ちょっとしたことを綴っておこう。モレスキンのノートとモンブランの万年筆、時々たつログ。
たつログ
えとせとら
のんきそうじゃないか
さあ行きましょう
勉強をするというのは何歳になってもいいものだ。小さな自分と柔らかい自分に出会える。
さあ、行きましょう。
明日は、大学で教員免許状更新講習(中学)。
クリームパンを旅に連れて
麦秋
青い空の下で
こんな日は遠回りして帰ろう
人が好きやけん
言葉はどこまでも
天草は思ったより近くて
僕はいま
駅に向かう車の音楽。僕のスマートフォンにつながったスピーカーからはQueen。
今朝の心境とは少し違うかと感じたんだけど、そうじゃない。
We are the champions – my friends.
そう、まさにそう。
And well keep on fighting – till the end.
やるしかないんだ。時間がないんだ。
僕はいま、東に向かう列車の中。
届いた写真
ジョー,復活
愛に包まれ祝福を
K先生と歩いた道
あざみ
令和のしごとはじめ
半年ほど温め続けていたことがある。
昨年末、「調」という漢字の勉強をしていた。「調」を「ととのえる」と読むことは知っていたけれど、「調」を深く調べれば調べるほどこの漢字に惹かれていく。
調整、調理、調達、調律。
「調」、いい漢字だ。深い意味だ。この漢字を使って論文を纏めたくて仕方がない。
以来、練り続けていた構想を綴ってみた。使いたい言葉がきっかけで思考が立ち上がってくる。言葉が僕を形づくる。そんな言葉に出会うと贅沢な気分だ。
連休中、5月1日と5月5日は机に向かう時間をつくった。そのかいあって、令和のしごとはじめは調子よくすべりだした。
ととのえるというのは、整理整頓だけではなく、必要なものを必要なときに必要なだけ必要なように揃えること。まさにこの瞬間をやりがいのあるようにこしらえること。
調えられる大人になりたい。
神様、きょうも一日をありがとうございます。
さあ、子どもの日
かつて子どもだった大人の日
さあ,明日は「子どもの日」イブ
どこまでもひろがれ
新しい時代を生きる
これまでに感謝、これからに感謝。事実を信じ、過去を許し、新しい時代を悠々と航っていきたい。
神さま、ありがとうございます。
僕はもう少し愚直で小さな自分であり続けようと前を見ています。
新しい明日に祝福を!
陶器市
5月の連休といえば陶器市。今年もなかなかいいものを見つけた。これで明日からの庭食べが愉しくなるはず♪。
プロ野球はしばらく見ないことにする。
雨に唄えば
庭仕事
さてと,
お誕生日おめでとう。
クリスマスよりもお正月よりも復活祭よりも誕生日。僕は誕生日が好きだ。この日ばかりは、一日を胸張って、深呼吸して、きょろきょろしないで少しばかり背が高くなった気持ちで過ごすことができる。
きょうは僕の大好きな友だちの誕生日。
おめでとうの言葉では物足りない。だって「ありがとう」の気持ちも多いから。「よかった」って気分も加えたいから。
いろんなことを、いろんなことが、そして、もっと大切なことを経験し、実現し、夢見ることを教えてくれた友には「ありがとう」も「よかった」も大切だから。
「おめでとう」って、「ありがとう」に似てる。「よかったね」に支えられてる。きっとそう。
同じ時を歩むことができた奇跡に感謝します。そして、これからも同じ轍を創っていけることに感謝します。なにより、出会えたことに感謝します。
本多ひとみさんに祝福を。
サプライズを企画してくださったタケなっちゃんや花ちゃんに感謝。
とにかく友
今夜はあくゆう。人懐っこい顔が手強い。
壮は今夜も元気。部活での心残りな出来事がますます彼の心を美しくする。壮の口から出る言葉に生徒へのネガテイブキャンペーンはない。
ヒロシの言葉への頑なさが僕は好きだ。「言葉」が話題になったときばかりはヒロシがかっこよく見える。
粗相野。これほどまでに丁寧な男はいない。Queenが好きなのかThe Beatlesが好きなのかは不明だけど、生徒が好きなのは間違いない。今夜のレノンのTシャツ、似合ってたよ。
むらながさん。生徒の見方や考え方についての誠実な観察は圧巻。そうなんだよね。そうすればいいんだけどね。と、みんなを教師一年目の姿に戻してくれる。
鹿児島の友とその友と、そのまた友との出会いの夜は、僕が鹿児島にいるという事実。
ありがとう。鹿児島の友。鹿児島県のあくゆう。
翌日の中学校の教室。
学ぶ姿はいつも美しい。
僕も中学生の前で,
ありがとうの気持ちだけだ。もうしばらく僕は鹿児島に浸りたい。
感謝とよろこび
ノートルダム寺院
心痛みます。
好きなものはと問われれば
椎茸、枝豆、高野豆腐。
これさえあれば毎日ご機嫌。
今夜は中尾にもらった熊本菊池の椎茸に舌鼓。
我がよき友よ
#NAGASAKI こいつがともだち
門司港
斉田さんの眼鏡
斉田さんの眼鏡はどこにいったんやろう?
