなく,自分のもった「温かさ」の質や程度を確かめさせ,他の言葉で表すことができないかどうかを検討させる。「温かさ」では十分に言い表せないかもしれない。「読者としての自分」の読解にふさわしい言葉を集めさせ,比較させ,吟味させ,そして選択させる。そんな時間があってもいいじゃないか,という僕の考えだ。
・・・・・・・・・・・・・・
生徒たちは、「盆土産」の温かさを感じる描写や言葉を選び、その温かさを他のどのような言葉で言えるのか、というそれぞれの《私の問い》を立てます。自分が選んだ言葉はどの文脈や描写から導かれているのか、それはどんな言葉で表せるのか、なぜ自分はその言葉で表さなければならないのか。自分の解釈を言い当てるふさわしい言葉を見つけることは自分の読解をもっているということです。子どもは奇抜な言葉を使いたいわけではありません。自分の大発見を平凡な言葉による表現で済ませたくないのです。
(中略)
一方で、『温かさ』という言葉を他の言葉に言い換えさせることに否定的な考え方もあるようです。洒落た言葉を使うことだけに意識が向き、実際は深い読解になっていないという指摘です。確かに辞書で調べたことをそのまま写すだけという姿はよく見られます。言葉の意味をしっかり理解しないまま、たまたま出会った言葉を安易に使ってしまっていることも少なくありません。しかし、語彙学習初期に見られるこのような姿は、語彙学習を継続していく中で見事に解消されます。新しい言葉を使いたがる時期から、使いこなしたくなる時期へと子どもは成長していくからです。むしろ、そのような意識に高めていくことこそが教師の仕事です。質の高い語彙学習は継続していくことで実現します。子どもは新しく出会った語彙を使いたいのです。このような子どもの成長に対する後ろ向きな指摘は、子ども理解を怠った軽はずみなものです。年間計画を立てた語彙学習を継続している教室においては杞憂のものです。
・・・・・・・・・・・・・・
僕は京都に育ったせいか,新しいものはすべて山の向こうから来ると思っていた。京都は三方が山に囲まれているから。だから,京都駅に立っているだけで,新しい自分になれる気がしていた。
そう,新たなものをふれることは今の自分を見つめることになる。もちろん,いにしえの京都のことも大事にしていたし,大好きだった。
新たな言葉にふれるということは,新たな考え方を取り込むということだ。思考の結果を言葉にすることもあるが,言葉が思考を引き寄せることも多い。
これまでの言葉を使いこなし,使い切ることもたいせつなことだ。
ただ,新たな考え方でこれまでの言葉を見つめ直すことで,これまでの言葉をもっと理解し,新たな言葉との関係に気づき,新たな言葉を自分の中に取り入れ,「意味や価値」創造することができるようになる。
子どもに言葉の下駄を履かせよう。ちょっと慣れない言葉にふれさせよう。その言葉を使ってみさせよう。
下駄を履いたら,塀の向こうが見える。壁の向こうに行きたくなる。新しい景色が見える。知らなかった匂いがする。耳を傾けたくなる音色が流れている。見たことのない色が広がっている。
だから,「よいしょっ」と壁をのぼる。ぴょんと向こう側に飛び降りる。
そのとき,きっと下駄は脱ぎ捨てられているに違いない。いつまでも教師の下駄を履いている子どもはいない。壁の向こうの大地を裸足で駆けていく子どもが目に浮かぶ。
私たちの仕事は,下駄を履かせて,塀の向こうに憧れさせ,壁に上らせてぴょんと飛び降りさせること。そう,「自分で下駄を履いて,自分で脱ぎ捨てたんだ。だから,自分でこんな大地を走れるんだ!」と思わせることができたら最高だ。
往復書簡
前略
瀧川さんのおっしゃる通りです。人と人とがつながっているからこそ授業研究が広がるし深まるのだと実感しました。「このワークシートを使えばだれでもうまく授業ができます」「この授業展開ならだれでもできます」という研究会ではない。
達富先生のお考えは私たち仲間の実践のまん中を貫いているけれど、それぞれの教師の固有性によって、人柄によって、単元が作られている。何を大切にする先生なのか、大事なことをいう時にはどんな表情になる先生なのか、どんな声で語る先生なのか、そういうことを子どもが受け取っていることが、教室ではとても大事だと思います。それは今までも分かっていたつもりです。でも、今回の研究会では、教師同士がそういう人柄も分かったうえで互いの授業研究から学び合うという経験を初めてしました。