天草、そして島原
天草に学ぶ
午後6時。定刻に集まる。上天草から下天草から。牛深からの赤城ィは着替える時間ももったいない!と、ジャージのまんまだ。抱きつかないけど抱きつきたくなるいい男だ。抱きつく代わりに背中を押してやる。
「天草ですね。」「天草です。」「顔なじみになりました。」「私たちもです。」「深まりましたもんね。」「なんかできそうな気分です。」
前回、熱く熱く語った若い女性教師が同じ場所に座ってる。マスク姿が心配だけど花粉症かな。体調は悪くなさそう。小さな子どもはどうしたんだろう。そんなことを思い巡らせている僕に「この言語活動がしっくりきません!」の声。
僕が学んでいる。僕が育ててもらっている。
この春、定年退職を迎えた僕の大好きな大ベテランから甲子園のベンチ入り経験者の若手まで。新しい時代が来るのを待っているのではなく、こちらから迎えにいこうとしている天草の教師と一緒に今年も僕はここに通うつもりだ。
長崎の鐘
山桜の向こう
自分の授業に学ぶ
球春
陽春
仲間と迎える春休み
前の学年でもない。といって、次の学年でもない。春休みは無所属のようで気楽であり、どこにも頼りがないたんぽぽの種のよう。
これは僕の中学校3年生の時の作文。
きょう。春休みはじめての日曜日。佐賀の教師仲間と集まった。月例の指月会。
4月の第1単元に向けてたんぽぽたちと一緒に学んだ。
おーい、ぽぽんた!って呼びかけたくなるほど、仲間の顔は先を見ていた。
球春は相浦にも
「達富さん,きっと市立和歌山に感動していることと思います。」とか,「ひいきの高松商の見事な姿に春のビールがすすんでいることでしょう。」とか,午前中から僕に届くメールは球春の便り。みんな僕が甲子園で酔っていると思っているらしい。
ところがどっこい。
僕は部員10人ほどの野球部の試合に来ている。守りのときの三塁側ベンチはがらんとしている。といって、一塁側もそれほど多いわけじゃない。スタンドに鳴り物はない。
ここにも球春。
おい,球児たち!イチロー選手がバットを置いたって知っているかあ。お前たちも一塁ベースまで全力で走り抜くんだぞ!塁間は甲子園もシアトルも相浦も27.431メートルなんだから。
帰り道,夕焼け。
僕の携帯電話には写真がいっぱい。坊主頭の高校生,九州の仲間,駅前の蕎麦,商売道具のかばん,家の近くの夕景など,いろんな写真がつめこんである。
神様きょうもいちにちをありがとうございます。
甲子園も相浦もシアトルも,明日,天気になあれ!