一言でいうと感動です。
達富先生と前田先生が響き合っているからだと私は思いました。そして、私たちもそれに共鳴しました。
長くなってすみません。後からじわじわくる感動です。
佐賀 田﨑信子
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こんな往復書簡をもらうと,「集い」をやってよかったなあ,としみじみ思う。私たちの学びの実りがきょうからの授業に役立つことを確信する。ほんの少しだけでも。
長崎は嵐。暴風。この風の中,大きなランドセルをからって学校に来る子どもを大きな両手で受け止めるのが私たち教師の仕事。
葡萄の木
佐賀大学,達富ゼミでは週刊のゼミ文集を発行している。タイトルは「葡萄の木」。小学校で担任をしていたときの学級通信と同じ気分だ。異なるのは,毎週,ゼミ生のエッセイを載せていること。
2020年はじめの一枚は明日の発行予定。その編集のために2019年の最終号を読み返した。
巻頭言というほど大それたものではないが,僕の文章は次の通り。
・・・・・・・・・・・・・・
年の瀬。今年一年を振り返る。このことがなければ翌年の抱負が現実味をもたない。私たちの明日は、今日までの続きであることを実感する。◆そう言えば「早寝早起き」という言葉もそうだ。一日という単位で見るなら「早起き→早寝」のほうがよさそうだ。しかし「早寝早起き」。これは、きちんと寝るからこそ、ちゃんと起きられるということ。◆さあ、みなさんの今年はどうでしたか。どんな来年を創っていこうとしていますか。そのことを「言葉」にすることが大事です。思っているだけではなく言語化する。言語化することで自分でも気づかなかったことを自覚できるからです。簡単なことです。書けばいいのです。◆達富ゼミでは「葡萄の木」を通じて書いてきました。みなさんが教師になるなら、通信は欠かせません。生涯、書き続けることが仕事になります。だからこそ、書くことを厭わず、書くことを楽しむのです。間違ってはいけませんよ。「楽しいことを書く」のではなく、「書くことを楽しむ」のです。そのためにも、自分の書く力を伸ばしてください。それは、振り返る力であり見通す力でもあるのです。(Y2)
・・・・・・・・・・・・・・
昨年をどう振り返るか。昨年をどう終わるか。2020年になってからのこの一週間。未だ昨年を振り返っている僕は,今年の見通しを立てていない。そろそろ2020年をはじめなきゃ。小学校も明日から始業式だし。
ということは,まだまだ僕は小学生気分というわけだ。友だちは校長先生なのに,僕は小学生気分。
それが案外,気に入っている。
京都からの便り
達富先生
本当に本当に素晴らしい会に参加させていただき、誠にありがとうございました。
大会委員長の前田壮一先生にご高配いただき、参加が可能になり感謝しています。
前田先生を筆頭に、鹿児島のスタッフの方々は全員素晴らしい方ばかりですね。
本当に素晴らしい会でした。
最後は人。
先生がいつもおっしゃっていたことです。それを現実にされているのを目の当たりにしました。
この集まりはなんでしょうか!
京都にいらっしゃる時よりも勢いが増しておられます。
維新という熱さを感じました。
本当に感激です。
今宵の会に最後まで行かせていただきたかったのですが、残念ながらお先に失礼いたしました。
魔王、磨き大島と、皆様お飲みになれない焼酎までいただいて、ほくほくして新幹線に乗っています。
地の運転手さんに脇道を通っていただき、駅でお土産を買う時間もいただきました。
九州のお蜜柑を味わいながら、新幹線に揺られています。
味わい深い物は手間が必要、手間がいるからこそ、味わい深い。
そう思いながら、お蜜柑の種を出しつつ、単元学習を振り返ります。
それにしてもなんですか。この質の高い研究会は。
振り返るたびに圧巻の研究会です。
さて今から1000キロメートル。最後の乗り換えの出町柳は終電ですが、長旅の間、じっくり振り返りたいと思います。
本当に本当にありがとうございました。
これからも、参加させていただきたいです!