イチローが
薩摩の春の風,今,此処に立ち 涼風
我が家の山桜が薄紅を空に透かした春分の日。鹿児島から壮と隆啓がやってきた。
彼らを迎えるのを楽しみに佐賀から昌志と長崎からキリもやってきた。だから僕は鯉の幟を空に泳がせた。
カヤックも楽しめるのがPENNY LANEのじまん。
いつものようにサッポロ黒ラベルが,のはずが,今回はちょっと違った。相手は薩摩男。ビールは2,3本ですませ,芋焼酎にうつった。本当に,あっという間に一升瓶がごろりと空になった。土産にもらったはずが,我が家の酒棚に並ぶ前に空いた。庭だけでの披露になってしまった。
飲んで騒いで,教室を語り,友を語り,仲間を誇りに思う。これが僕たちの飲み方。
お酒の隙間にほおばる「いちごさん」。これがまた最高に美味い。そして,鶏飯。壮の奥方が早朝からもたせてくれた逸品。僕たちは頬張るように流し込むように,だけど,しっとりとかみしめながら薩摩の味に酔った。あの雨の桜島以来の前田屋の鶏飯。美味い。本当に美味い。
帰り際,「鹿児島からの日帰りなんて,たいしたことないですよ。」の二人のひとことがうれしい。学年末の気忙しさくらい僕も知っている。だけど,こうして集まってくる。僕は,どんな時でも仲間と一緒に居たいと思っている。連中に愛想を尽かされないように気をつけなくっちゃ。
またおいで。
5月の10連休は「みんなで黒ラベル1000本飲もうウィーク」をするつもり。
薩摩と対馬の焼酎があと3本,唐津の苺がもう1盛り。明日からゆっくりと味わわせてもらうよ。壮,隆啓,そして昌志とキリ。ありがとう。かならずまたおいで。
薩摩の春の風,今,此処に立ち
これは浩(涼風)の句。
わかばちゃんの春
この道を通って7年目。佐賀大学でのはじめての年の春。登校中の小さな1年生を見た。そう、車の中から見た。勝手に「わかばちゃん」と名付けた。
大きいランドセルと大きな帽子。わかばちゃんが見えない。荷物と洋服が歩いているようだった。
7時18分。決まったように道を渡る。横断歩道のない農道は誰かが停まってくれないと渡ることができない。僕はわかばちゃんを渡らせるために、7時18分にそこを通過できるように運転を調整した。
僕だけじゃない。誰もがわかばちゃんを渡らせるために一旦停止をしたかったに違いない。僕たちはおじさんドライバーは競って停まった。
雨の日は傘が歩く。写生会のときは絵の具かばんが歩く。水着やリコーダー、図画工作で使うんだろうか空き箱やペットボトルも歩く。学期末は、それら全部が歩いて帰ってくる。
あれから6年。
卒業式の日。大きくなったわかばちゃんは新しい服に身を包み、自分の目で確かめてお辞儀をして道を渡った。競って停まろうとするおじさんを先に通らせ、小走りに渡るわかばちゃん。
卒業おめでとう。
つぼみ,ふくらむ
静かな土曜日
ちいちゃん
このごろ元気
8年前のこの時刻。僕は京都市上京区の仁和小学校で授業をしていた。手応えを感じた授業だった。
先生がたと協議をし、気持ちよく街に出て紫明小学校の友人と秋刀魚の塩焼きを肴に乾杯した。その店のテレビに映っていた映像で地震を知った。
情報社会なのに、このお粗末で遅い動き。僕は恥ずかしいやら情けないやら悔しいやら。以来、何か震災復興に乗り遅れた気持ちが残っている。
だからといって、常にテレビやラジオを気にしたり、ネットニュースをチェックしたりするような情報依存になりたいとも思っていない。
ただ、空や風を感じ、全国に生きる友や地域に暮らす仲間と「今」を共有したいと思っている。リアルタイムでなくてもいい、葉書のスピードがいい。僕は「この頃、近頃、ここ最近」元気にしている。だから、たぶん、「もうしばらく」幸せだと思ってる。
神様、きょうも一日ありがとうございます。
下関球場
仕事帰りに100球
教室にいるということ
「達富先生!」という声。それだけで十分なのに,きょうは給食まで一緒だった。
「質問があるんですけど。」
「なに?」
「好きな食べ物は何ですか?」
「とびっきり辛いカレーです。」
という日常生活から,
「先生は努力をすることはどんなことだと思いますか。」
「誇り高く生きていくことだと考えています。」
「先生は自分自身に漢字を贈るとすればどんな字を送りますか。」
「《許》という字を贈りたいです。むずかしいことだけどね。」
という人生論まで。
これらが一緒にあふれているのが教室。だから教室は尊いんだ。
「誇り高く生きる」「許」「信」,求められたノートにこんな言葉を書いた。
書きながら,もっと誇り高く生きなきゃ,って何度も何度も思った。子どもの瞳が僕に語っている。子どもの声が僕の背中を押す。僕は,もう少し教室にたたずんでいたいと思っていた。
神様,きょうも一日をありがとうございます。
いまいちど
四万十川を上流に向かって車を走らせる。目指す学校は全校6人の小学校。
5年生と3年生の女の子二人が肩を並べて学んでいる。
本を読むのが大好きな5年生とその女の子とおしゃべりをするのが大好きな3年生。となりの複式学級からもまあるい声が聞こえてくる。
こういう学び舎に身を置くと、僕は自分の体たらくが恥ずかしくなる。
どんな教師になりたかったのか。こんな教師になりたかったんだ。
それなのにどうなんだ。何に心を動かしながら生きているんだ。心は錆びていないか。磨いてきた力は衰えていないか。まだまだ磨き上げるつもりはないのか。子どもの声は聞こえているのか。聞き逃している声をどうしてるんだ。
神様が問う。
雑な仕事をしてはいませんか。あたたかい仕事を残していますか。人の声の中で生きていますか。明日が見えていますか。明後日を創り出そうとしていますか。
小さな小学校が僕に語る。まだ間に合いますよと。
こんなはずじゃなかったと、僕は小さくなりかけた自分を言葉にする。
四万十の川の水は何も知らないのに何もかもお見通しのように僕の前を通り過ぎる。
いまいちど、子どもの声の中で生きてみたいって、そう思っている。
心見つめさせてくれた四万十の旅。
沈下橋と僕の鞄,向こうには菜の花,そしてふりそそぐ春の陽。この切り取られた景色を見るたび、僕は心あらたにいられそうな気がする。
僕はいま長崎に向かう飛行機を待っているところ。一昨日の僕と何一つ変わっていないように見えるけど、ちょっと美しくなった僕になって長崎に帰るつもり。ちょっとだけ、教師になったばかりの時の僕の心に戻って帰るつもり。
飛行機の窓から見たかつて働いていた大阪市の灯り。25年前、僕はここに居た。この明るすぎる街。きょうのふたつだけの机が並ぶ教室。どちらにも子どもが生きている。子どもと教師がいる限り、そういる限り。
神様、きょうも一日をありがとうございます。
桃の節句は四万十で
PENNY LANE でサッポロ!
さて、がんばりどき
こんな夕日に照らされて
行脚
話を聞いてくださるということ
きょうは京都教育大学附属小学校での研究会。地元京都だけではなく、兵庫や大阪、和歌山あたりからの参加者もあると聞いている。
交流が広がると思うと胸が高鳴る。佐賀平野を走る特急の揺れも軽やかだ。さあ、博多で朝うどんを食べて新幹線!
あたりまえに思ってはいけない。僕の話を聞いてくださるなんて、もったいないこと。
そのことを忘れてはいけない。
そして拍手をくださるなんて。忘れてはいけない。
ありがとうございます、を忘れるような日がきたら、僕は人前に立たないことにする。
と、来てくださったかたの中にかつての達富ゼミ生!うれしい!
感謝ばかりの土曜日。
もちろん、京都の夜も最高!