何より、人が魅力的ですねえ。それにつきます。そこが魅力です。
今ごろは二軒目か三軒目か、皆様と親交を深められていらっしゃるところ長々と失礼いたしました。
つい、興奮が醒めず。
失礼いたします。
瀧川賢治
鹿児島に集う
「九州 教室の声に学ぶ会 ご参加の先生方 バスはこちらです」のサインを持って出迎えてくれるのは僕たちの仲間。
会場には行儀よく案内が掲げられている。
受付前には,壮!
窓の外には桜島。
会場には静かな熱さが動き始めてる。
司会進行役もその時を待つ。
さあ、始まる。
こうして集うことがあたりまえに感じてはいけないんだけれど,仲間の堂々と,そして楽しそうに,だけど謙虚に語る姿を見ると,場を重ねることのたいせつさと切実に感じる。
西原さんの単元びらきの「授業ライブ」。企画上のさまざまな制約の中,みごとにライブをしてくださった。これで,「単元びらき」の空気は共有できた。
質問もみごと。語り手の語りたいことをいざなう質問は,会を盛り上げる。会を成長させる。もちろん質問している本人がいちばん得をしている。
校内研究の取り組みを語る竹なっちゃんの姿は,それはそれは,いきいきしてる。
とりあえずやってみましょう!これはこの小学校のキーワードだ。
成果も課題もコンパクト。
大島紬で語るのは,浩。
僕も調子に乗って,感想を少々,のはずが,熱く語ってしまった。
私たちの学びの実りが明日からの授業づくりの役に立ちますように。
さあ,がぶ飲み。
みんないい顔してる。ビールはもちろんサッポロ★。焼酎は魔王に佐藤に喜界島。
町に出ても仲間の語りは続く。曇ったことなどひとつもない。
僕はほんとうにみんなのことを好きだと思ってる。これが片思いでありませんように。
神様,きょうもありがとうございました。愛されたように。
そして,一夜が明けた。が,一人たりない。そう,壮がいない。粗相野君と筆ペンの扱いに詳しい末の友が鹿児島を案内してくれる。
壮,何処におると?
また来るけん。ありがとう,鹿児島。
家に帰ってさつまあげ。
しばらく,鹿児島ロスやなあ。
明日,鹿児島
明日は「九州 教室の声に学ぶ会 鹿児島の集い」の日。心待ちにしていたこの日。九州の仲間が集う。僕はその集いのほんの片隅で仲間の学ぶ姿をしっかりと見届けたい。
九州の仲間に感謝!
ちょうどいい一年になりますように
年明け,考えた。年末に読んだ鷲田清一の「語りの手前で」に立ち止まっていたからだ。
鷲田曰く,
《わたしたちは待つことに焦れて,ついことばを迎えにゆく。「あなたが言いたいのはこういうことじゃないの?」というふうに。語りにくいことをのみ込みかけているときに,すらすらとしたことばを向けられればだれしもそれに飛びついてしまう。語ろうとしてその語りがじぶんの塞ぎをうまく言い当てているか,そのことばの感触をいちいち確かめながらしか語りえないひとにとって,すらすらした物語は一条の光のように感じられる。そしてそれに乗る。じぶんでとぎれとぎれにことばを紡ぎだす苦しい時をまたいで。こうして,とつとつと語りはじめたその能動性の芽が摘まれてしまう。ことばを待って受け取るはずの者のその前のめりの聴き方が,やっと出かけたことばを逸らせてしまうのである。》
『臨床とことば』,河合隼雄・鷲田清一著,朝日文庫
達富考える,「すらすらとしたことばを向けすぎてはいないか」,「能動性の芽を摘んでいないか」,「前のめりの達富が,やっと出かけたことばを逸らせてしまってはいないか」。
さじ加減ということばがある。結果として加減がうまくいったかどうかは分かるが,「今,その時」は少なめにして継ぎ足すしかない。出汁の塩加減も言葉による説明も度が過ぎたからといってやり直すわけにないかないんだから。
学び手(これは,子どもであっても教師であっても)に「ちょうどいい」のはどのような加減だろう。早すぎず遅すぎない集合のためには「5分前集合!」と習った。こういうのは分かりやすい。小学生以来,僕は5分前が基本だ。
では,学び手と対峙するときのさじ加減。どこまで語るか,いつまで待つか。何を語って誘うか,どのように待ってどう語らせるか。
この冬はじめて霜の降りた元旦,お雑煮用のお餅を焼く七輪の炭を組み直しながら考えている。