水仙の向こうは春がすみ
あくゆうから春の便り
夕方に仲間が集うということ
時間をもてあましている人なんているわけない。みんな時間をやりくりしてるんだ。そうしてでも集ってくる。これが「西海の会」。
授業力を高めるには,「時間ができたら研究する」では無理。「研究するのがあたりまえ」でなきゃ無理。西海の会はあたりまえをさりげなくやろうとしている。だから美しい。
発問といってもいい。問いといってもいい。課題といってもいい。
ただ,これらのものが「教師からのもの」だけではなく,「子どもたちから」のものになりたい。そう,こどもたちが自ら「私の問い」を立てるような単元。
そのためには,まずは学習課題から。とうことで,今夕はみんなでワークショップをした。もちろん盛り上がる。
参加者からの「なるほど!」の声が,また僕を西海好きにさせる。(きょうは花粉症ではながぐずぐずしていてごめんなさい。)
もう一度,授業をみるということ
きょうは授業リフレクション。先日,2月8日の授業をもう一度,みることにした。
参加者が一人称で,そして,授業者が三人称の立場で授業を語る。この瞬間が僕たちをひとまわり大きく育てる。
(^^)/ http://kokugo-kumadaifuzokusho.blogspot.com/2019/02/blog-post_19.html?m=1
続きは3月下旬に熊本で!と約束して,佐賀の夜は更けていく。
神様,きょうも一日をありがとうございました。
巣立ちゆく4年生
僕は今、天草へ
研究授業前夜はポッキーで!
くたびれました。
メールなんて
ゆうべ、なんとなく周囲とのちぐはぐな感じに気がついた。
原因は僕のメールの状況。どうやら二日前くらいから僕からのメールがみなさんに届いていないようだ。
受信はできる。こちらには間違いなく届いている。しかし、そのメールの返信がみなさんに届いていないようだ。もちろん新規に僕から送ったものは届いていないらしい。
そりゃあ、ちぐはぐになってしまうはずだ。
メールを届けられない焦りとメールを届けることができなくても何とかなる妙な安心感。だけど、メール社会から取り残された寂しさ。いや、メールに頼らない生き方ができるという妙な自信。
ともかく、みなさん。僕はメールの返信もしていたし、新しく届けようともしていたんですよ。
どのメールが届いていて、どのメールが行方不明なっているのかを定めることもできませんが、僕はちゃんと普段通りに過ごしていましたし、すべてのメールに返信していましたよ。
だけど、とりわけ、江里口、平田、中尾、溝上、藏田へ応援メールを届けられなかったのが残念。
神様、きょうも一日をありがとうございます。
春の問い
さくばんの熱さを置いてきたかのような朝。桜島は春をたたえている。釣り船までがのんきそうに見える。
いいことありそう。
「少年の日の思い出」や春の問い
俳人 涼風(彼もまたあくゆうの悪友)の時を捉えた粋な句が迎えてくれる。
僕たちの自慢は授業で語り合うこと。ホンモノだ。
何処に行ってもそれぞれの「教室」が迎えてくれる。これをあたりまえと思っちゃいけない。
教室では中学1年生が学び回る。
はじき出されたあくゆうが廊下で語る。いい風景だ。
あくゆうの会は足掛け5年。その軌跡は間違いない。この軌跡の中に今年がある。この1年。僕たちは跳ねた。
この言葉だった。この言葉に笑いながら、だけど心に決めた日があった。
とにかくやる。つべこべ言わずにやる。
きょうの教室にそっと貼ってあったこの言葉に僕たちの足跡を見た。
やっぽり、いいことあった。いい会だ。
と、帰り際、これまたあくゆうの悪友の粗相野くんからのお土産。種子島の鉄砲鍛冶屋の匠が作った鋏。一生、大事にするよ。
神様、きょうも一日ありがとうございます。
集うということ
若い連中が好き
仕事も終わったし、さあ
比叡山からのやさしい風は明徳の学び舎へ
きょうの京都は春の日差し。比叡おろしを期待していたんだけど、やはり暖かいのはうれしい。ほっと山を見上げる。
これから友人の学校の研究発表会。期待に応えられる講演にはならないかもしれないけれど、語りかけてくる。
さあ,京都市立明徳小学校の研究発表会。こんなに多くの教室の授業を一気に公開できる学校はそんなに多くない。学級をまたいで学年で取り組む総合的な学習の時間。学年をまたいで取り組む国語や道徳の授業はどれも教師たちの熱が伝わるものだった。ひとこと,「丁寧な授業」だった。授業前にまとめられた「主体的・社会的な学びを通して,言葉の力を育成し,深く学ぶために」と題して12枚にまとめられた「授業記録(案)」は圧巻だ。研究主任の地道な取り組みはもちろんのこと,それを影で支えている教頭先生,そして,職員室の力がなければできる仕事ではない。
教室の移動に付き添ってくれる校長の背中がそれを物語っている。同級生の校長に「よかったなあ」と声をかけるのは失礼な気もするし,「よくやったなあ」はさらにえらそうだし,「いい教員と働けてうらやましい」と伝えた。適切なことばが見つからないことがかえってうれしいのはなぜだろう。陳腐なことばを贈りたくない。
昨年に続き,もちろん原稿をもたないスタイルの校長挨拶もよかった。京都の学校史を2分でまとめ,本校の沿革を1分で語り,さりげない言葉の中に職員室の力を称えているこの校長は僕の友であり,自慢の男だ。
注文をつけるとすれば,講師紹介が下手なこと。「きょうの講師の達富洋二先生は,,,,」なんて言うなよ。と思いつつ,舞台を挟んで右と左に座っている距離を不思議に思った。学生時代を知り尽くしているだけに。
僕の講演は,国語にとらわれない「言語能力」。算数科や社会科の教科書を取り扱って「ことばの力」を育てることについて語りかけた。結果はどうだったろう。
体育館を出るまで続いた拍手を僕はうれしくも,熱くも,尊くも,そして,それに慣れちゃいけないと思った。
ありがとう,雅文校長先生。
大学散歩
自分のことばで語ることが大事
50代のしごと
お正月以来の関西。きょうは北大阪の八重の会の勉強会。
昨日の九州小学校国語教育研究大会でも仲間が素晴らしい授業したと聞いた。「子どもが学ぶ」、「子どもが考える」ということを丁寧にしさえすればいい。ただそれだけのこと。
八重の会の仲間とそのことをちゃんと確かめてくる。
博多駅にななつ星。なんだかいい予感。
約4時間。たっぷりとっぷり単元学習に浸った。今回はこじんまりした人数だったからこそ、余計に深い話し合えたという実感がある。みんなもそうだったと思う。次は2月。京都の研究会と合同開催。
九州に帰る前に大学時代の友人とのひととき。帰りの新幹線の雪が心配だったけれど、(ほぼ)同い年というのは妙な安心感がある。あの時の呼び名のままで語り合うというのはいいもんだ。途中のトイレの鏡で自分の顔を見なけりゃ気分は20代のまま。
自分の身体の不具合と病院と薬と親の話はしないでおこう!と言ったにもかかわらず血液の数値とか人間ドックのお医者のみたてとか、景気の悪い話も気にはなる。あいつは元気だとか、あいつは行方知れずだとか、イギリスに居るとか、何度目の結婚だとかもう逝ったとか。これはこれで盛り上がるから仕方ない。
元気でな。お前もな。無理したらあかんよ。洋もな。徳こそ。雅文はちょっとだけ若いし安心やな。しっかりな。
京都の夜に雪が降る。明日からまた真っ白の日常がはじまる。
こんな日は
教室にいたくて
熊本、三日目。熟してきた単元。見えてきた子どもの問い。届いてきた学びの声。
さあ、三日目。
2時間目から6時間目まで、5時間の授業を見せてもらった。正直、こんなにうれしいことはない。学級をもっているような気にさえなってしまう。僕の小さな手帳には教室の事実がぎっしりと綴られている。
「考えさせないとあかん」。これが今回の教室研究のキーワード。昨年は「問いを立てさせないとあかん」だった。
今年。問いを立てる子どもの姿が教室にあった。この教室に「私の問い」は日常のものになっている。2年生の教室の36人の「私の問い」。申し分ない。グループでのやりとりに「問いの解決」「そのための見通し」「解決の順序」「よく似た問い」「新しい問い」などの言葉が自然と聞こえる。
間違いなく「学びかたを学んできた2年間」だった。これだけでも十分な研究の成果なんだろうけど、3人の教師たちのひたむきな研究はさらに先を丁寧に見ている。
「問いとその解決策」が彼らの先にある。
単なるコンテンツのやりとりだけでは終わらない。コンピテンシーベースの意味を忘れない。子どもが学ぶとはどういうことか。
放課後の単元学習研究会は熱い。そして授業を丁寧に言語化していくことが尊い。
本当にいい気分だ。僕も学び浸った自信がある。さわやかな気分だ。彼らと学び通した自信がある。期待でいっぱいだ。彼らには明後日がある。
かけがえのない3日間をありがとう。明日の朝、きっと、僕はさみしいはず。
熊本、ふつかめ
窓の向こうは朝。ちゃんと夜が明けている。神さまきょうもありがとうございます。
やっぱり子どもに考えさせないとあかん。子どもに考えさせてない授業が多すぎる。考えさせることができる機会を逃しすぎてる。もったいない。やっぱり教師の都合。子どもに考えさせるのが授業。
これは昨日の研究会での話題。それを今朝からすぐにやってみるのが「明後日の会」。
僕も学んでる。彼らの教室の談話に吸い寄せられてる。
では、ふつかめのはじまり。
授業は、妙にまとめようとしない三人の単元は勢いがある。立ち止まらなければならないところは、見事に時間をかけ、子どもが動き始めたらその姿を見守り、そして子どもの声を待っている。
時々、聞こえる「たずねていいですか、達富先生、」に僕も反応する。うれしい瞬間。
お昼はやっぱりいつものところ。きょうは釜揚げ。
単元は単元として成長する。子どもが単元を大きくしていく。だからこそ、何を学ぶ単元なのかをきちんと理解させることが大事だ。
明日もこの続きにふれられることをあたりまえに思ってはいけない。教室で生きることに感謝しかない。
神様、きょうもいちにちありがとうございます。
じゃあ、熊本で
熊本で合宿。授業ざんまい。教室研究に浸る三日間。今年もはじまる、熊本合宿。
九州新幹線の少しの遅れのため10時10分過ぎに熊本着。友人に送ってもらって附小。途中、車窓の藤崎台球場。夏が待ち遠しい。
午前のミゾの授業。本当に素晴らしい。子どもの学びに反応できる教師。頼もしい。僕の若い頃とはレベルが違う。間違いなく腕を上げてる。
お昼はいつもの麺処。間違いなく日本でいちばん美味いうどん屋さん。
まんぷく。幸せ。昼からの活力。ありがとう、島村さん。
午後は好敵手、中尾の授業。
中尾もますます味を深めた。安心、そして安定感のある展開。同時に、中尾らしい突拍子もない展開。本物を突き詰めようとしているからこその本質的な指導。素晴らしい!何より、子どもの声に対応できている。
夕方からの濃い研究会を終え、食事を済ませて帰ってきたいつもの宿。
部屋の窓の向こうにお城が美しく迎えてくれている。
熊本でお城にいちばん近いホテル。
神様、きょうも一日ありがとうございます。
力、出し切る朝
夕景、きょうも
東シナ海はいつまでもやさしくて
そうそう,きょうのお昼は日本でいちばん美味しい(と僕が決めた)おそば。椎茸の出汁が抜群。お肉の脂が絶妙。麺の絡みが巧み。日本一のおそばを食べているとき,錦織君が勝った。
ごちそうさまのあとは仲間のいる時津東へ。迎えてくれる笑顔とマイスリッパとお土産。何から何まで心地いい。今年2回目,あと22回は間違いなくって感じ。
そのあとは,きょうも東シナ海。
神様,ありがとうございます。そのことばをいつまでもいつまでもにぎりしめていたい東シナ海。
夕方からは西海東。20名の仲間は四角いストーブよりも熱い。2時間なんて,短い短い。「またね。」のことばがお愛想ではないことをみんな感じている。
ありがとう,ほんださん,花ちゃん,たかおさん,さかもとっ!
神様,きょうも一日,ありがとうございました。
ちゃんと生きなきゃ
はやくおいでよ、
きょうはPENNY LANEで
昨日は鹿児島、明日は長崎。きょうは自宅。PENNY LANE。
神様、きょうもきれいな朝をありがとうございます。
鹿児島、行ってきた。
朝からさつまの湯をいただいた。雲の向こうにあるはずの桜島に語りかけた。「また来るし、」。
湯上りは部屋の机で葉書を書く。ひとり旅ではいつものこと。きょうはおととい届いた二枚の葉書の返信と缶詰の会をお世話してくださったホテルのMさんへのお礼の一筆と何気ない一葉と。
そのあとは南日本新聞に目を通しての単元づくり。旅先の地方紙を材料に、自宅に戻るまでに一つの単元を作る、と決めて何年になるだろう。きょうも「ええこと思いついた!」とにんまり。
昼の予定までに余裕があるので、行けるところまで鈍行で北上することにした。
こんなものだ。鹿児島の旅。全然、特別なことじゃない。ちょっと仲間に会いに来ただけって感じ。ちゃんと仲間もいたし。語ったし飲んだし騒いだし。
もちろん単元学習における教室談話の研究はしっかりしてるんだけど。
鹿児島、行ってくるわ。
ちょっと、鹿児島行ってくるわ。ほな。
すうっと、息を
缶詰ロス
まぼろし、夢、陽炎、、、
なんでもいいから1月6日をもう一回やりたい。
土佐からも
人生最高の日は缶詰にしよう
僕の好きな長崎駅。
駅前の広場。NHKイブニング長崎でなじみ深い。
「白いかもめ」で友がやってくる。長崎に友が集まってくる。長崎で迎えてくれる友がいる。仲間っていいもんだ。
こんなにいい天気。最高の日曜日になる予感。
鹿児島の浪士が街中を歩いている。肥前の仲間がたむろしている。九州の各地から長崎に集う日曜日。僕はもう最高の気持ちに包まれている。
会場はホテルの会議室「グラバー」。八角形の部屋はぐるりと窓ガラス。胸の高鳴りを互いに感じる。
手づくりのカードを手に「はじめまして」「久しぶり!」「お名前はよく存じています」「あなたが壮さんですか?」があふれる。
話題提供は各県から小学校と中学校で6本。15分間の内容とは思えない質の高さ。
それぞれの話題についてのグループ協議の深さもこれまた終えるのがもったいないくらい。途中に添える僕のコメントがなんと拙いことか。
17時。勉強会おしまい。
「九州で九州の子どもたちの声を聞きながら学ぶことを続けていきましょう。」僕はそう語るのが精一杯だった。ほんとうはもっともっと気の利いたことを感動的に話したかったんだけど、この思いを伝える語彙や表現力が僕にはなかった。
だけど、そのあとのグラバーの部屋の拍手の響きは忘れられない。40名ほどの80の掌が奏でる拍手という響きがこんなに美しいなんて。僕からはありがとうの気持ちや学び切ったという感動を表すふさわしい言葉を届けられなかったけれど、みんなはちゃんと受けとめ共有してくれていたんだ。そう思うと、そのことがさらにうれしくって、この日曜日を缶詰にしてポケットに入れておきたくなる。
ということで、がぶ飲み。「グラバー」の次は「紫陽花」。こんなことさえたまらない演出に感じてしまう。
いちばん年の離れた友人の乾杯。そのあとは、県をまたいで語る。
坂本龍馬と高杉晋作?
薩摩の志士の終電を肥前が見送る。
時を忘れて語る。
どうせ力などないんだからって思っていた頃が恥ずかしい。だってみんなといればこんなに楽しいんだから。こんなことができるんだから。
「ちょっとくらい自分にも何かできそう!」そんな気にさせてくれるみんなにありがとうを届けたいなあ。缶詰と缶切り持って、打ち上げのがぶ飲みをしよう!


































































































































































































































